6 苦しい理由、優しい理由
昼前の授業中、チョークが黒板を引っ掻く音が教室に響いていた。黒板に並んだ白い文字を見ながら、板垣は口元を押さえて欠伸を噛み殺す。ペンがノートの上をさらさらと滑るような音を聞きながら、板垣は昨晩のことを思い返した。
あの時、父親は書類を一瞥しただけで、迷いなくペンを走らせた。
板垣の指先にそれと同じ軽さが蘇る。重いはずの紙が、あまりにもあっさりと手を離れていった感覚。
視線を落とすと、リュックの口が少し開いているのが見えた。中から覗く同意書が入ったクリアファイルに気付き、思わずペンを握り直す。
「えーと、今日は誰から当てようかな」
教師の掛け声に板垣は背筋をびくりと伸ばし、慌てて視線を戻した。
チャイムが鳴り、教室のあちこちで話し声が弾む。
前の席の生徒が振り返りかけ、板垣の姿を見て、何も言わずに向き直った。
「……あろまん」
背後から小さな声に呼ばれて顔を上げると、早坂が板垣の肩に両腕を置いた。
「なんかぼーっとしてない? 寝不足?」
早坂は後ろから板垣の頬を摘まんで伸ばし始める。板垣は「うにゅィ」と間抜けな声を出して早坂を細目で睨みつけた。
しばらくじゃれ合った後、早坂は板垣の顔から手を離した。ブレザーのポケットを探り、板垣に黒い個包装のチョコレートを手渡した。
「あろまんの好きなやつ、あげる」
「ありがと!!」
板垣は目を輝かせてチョコレートを受け取り、その場で口に放り込んだ。
満面の笑みでチョコレートを食べる板垣の様子を早坂は満足げな表情で眺めていたが、ふと何かを思い出したように目を開いて板垣を見た。
「そういえば昨日さ、放課後、先生と何話してたの?」
板垣は何度か瞬きをする。
「え、えっと……」
視線が宙を彷徨い、指先がペンをくるりと回した。
「あの事件のことで、ちょっと……説明、みたいな」
答えた後、板垣は目を泳がせながら口を固く閉ざした。
早坂は首を小さく傾げて板垣の顔をじっと見ていたが、深くは追及しなかった。
「そっか」
早坂は短く尖った返事をして、自分の席へと戻って行った。
板垣はスマートフォンを起動してぼんやりと画面を見た。ふと六条からのEメールの通知に気付き、慌てたように指先を滑らせてメールを開いた。
『調査協力の件、親御さんの同意は得られそうでしょうか?』
板垣は喉の奥が締め付けられ、その先の本文が頭に入らなかった。
父親への説明のために用意していた言葉は、どれも口に出されないまま喉の奥に残っている。
――同意は貰えたのに。
別に、反対されるよりは良かったはずなのに。
なんで、こんなに苦しいんだろう。
そしてメールの最後の文が目に飛び込む。
『もし板垣さんが困っている時は、どんなことでも構わないので連絡ください。』
視界が滲み、思わず俯く。うまく呼吸が出来ず、熱い涙が頬を伝っていく。
――先生に、全部ぶつけてしまおうか。この訳の分からない苦しさと不安を。
板垣は腕で涙を拭い、震える指先で『返信』ボタンに触れようとした。
その時、肩に確かな重みが触れた。
早坂の手だった。板垣の心の痺れが、その手のひらの温度によって少しずつ感度を取り戻していく。
「無理しないでよ」
早坂が板垣の肩を撫でるように軽く叩く。早坂の声が板垣の耳に届いた瞬間、板垣の視界が鮮明になった。自分を飲み込もうとしていた感情の波が引き、心がすとんと着地する。
「ありがとう」
板垣は涙を拭いながら、小さく頷いた。




