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5 それは、救済のように

 帰りのホームルームが終わり、教室では各々が荷物をまとめていた。

 板垣は膨らんだリュックに手を掛け、前屈みになりながら背負う。そのまま小走りで教室を出ようとした時、

「板垣さん、ちょっといい?」

 担任教師に呼び止められた。

 板垣はびくりとしてその場で立ち止まり、ぎこちなく頷いた。


「大学の先生が、板垣さんと話がしたいって言っているそうなんだけど」

 担任教師の言葉に板垣の呼吸が早くなる。

 板垣は手先を弄びながら尋ねた。

「えと……なんでですか?」

 担任教師はしばらく首を傾げ、ため息混じりに答えた。


「板垣さんの事件について、調べたいんだって。カウンセラーとも相談したんだけど、私たちの意見としては、やめたほうがいいと思う。でも一応板垣さんの意見も確認したくて」


 “事件について”という単語が、板垣の胸の奥の傷に触れた。思わずリュックの肩紐を強く握りしめ、鼻から強い息が漏れる。

「調べるっていうのは……インタビューみたいなやつ、ですか?」


 また自分の傷が誰かに消費されるのではないかという不安が胸をよぎる。

 この数ヶ月間、板垣を苦しめていたもの。それは、憶測と感情だけが広がっていたことだった。

 『精神異常者』、『人殺し』。

 世間の囁きが、まるで真実であるかのように形作られた。

 何があったのかさえ誰も知らずに。知ろうともせずに。


 担任教師は首を傾けたまま答えた。

「板垣さんに起きた異変を調べたいって話だったよ。『まずは話だけでも』って言ってたけど、板垣さんの負担になるから、やっぱり……」


「私は、その人と話がしたい、です」

 板垣は思わず答え、その返答に自分自身で驚いた。ただ、胸の中で漂っていた思いが、静かに固まっているのを感じた。


 あの時何が起きたのか、知りたい。精神異常者として騒がれるのはもう嫌だ。


 板垣は訴えるような表情で担任教師を見上げた。

 担任教師は驚いた顔で板垣を見ていた。




 数日後の放課後、板垣は担任教師に手招きされて教室を出た。

 板垣は恐怖と緊張のあまり全身を強張らせて廊下を歩く。膝が小刻みに震え、右手と右足を同時に出してぎこちない歩き方をしていた。


 ――大学の先生って、きっと偉くて怖い人だよね。事件の時のこと、うまく話せるかな。また取り調べの時みたいに……


 板垣の脳裏に取調室の光景が思い返された。

 無機質な白い光に張り詰めた空気。刑事から向けられた怪訝な表情。

 板垣は思わず身を竦めて俯く。廊下を歩く歩幅が小さくなっていた。


 カウンセリング室に通されると、板垣は息を止め、手を震わせながら恐る恐る部屋のドアを開けた。

「失礼しま……ほえ?」

 板垣は思わず間抜けな声を漏らした。


 そこにいたのは、『大学の先生』のイメージからかけ離れた、柔らかい表情の若い男だった。

「初めまして。よろしくお願いします」

 男が板垣を見て穏やかに笑うと、板垣は空気がふと和むのを感じて、肩から脱力した。

「よろしくお願いします……!」


 板垣は椅子に浅く腰掛け、両膝を抱えるように手を置いた。座り心地の悪さに、板垣は何度か椅子から腰を浮かせては座り直していた。


 男は板垣が落ち着くまでじっと待った後、微笑みながら無駄のない手つきで名刺を手渡してきた。

文永(ぶんえい)大学の、六条(ろくじょう)です。今日は時間取ってくれてありがとう」


 板垣は名刺を両手で受け取り、名刺をしばらく見つめた後に思い直ってびくりと背筋を伸ばす。


「あ、港高校1年2組の、板垣あろま、です。……あの、私、名刺持ってないです。すみません」

 板垣が小さく慌てると、六条は吹き出し、一瞬肩を震わせた。


 板垣はあっけにとられて六条の姿をぼんやり見ていた。

 一切皺の無いシャツとジャケットを着て、まっすぐ伸びた背筋。だが、六条から板垣に向けられた目線は、どこか包み込むように優しかった。


 板垣は渡された名刺に視線を落とす。

「文永大学、理工学部、融合工学科……えっと、六条、教授……?」

 板垣が確認するように呟くと、六条は困惑したように笑って答える。

「教授じゃなくて准教授ね。『先生』でいいよ」

「……はい、先生」

 板垣は小さく息を吐いて控えめに笑った。


 やがて六条はノートパソコンを開き、柔らかい声で話しかける。

「板垣さん。事件が起きたとき、何が見えたか、覚えている範囲で教えてくれるかな?」


 板垣は小さく頷き、言葉を選びながらたどたどしく説明した。途中で何度か眩暈のような感覚や息苦しさを感じ、言葉を詰まらせた。

 六条は時折相槌を打ち、眉をひそめることもなく、じっと板垣の目を見ていた。


 何とか一通り説明を終えると、板垣は大きくため息をついた。気付くと目に涙が滲み、鼻が少し詰まっていた。

「大変だったね……。でも、話を聞かせてもらえてよかった」

 六条の声に、板垣は肩の力が抜けた。久しぶりに誰かに理解される感覚があった。


「私から板垣さんにお願いがあって」

 六条が真面目な顔になり、板垣の背筋が伸びる。


「板垣さんに起きた謎の現象を解明したいんだ。だから、協力してくれないかな? ……これは正直に言うと、私の好奇心に付き合ってくれという申し出なんだけど」

 六条は小さく息を吸い、続けた。

「でも、板垣さんにもメリットはある。もしかすると社会の役に立てるかもしれない。そして、その現象を解明すれば、板垣さんがこれ以上苦しまないように対策ができる」


 六条は資料を取り出し、慎重に同意書を差し出す。板垣は受け取った書類を眺め、目を見開いた。


「協力、したいです。私も、あの時自分に何が起きたのか、知りたいです」

 声は小さいが、迷いはなかった。


 六条は微笑みながら頷いた。

「ありがとう。協力には親御さんの同意も必要なんだ。だから一度、板垣さんの親御さんにも説明したいんだけど、そのことを伝えてくれないかな?」


 板垣の頭の中にふと父親の顔が浮かび、思わず苦い顔をした。

 板垣の表情を見て、六条の目線が一瞬柔らかくなる。

「もし板垣さんが困るようなことがあったら連絡してね」

「……分かりました。私からも、頑張って説得してみます」

 板垣は強く頷いた。




 帰宅してから、板垣は自室の机に向かっていた。

 落ちかける瞼を擦りながら参考書を眺めていると、玄関から物音がして、同時に部屋を飛び出した。


 玄関で、帰宅した父親に同意書を差し出す。

「お父さん、あの。事件のことで今度、大学の先生の調査に協力しようと思ってて」


 父親は片手で同意書を受け取り、疲れたような目で板垣を見る。

 板垣は緊張混じりに続けた。

「それで、お父さんの同意が必要だから、今度、先生からお父さんにも説明したいって言ってたんだけど」

 板垣は身体をぷるぷると震わせながら上目遣いで父親を見た。


 父親は脱ぎ捨てた靴を揃えながら書類を一瞥し、同意書を床に置いてその場でサインをした。そこには板垣の将来を案じる迷いも、板垣に何が起きるのかを知ろうとする関心も、一滴も混じっていなかった。


 板垣は拍子抜けして父親の手元を見る。

「説明は……」

「大学の先生なら大丈夫だと思う。はい」

 父親のあっさりした返事に、板垣はそれ以上何も言い返せなかった。



 板垣は自室に戻り、サインされた同意書を眺めた。

「お父さん。私のこと、どうでもよくなったのかなあ」

 同意書をクリアファイルに入れようとすると、六条から渡された名刺が目に入った。そしてふと夕方のやり取りを思い返す。板垣の話を真剣に聞き、板垣の感情ごと理解しようとしていた六条の姿に、信頼と安堵を覚えた。


「お父さんよりも、あの先生の方が……」

 板垣は同意書のサインに小さな孤独を覚えながら、ベッドに倒れ込んだ。



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