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42 中心人物が、一番の俯瞰者

 板垣はビターチョコレートを口に放り込んだ。

 途端に口の中に甘さが広がり、小さな幸福感で頭の中が痺れる。


 隣に座る西尾が居室の中を見渡した後、小さくため息を吐いた。

 研究室の壁際の時計は午後6時を指し、部屋の中にいるのは板垣と西尾の二人だけだった。


 静寂を破るように西尾がぼそりと尋ねた。

「この前さ、先生に何されたん」

 その問いに板垣は「え……」と喉奥で声を濁らせる。板垣の頭の中で言葉が整理できず、ただ激しい動悸だけが蘇った。

 板垣は浅い呼吸を繰り返し、困ったように西尾を見た。


 西尾は板垣の様子を見て真顔になり、勢いよく立ち上がる。イスがひっくり返り、床に叩きつけられて大きな音が響いた。

「は?」

 西尾は視線を揺らしながら怒声を上げた。

 板垣は慌てたように開いた両手を西尾の前に突き出す。

「あの。多分、西尾さんが心配してるようなことは……されてないです」

「あ、そうなの?」

 西尾は倒れたイスを元に戻して座った。


 板垣は前髪をつんつんと触りながらぽつりと零した。

「なんかあの時、先生いつもと違って様子がおかしかったんですよね」

「いや、先生はいつもおかしいけど」

 西尾のツッコミに板垣は「ほえ?」と声を漏らし、両足をぶらぶらとさせながら俯いた。

 板垣は一度深呼吸をした。

「あの時、先生から最初に、研究室が辛くないのか、先生のところから離れたいのかって聞かれたんです」

「ふうん。まともやんけ」

 西尾がぼそりと呟くと、板垣は勢いよく首を横に振った。

「ややや。先生は『みんな邪魔して、私を先生のところから引き剥がそうとしてくる』みたいなことを言ってて。それも結構マジなトーンで機嫌悪そうで、怖かったです」

 板垣が手をくるくると回しながら言うと、西尾は目を見開いた。


 板垣の頭に血が上り、肩が小さく震える。

「もしあの時西尾さんが来てくれなかったら……」

 板垣は一瞬息を止めた後、深く吐き出した。喉元を熱く震えた息が通り、頭が痛くなるくらいに脈打つ。

 動悸の理由が何なのか、板垣は分からなかった。


 西尾の口から煙草臭いため息が吐かれる。

「大変だったね」

「大変、なんでしょうか」

 板垣はぽつりと呟く。


 西尾はちらりと板垣を見て尋ねる。

「板垣さんは、『研究室が辛くないのか、先生のところから離れたいのか』って聞かれたとき、どう答えたん?」


 板垣の視線が一瞬上を向く。

「辛くないです、って答えました」

「辛くないって、本当にそう思ってる? どうしてそう答えたん?」

 西尾の問い返しに、板垣は胸の奥が渦巻くようにざわついた。


 ――ここにいる理由が、もう“事件の真相を知るため”という建前から遠ざかっている。

 先生に優しくされたい。だけど、その優しさの裏に恐ろしいものがある気がする。

 るみの手を掴みたい。だけど、るみを不幸にするかもしれない。


 どこに行こうと考えても、説明のつかない気持ち悪さが付いてくる。


 離れたいのか、離れたくないのか。

 誰にしがみつけばいいのか。

 自分は、何がしたいのか。


 その全部が胸の中で絡まり合って、解けなくなっていた。


 板垣と西尾はしばらく見つめ合った。


「今西尾さんと話してて思ったんですけど」

 板垣はチョコレートの新しい個包装を開け、ゆっくりと口に入れた。

 しばらく目を細めて口を動かしている板垣を、西尾は黙ってまじまじと見つめる。


 板垣はごくりと飲み込んだ後、口を開いた。


「誰かに守ってもらうのが、悪いことだとは思わないんですけど。ただ……誰の言葉を信じていいのか、分からなくなってきて」

 板垣の声が、室内の静寂に溶けて消えた。


 西尾は目を見開いて固まっていた。

 天井の隅の蛍光灯がちらちらと点灯し、空調の音が静かに部屋に響いていた。


「まあ。他人の善意ばかりを当てにしてたら、ろくなことないからね」

 西尾は板垣を励ますように呟きながら、背筋が冷えるような違和感を覚えた。


 板垣はぼんやりと天井を見つめた。

「……みんな、私のためにって言ってくれます。ありがたいはずなのに、どこに立てばいいのか分からなくなるんです」

 西尾が眉を寄せて板垣を見つめる。

 板垣は手元のチョコレートの包装紙を指先で弄び、くしゃくしゃと鳴らした。


「でも、じゃあ私がどうしたいのかって言われると、よく分からなくて。だけど、みんなが言う『守る』とか『救う』って言葉を聞くと、自分がそこに押し込められるような気がして……」

 板垣の声はだんだん小さくなり、最後は自分でも聞き取れないほどだった。

 西尾は何も言わず、ただ静かに板垣の言葉を待っていた。


「……私、今、誰の手を掴めばいいんでしょうね」

 板垣は苦笑しながら言った。その言葉が宙に漂い、空気が少しだけ冷えていた。


 西尾は左手をゆっくりと開き、手のひらを眺めた。板垣の問いに答える資格が自分にあるのか分からない。

 ただ腹の奥から冷えるような感覚を噛み殺しながら、左手を握って静かに下ろした。



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