43 隣にいる理由
この日の朝の教室は、いつもよりも少しにぎやかだった。教室のあちこちで交わされる会話をよそに、板垣がぼんやりと黒板を眺めていると、登校してきた早坂が隣の席に着く。
板垣は顔をぱっと早坂に向ける。
「るみ、おはよ」
「お、あろまんおはよ」
短い挨拶を交わした後、板垣はじっと早坂を見つめていた。
照明の光が、机の上にぼんやりと早坂の影を作っていた。
早坂はリュックから取り出したテキストを机の上でトントンと揃え、整えながら机の中に入れていく。その目線は手元に集中し、口はまっすぐに閉じていた。
板垣は黙ってその様子を見守り、早坂がリュックのファスナーを閉じたのを見計らって声を掛ける。
「るみ。あの、この前のこと、謝りたくて。……ヲガワさんの動画で、騒ぎになった時」
早坂が顔を上げ、少し重たげな瞼から何かを測るような目が覗いた。板垣は思わず一瞬目を逸らし、恐る恐る視線を合わせ直した。
「るみにきつく当たって、ごめんね。あの時、不安な気持ちを自分で処理できなくて、るみに押し付けてた。……多分、研究室のことを知られて、焦ってたんだと思う」
早坂の瞼が持ち上がり、口が開きかける。早坂は開いた口から息を吸い、吐き出すと同時に答えた。
「私もあろまんのこと、分かったつもりになってた。自分の気持ちだけで、踏み込んでいいとは限らないんだって分かった」
早坂は再び口から息を吸い、続ける。
「これ以上何も知らないまま、あろまんのこととか、研究室のことで騒がないようにするから」
板垣の口から安堵のため息が漏れた。
「ありがとう。騒ぎも落ち着いたし、るみも自分のこと責めないでね」
「……わかった」
早坂は俯いて答えた。
板垣は小さく頷き、前に向き直る。途端に教室のざわめきが近くなり、薄明かりに包まれた黒板がはっきりと輪郭を持ち始めた。
早坂は板垣の横顔をちらりと窺う。目線は安らかに前を見据え、ゆったりとした呼吸に合わせて肩を上下させている。
その落ち着きように見惚れながら、早坂の頭の中で板垣の言葉を思い返した。
『研究室のことを知られて、焦ってた』
その言葉が、早坂の脳裏に刺さったまま残る。早坂は板垣を見ながら、口を少し開けた。
――あろまんは、なんであの時、焦ったの?
その言葉は声にならずに、早坂の喉奥に落ちた。
板垣は前を向きながら、何度も早坂の視線を感じていた。だが、その視線の意味を考えるまでに至らなった。
帰りのホームルームが終わり、板垣はリュックを背負って席を立つ。いつものように早坂に声を掛けようとした瞬間、早坂から先に声が掛かった。
「あろまん」
早坂は板垣を見て続けた。
「私も大学の研究室に行くわ」
板垣は聞き間違いかと思い、早坂に聞き返す。
「今なんて?」
早坂は眉間にしわを刻み、板垣に言い聞かせるように言った。
「私も、あろまんと一緒に、これから大学の研究室に、行く」
「……なんで?」
板垣は目を丸くして首を傾げる。
「あろまんのこと、本当のことをちゃんと知りたいから」
板垣はしばらく固まる。
『いいよ』という返事が、喉で詰まっていた。
板垣はぎこちない手つきでポケットからスマートフォンを取り出した。
「じ、じゃあ、先生にるみも行くって連絡するね」
早坂は手を上げて板垣を静止する。
「わざわざ連絡しなくて大丈夫だよ。本田さんから予め話してもらってるから」
板垣はきょとんとして早坂を見つめた。
駅のホームで、板垣と早坂は無言のまま並んでいた。耳の遠くで鳴るアナウンスを聞き流し、互いの視線は平行線のまま、線路の向こうの壁を向いている。
板垣は膝をぷるぷると震わせながら、ちらりと早坂の横顔を窺った。早坂は前を向いたまま睨み付けるように壁を見ていた。
板垣はその顔に小さな不安を覚え、前を向いて俯いた。
やがて目の前に電車が風を切って走ってきた。
電車の中でも、駅に降りた後も、二人は無言だった。
駅から出ると、板垣は早坂を窺いながら、大学への道のりを歩いていく。
冷たい風が板垣の頬を撫で、板垣は小さく身震いした。
やがて文永大学の構内に入ると、早坂はあたりをきょろきょろと見回した。
角張った大きな建物が並び、大学生がキャンパス内をぱらぱらと歩き、まるで異世界のような空間に、早坂は息を呑んでいた。
やがてガラス張りの研究棟の前に着くと、板垣は立ち止まった。
「……ここ」
板垣が早坂を振り返った途端、驚いた顔で固まった。
早坂は顔に汗を滲ませ、肩を小さく震わせ、まるで足を掴まれているかのように板垣の数メートル後ろで立ち止まっていた。
「るみ?」
板垣が早坂の元に駆け寄ると、早坂は白んだ唇を震わせて言った。
「んやっぱ、怖いいぃぃ!」
早坂は板垣に抱きついた。その腕の力は強く、板垣の制服を指先が白くなるまで握りしめていた。
板垣は困ったように笑いながら、早坂の背中を撫でる。
「私が隣にいるよ」
板垣の手が、早坂の背中の上を何度も往復する。震える早坂を宥めるうちに、板垣はなぜか自分の手が温かくなる感覚がした。
目の前で震える背中を見て、忘れかけていたものを思い返す。
――るみのこと、守らなきゃ。
それはここで生まれた決意ではなく、もともとそこにあったものを掘り起こしたような心の声だった。
早坂の背中の上を滑る板垣の手の動きが少しずつゆっくりになっていき、それに答えるように早坂の呼吸も穏やかになる。
早坂は全身に血が巡る感覚を覚え、ゆっくりと息を吐いた。早坂は何度か深呼吸をして、ようやく肩の震えが止まった。
板垣は早坂に目配せして、顔を上げる。
「じゃ、行こうか」
板垣の声を合図に、二人は研究棟に歩み進めた。
目の前にそびえ立つ研究棟の窓ガラスが、夕闇を反射して無機質な光を放っていた。




