9 誰かを傷つけている
ざわついた教室で、板垣はくじ引きを開いた。黒板に書かれた座席の番号と見比べると、窓際から二列目の後ろの方の席だった。
板垣は机を持ち上げて移動する。
「20番はここで……隣、あっ」
向かった先で、板垣を見たクラスの女子が硬い声で呟く。その声に、近くにいた何人かが振り返った。
その女子は一瞬俯いた後、意を決したように手を挙げた。
「先生、私……席、変えてもいいですか?」
その言葉が出た瞬間、教室の空気がピタリと止まる。
視線が刺さるような感覚に、板垣の背中がじわりと熱くなった。
教室を沈黙が包み、担任教師の眉がわずかに動いた。
「和田さん? え、あ、なんで?」
「ちょっと……その、黒板が見づらくて。もうちょっと前の席がいいかなって……」
教師は困ったように視線を泳がせる。
「じゃあ、入れ替えようか。誰か代われる人いる?」
教室の隅から囁き声がした。
「マジかよ、そんなのアリ?」
「じゃあお前が替わってやれよ〜」
「いや、流石に……」
茶化していたような囁き声が次第に真面目な声に変わり、やがて途切れた。
しばらくの間、誰も答えなかった。
その“何もなさ”が、板垣の胸を静かに刺した。
腫れ物にされている。
触れたら自分までおかしくなるみたいに、誰も近づかない。
そんな孤独が胸の中で何度も反響した。
昼休みに入り、板垣は机の上に広げた弁当を見つめたまま、箸を動かせずにいた。食欲がないわけではなく、ただ、口に運ぶ気力が湧かなかった。
隣の席の早坂が、板垣をちらりと見て軽い声を投げる。
「どうしたの、断食でも始めた?」
「……別に」
早坂の目線が板垣の弁当に向き、冗談っぽく言った。
「最近弁当にあろまんの好きなチキン入ってないよね。元気ないの、そのせいじゃない?」
「関係ない」
板垣が小さく震えた声で返し、早坂は口を結んだ。
早坂は頬杖をついてしばらく考え込んだ。先ほどの席替えのことを思い返し、板垣を見て小さく微笑む。
「あろまん、気にしすぎだよ。普通にしてればいいじゃん」
“普通に”。その言葉が胸の奥を叩き、鈍く痛む。
板垣の箸が白米を強く刺した。板垣は弁当に視線を落としたまま言った。
「るみは、私のこと、『普通』だと思ってるの?」
板垣の言葉に早坂は一瞬目を丸くした。
早坂が答えようと口を開きかけた瞬間、
「ちょっと、いい?」
クラスの女子から声を掛けられる。
板垣が声の方を振り向くと、クラスの女子は板垣と早坂を見比べながら目を泳がせていた。板垣はその視線から逃れるように、一瞬で目を逸らした。
女子は声を小さく震わせた。
「次の体育、雨だから体育館集合だって」
「あ、了解」
早坂は軽い口調で返事をした。
女子は逃げるように教室の反対側へと走り去り、板垣はため息を吐いた。
「あろまんは私にとっては特別だから、普通かどうかはわかんないや。……だけどさ、あろまんが今まで通りでいればさ、みんなもそのうち分かってくれるんじゃないかな?」
早坂は軽やかに言い、ニッと笑った。
板垣は早坂の笑顔を見て、心が絞られる感覚がした。
――違う。このままだと……私の側にいる、るみの方が『普通』じゃなくなる。
だが、それを口に出すと、何かが崩れる気がしていた。
板垣は箸先で不恰好な卵焼きを突き、口元を引き締める。
「うん。普通にできるように、頑張る」
口から、本心と真逆の言葉が出た。
昼休み明けの授業中、体育教師の掛け声が体育館に響いた。
「二人一組作って」
掛け声の直後、板垣の周りで笑い声や足音が混ざった。
板垣は周囲を見回しながら、手は行き場をなくしたように中途半端に挙がり、立ち位置を何度も変えた。
ふと、早坂に言われた『普通にしてればいい』という言葉を思い出し、うっすらと笑みを作る。だが、誰も板垣と目を合わせようとせず、次第に板垣の周辺に空白が作られていく。
数十秒後、隅に立っていたのは板垣だけだった。
呼び掛け合う声や足音が止み、板垣と反対側の隅でひそひそと囁く声が上がった。
「私たち三人で組むからさ、早坂さん……」
板垣はその声にぴくりと顔を上げると、早坂と目が合う。
早坂は板垣を見て優しく微笑み、手を挙げて駆け寄ってきた。
「しょうがないな。私が組むよ」
その声がなぜか遠くに聞こえた。
「ありがと」
板垣は笑おうとしたが、頬がうまく動かなかった。
放課後、板垣は重たげなリュックを背負い、足早に昇降口へ向かった。
靴を履き替えようと屈んだ時、背後から早坂の声が聞こえた。
「あろまん、駅まで一緒に帰ろうよ」
その呼び掛けに、板垣の指先がぴたりと止まる。
「あんまり私と一緒にいると、るみまで変な子だと思われちゃうよ」
板垣が返すと、早坂は顔をしかめた。
「なにそれ。……別に、あろまんが悪いことしたわけじゃないでしょ」
早坂は強い口調で言い放った。
板垣は、早坂が慰めようとしてくれていることを察していた。だが、その『味方』の姿勢に腹が冷え込んだ。
――私のせいで、るみまで孤立の輪に引き摺り込むかもしれない。
しばらくの沈黙のあと、板垣は「じゃ、また明日」とだけ言って手を振り、急ぎ足で学校を出た。
背後で、早坂が言葉を失って立ち尽くしている気配がした。
板垣は駅に向かって早足で歩く。傘を持つ手が重く、手先が冷えて震える。
早坂の顔や声を思い返すたびに、胸の中の傷がじわじわと心を蝕んでいった。




