8 まずは飴から
近未来感を漂わせるガラス張りの研究棟に入ると、板垣はロビーできょろきょろと周囲を見回す。
「場所、ここで合ってるよね……?」
板垣はスマートフォンを取り出し、六条から送られていた案内メールをもう一度確認する。
研究棟を行き交う学生たちは、板垣を一瞥しながらも、特に反応せずに通り過ぎていく。板垣はなぜかそこに安心感があった。
だが次第に、どこからか強い視線を感じていた。
ふと、黒いハイネックを着てすらりとした青年がこちらを向いているのに気付いた。
目元が隠れるほどの前髪にやや猫背の姿。その青年は視線で板垣を捉えると、迷いなく迫って来た。
「え、なにあのひと。ちょ、怖い、こっち来る」
後退りをしようとした時、既に青年は目の前にいた。
「板垣あろまさん、ですか」
低い声が頭上から降ってくる。
板垣はびくりと肩を震わせ、消えそうな声で答える。
「はい……」
恐る恐る視線を上げると、暗くくすんだ瞳と目が合った。そして彼から仄かに煙草の匂いが漂う。
板垣は思わず肩を強張らせた。
青年は気にも留めず、ぼそぼそとした声で言う。
「六条研究室D1の西尾です。研究室に案内しますんで、ついてきてください」
板垣はぎこちなく頷き、西尾の後について歩いた。
エレベーターに二人で乗ると、気まずい沈黙に包まれた。
「あの」
板垣が声を出すと、西尾は振り向いて視線を板垣に落とした。
板垣は首を小さく傾げて尋ねる。
「でぃーいち、ってなんですか?」
「博士課程1年」
「……ラスボスの前座か何かですか?」
「大体合ってる」
そこから板垣の脳内で、中ボス戦BGMのようないかつい音楽が流れ始めた。
最上階に上がると、異様に静かな廊下に出た。蛍光灯の白い光が無機質な床に滲み、微かに薬品のような臭いが漂っている。
板垣は西尾の背中を追いながら、そっと足音を殺して歩いた。
「これからラスボス戦……」
板垣がぼそりと呟き、西尾の肩が一瞬びくりと揺れた。
廊下を進むと、突き当たりに『感性応答工学研究室』と書かれたプレートが掛かっていた。
西尾はその部屋の扉を乱暴にノックし、一気に開ける。
「板垣さん連れてきましたけど」
狭い部屋の中でデスクのパソコンに向かっていた六条は、驚いたように西尾を見る。
パソコンにずらりと表示された英文が目に入り、板垣は軽い頭痛を覚えた。だが直後に、その隣に積まれた羊羹の大箱や大量のチョコレートが見え、ごくりと唾を飲む。
六条は板垣を見てにこりと笑い、立ち上がった。
「西尾くんありがとう……そんじゃ、居室に行きましょう」
板垣が通されたのは、広めの居室だった。足を踏み入れた瞬間、コーヒーと薬品の混ざったような匂いが鼻を突いた。パソコンが置かれたデスクがいくつか並び、学生たちが作業をしている。壁際には大型のモニターが掛かり、反対側の壁際にはへたったベッドが置かれていた。
奥のスペースには難しそうな装置が並び、そのさらに奥の部屋に続くドアがある。
板垣は立ち止まり、異次元空間のような居室を眺めていた。
「ここで、何をしてるんですか?」
六条は微笑みながら口を開きかけると、西尾がそれよりも早く答えた。
「ここでは人の感情や感覚を数値化して工業的に応用するための開発をやってる。最近は実用化に向けてAIと連携させた企業との共同試験をやり始めた」
板垣はぽかんとして西尾を見た。
西尾は板垣が話を理解してないと察し、ノートパソコンを起動する。彼の修士研究発表のプレゼンスライドを開こうとしたところで、六条が西尾に無言の圧力をかけた。
「人の心を見る方法を、我々は考えているんだよ」
六条は答えながら、近くに置いてある箱から羊羹の個包装を2つ摘み上げた。
「心を、見る……」
板垣は六条を見上げると、六条から羊羹の個包装を差し出された。ふとその穏やかな笑顔の裏に、どんな感情があるのだろうと想像する。
「先生は、今、どんな気分なんですか?」
板垣は思わず尋ねていた。
「ようかん食べ」
「早く実験したいと思ってる」
淡々とした低い声が耳に刺さった。板垣が声の方に目を遣ると、西尾が小さく笑みを浮かべながら勝手に答えていた。
板垣は小さく頬を膨らませた。
「ってことで、準備します」
西尾が奥のドアを開け、実験室の中に消えた。
板垣がちらりと実験室の小窓に目をやると、西尾はうろうろと何度か往復し、棚を探っているようだった。
六条は羊羹を食べながらちらりと板垣を見る。
「準備が終わるまで、板垣さんはここで待ってて」
六条は空いた席を指して、そのまま西尾を追うように実験室に向かった。
板垣はデスクに向かって座る。目の前には、飴玉やキャラメルが山のように積まれていた。
板垣はそれらに目を奪われ、思わずごくりと唾を飲んだ。
だが、今は実験前の待機時間だ。
「い、今食べていいのかな……」
飴玉に向いた指先がぷるぷると震える。
板垣の視線がゆっくりと動き、ちらりと奥の実験室の様子を窺う。小窓からは、西尾らの姿が見えない。誰もこちらを見ていない。
板垣はごくりと喉を鳴らした。
――いただきますっ!
板垣は意を決して、飴をひとつ掴み、口に放り込んだ。
瞬間、舌の上で弾ける甘さに目を細める。
「ん〜っ、おいひい……!」
頬を膨らませながら、次々と飴を口に運ぶ。口の中でごろごろと甘さが踊っているようだった。
板垣は飴の甘さを味わいながらも、時々ちらりと実験室の様子を伺っていた。
――西尾さんも、先生も、見てない。ヨシ!
……あれ、この飴、私が食べていいやつなのか? そもそも食用? もしかして、バレたら飴代請求される?
板垣の顔が次第に白んでいく。
横の席で作業をしていた学生がちらりと視線を向け、小さな笑い声を漏らした。
板垣は頬をコロコロと膨らませながら学生に尋ねる。
「あ、あの今更なんですけど……この飴、食べていいやつだったんですか?」
「ふっ、大丈夫だよ〜。先生が君のために準備したやつだと思うけど。でも、飴を一気に何個も食べる子初めて見たわ」
学生は笑い混じりに答えた。
板垣は顔を赤らめて、飴の包み紙を高速で畳んで自分のリュックに押し込んだ。
ついでにキャラメルもごそりと掠め取り、リュックに押し込んだ。
「板垣さん、おいで」
六条に招かれ、板垣は実験室に入る。
実験室に足を踏み入れた瞬間、居室から隔絶されたような静寂に包まれた。
板垣は緊張した面持ちで、中央に置かれた丸椅子に腰を下ろした。
「それじゃ、センサーつけます」
西尾がケーブルに繋がれたセンサーを無表情で抱えている。
板垣は小さく身を竦めた。
「……あの、痛くないですよね?」
「超痛いから頑張って」
「んひッ」
板垣の悲鳴を聞いた西尾は短く鼻で笑い、固まった板垣のこめかみと手首にそっとセンサーを貼った。
冷たい感覚が一瞬、板垣の肌に吸いついた。その感触に思わず肩が跳ねるが、痛みはなかった。
板垣が目を開けて西尾をちらりと見上げると、西尾はにやりと笑った。
「このセンサー、俺らの開発品なんだよね」
板垣は自慢げに笑う西尾を見て、表情を次第に緩めた。やがて板垣は大人しくなり、西尾のなすがままになっていた。
西尾は残りのセンサーを抱えながら、考え込む。
「……あー」
そして無表情のまま突然腰を屈めて、板垣の制服に手を掛け始めた。板垣は驚いて「な、なに」と声を上げると、後ろにいた六条が西尾を制止した。
六条は引きつった笑顔を板垣に向ける。
「このセンサーは心臓の近くに……板垣さんが自分で貼ってくれるかな?」
センサーの装着が終わり、板垣は目を瞬きさせて西尾と六条を見る。
「あの。白衣、着ないんですか?」
西尾はふふんと鼻で笑うと、板垣は不満気に頬を小さく膨らませた。
「まあ、薬品とか使うわけじゃないし、必要ないんだよね。俺も先生も白衣着るのなんて、実験の授業で学部生の面倒見る時ぐらいかな」
西尾の答えに、板垣の口元から落胆混じりのため息が出た。
「まあ、気分は上がらないよねえ」
六条は困ったように笑い、隣で西尾は首を傾げた。
「そんじゃ、始めますか」
西尾の低い声と同時に、どこかの装置から小さな音が鳴った。
六条がパソコンの前に座る。隣にいた西尾は、そのパソコンを操作して心拍や脳波などのバイタルデータを表示させた。滑らかな曲線が、板垣の呼吸に合わせて上下している。
「まずは板垣さんのことを少し教えてもらえるかな?」
板垣の耳元のヘッドホンから穏やかな声が聞こえた。
「えっと……な、何から話せばいいですか?」
板垣は両手を泳がせる。
「板垣さんの好きな食べ物は?」
六条は穏やかな声で尋ねると、西尾が「小学生かよ」と小声で呟いた。
板垣は少し考えて、口を開く。
「……チョコレートが好きです。あ、甘いお菓子が好きです」
西尾はモニタリングされたデータを見ながら、「普通っすね」と呟く。六条は黙って小さく頷いた。
板垣は弾んだ声で話を続けた。
「それで、さっき、そこの机にあった飴をついたくさん食べちゃったんですけど、美味しくて、幸せでした」
両腕を振り回しながら笑顔で話していたが、ふと身体の動きがピタリと止まる。
そしてゆっくりと目が開き、口を開いたまま固まった。
――うわ、勝手に飴食べたこと言っちゃったああああああ
「うん?」
六条は板垣の表情に違和感を覚え、パソコンの画面の数値を確認した。
「心拍数上がってますね」
隣で西尾が淡々と言う。
「……まあ、続けようか。基準データになるかどうかは後で判断しよう」
その後もしばらく測定が続いた。
板垣が話すたびに、モニターの波形が微妙に色を変えていった。
「うん、いいデータ取れてそうだね」
六条はその変化をじっと見つめ、低く呟いた。
西尾も興味深そうに画面を眺めながら、指先で小さくクリックした。
板垣には、それが何を意味するのか分からなかった。
ただ、六条の穏やかな笑みの奥で、何かが静かに観測されている――そんな予感だけが残った。




