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40 依存と執着と、停止線

 板垣は父親と並び、六条の居室のドアを叩いた。

「失礼します」

 板垣の父親の緊張した声が居室に響く。


「初めまして、わざわざお越しくださってありがとうございます」

 六条はにこやかに父親に挨拶をし、父親も表情を緩めて頭を下げた。

「突然ですみません。あろまがいつも……お世話になってます」

 板垣は黙って膝を震わせながら二人の様子を見守っていた。


 六条は板垣に笑いかける。

「板垣さん、……あ、あろまさんは、学生居室で待っててもらえるかな? お父さんと二人で話がしたいんだ」

 板垣は一瞬硬直し、「分かりました」と呟いて部屋を出た。


 板垣は部屋のドアを閉め、学生居室へと向かう。

「大丈夫、かなあ……」

 板垣は二、三歩歩くごとに後ろを振り返り、廊下の静けさを確かめていた。


 学生居室のドアを開けると、西尾がパソコンに向かっていた。

「西尾さん、遅くまで何してるんですか」

 板垣が言うと、西尾はびくりと背筋を伸ばして板垣を見た。

「え、板垣さん何でいるん? 幻覚? 生霊?」

 西尾が目を丸くして尋ねると、板垣は顔を曇らせる。


「父が、先生と話したいって……」

「……そうか」

 西尾は何かを察したように重々しく呟いた後、デスクの上にあったチョコレートの大袋を板垣に差し出した。

「まあ、これ食べな」


 板垣は味のしないチョコレートを噛みながら黙っていた。ふと西尾に目を向けると、西尾は小さく鼻歌を歌いながらパソコンで作業をしていた。

 板垣は小さく頬を膨らませて西尾を見つめた後、視線を落とした。

 静寂の中で、西尾の怪しい鼻歌とマウスのクリック音が小さく響いていた。


 しばらくして鼻歌が止み、西尾が尋ねる。

「お父さんが来ることになった理由ってさ……板垣さん、お父さんに何か話したの?」

「いや。この前の炎上がきっかけでちょっと口喧嘩になって」

 板垣は俯きながら答えると、西尾は小さくため息を吐いた。

「……まあ。父親だもんな。さすがに心配するか」

 板垣は肩を小刻みに震わせながら、テーブルを睨みつけていた。

「私が研究室通いになったばかりの頃は、私のことなんて全然気に掛けてなかったのに。なんで今さら……」

 板垣が呟くと、西尾は驚いて板垣を見る。


「あー。それで先生のこと父親の代わりとか言ってたのか……」

「ほえ?」

 板垣が首を傾げ、間抜けな声を出した。

 西尾は表情を緩めて小さく首を横に振った。


 西尾は再びパソコン作業に取り掛かった。

 しばらく西尾のタイピング音とマウスのクリック音が軽々しく響いていた。


 板垣は平たい目で西尾を見る。

「西尾さん、なんかいいことあったんですか?」

 西尾は一瞬驚き、目線を斜め上に上げる。

「……ちょっと、ね」


 板垣は口元を緩め、小さくため息を吐いた。

「西尾さんが嬉しそうだと、なんだか私もちょっと嬉しくなります」

「ん」

 西尾は口をもそもそと動かして照れ笑いをした。板垣もつられるように、小さく笑い声を漏らした。


 しばらくして、板垣が口を開く。

「話長いなあ。ちょっと様子見てきます」

 居室を離れ、廊下に出た。


 六条の居室に向かうと、ちょうど部屋から父親と六条が出てきたところだった。

「今日はありがとうございました。これからもあろまのこと、よろしくお願いします」

 父親の声が廊下に響く。

 板垣は二人の元に駆け寄った。父親は板垣を見て、笑顔を浮かべたまま言った。

「あ。ちょうど終わったところだよ。先生から、あろまとも話がしたいって」

「私?」

 板垣が目を丸くすると、六条が優しく声を掛けた。

「ちょっと話しよっか」

 板垣は息を呑んで頷いた。



 板垣は六条に促されて居室に入る。

「……あの。父との話は、大丈夫でしたか?」

 板垣は緊張しながら尋ねると、六条はふわりと笑った。

「当分の観察については問題ないって。まあ、板垣さんの精神面に不安が出たらまた相談しますっては言ってたけど」

「……そうですか」

 板垣は安堵のため息を吐いた。


 しばらく部屋に静寂が落ち、板垣は俯いて黙っていた。

 顔が熱くなり、心臓が痛いくらいにうるさく鳴り響く。


 板垣は耐えられず、口を開いた。

「で。話って、なんですか」

「板垣さんにはちょっと愚痴を聞いてほしくて」

「……はい?」


 六条はゆっくりと部屋をうろつきながら話を始めた。

「最近、『板垣さんを救いたい』って言ってる人たちが、私の邪魔をしてくるんだよ。私は、板垣さんがこれ以上苦しまないための対策をやっているだけなのに、みんな私の元から板垣さんを引き剥がそうとしている。まるで、ここにいると板垣さんは不幸になると言わんばかりに……」


 六条は板垣の前で立ち止まり、問いかけた。

「正直に教えてほしいんだけど。板垣さん自身は、ここにいると辛い? 私のところから、早く離れたいかな?」


 板垣は俯いたまま、唇を噛む。

 ――研究室にいる時は、嬉しくて、安心できる。実験は辛いこともあるけど、先生の近くにいると、よく分からないけど幸せな気分になれて、ずっとここに居たいと思ってしまって――


 息が詰まる。頭に血が上り、全身がぷるぷると震えた。

 その時、板垣の脳裏に、西尾から言われた『それは依存かもしれない』という言葉がよぎった。


 板垣は頭の中を冷まそうと深呼吸を繰り返す。息を吐く度に、鼓動が胸を叩きつけているようだった。

 ――こんな『よくない感情』、正直に言える訳がない。


 板垣はしばらく言葉を詰まらせる。

 茹ったような頭の中でぐるぐると言葉を選び、俯きながら呟いた。


「別に、辛くないですよ。感情的には色々ありますけど……ここに居ること自体は、辛いと思ってないです」

 その言葉に嘘はなかった。


 六条は板垣の前で屈み、穏やかに言った。

「そうなのかな? 板垣さん、全然こっちを見て話してくれないから、本当にそう思ってくれてるのか不安だし、ちょっと寂しいんだよな」

「っはぁ?」

 板垣の心臓が跳ねる。

 板垣は奥歯を強く噛みしめて、目を閉じた。


「先生は、私の心の中は全部筒抜けだって言ってたじゃないですか。あれから……怖くて、先生のことなんて見れないですけど」

「じゃあ、さっき板垣さんが言った『辛くない』って言葉、本当は嘘なのかな?」


 六条の問いに、板垣は目をゆっくり開き、視線を恐る恐る上げた。

 板垣は睨むような視線を六条に向けると、目が合った瞬間、六条は板垣に微笑みかけた。

「やっとこっち見てくれた」


 板垣は一瞬息を詰まらせ、歯を食いしばった。

「っ……研究室にいるの、別に辛くないです。……これで、信じてもらえますか?」

 板垣は頭の熱さに耐えられず、言い終わってすぐに俯いた。呼吸が早く震えているのに気付き、それが板垣を焦らせる。


 焦りを誤魔化すように深呼吸をすると、六条が神妙な顔で尋ねた。

「その反応……情動破壊の予兆が来てる?」

「違いますけど」

「『違う』と断言できる根拠があるのかな? 今の板垣さん、実験やってる時の初期段階と同じ様子なんだけど」


 板垣は素早く一歩退いた。六条は板垣の左腕をゆっくり掴み、手首のスマートウォッチを見た。

「傾向も実験時と同じだ。分からないな。情動破壊との差別化要因は何だ?」

「違います、よ。実験の時と気持ちの種類が全然……」

 声が次第に萎み、板垣は俯きながら膝をぷるぷると震わせた。

「違う? どうすれば確かめられる?」

「はえ!?」


 突然、肩に強い力が加えられ、板垣は全身をびくりとさせる。目線を少し上げると、六条は板垣の両肩をがっちりと掴み、息を荒げながら俯いていた。

「……その反応の裏で、板垣さんの中で、何が起こってるのか、全部知りたい」

 板垣が恐る恐る顔を上げると、六条と目が合った。その視線は異常な熱を帯びていた。


「どうしたんですか……?」

 板垣は頭が熱くなると同時に、悪寒が背筋を這い上がった。怯えた表情で歯を震わせ、六条から目を逸らす。


 六条は目を細めて右手で板垣の顎を上げ、体温を測るようにゆっくりと頬を撫でる。

「いい表情だ。今はどんな感情なのかな? 情動破壊時とは何が違う? どうすれば、板垣さんの内側を知ることができる? 全部、教えてくれないかな?」


 板垣は答えられないまま固まる。呼吸が浅く、何も考えられず、胸の苦しさを感じた。


 狼狽えながら無抵抗になった板垣を、六条は柔らかく微笑みながら観察するように見つめていた。やがて六条は板垣の肩の震えや呼吸音を確かめるように顔を近づける。


「……どこにも行かないでね」

 囁き声が板垣の鼓膜を撫で、板垣の肩がびくりと揺れる。

 板垣は脳の処理が追いつかず、恐怖と安堵が泥のように混濁していく。

 優しいのに、怖い。逃げたいのに、離れたくない。

 激しい動悸を感じながら、ただただ訳も分からず何も言えなかった。


 六条がにこりと笑って何かを言いかけた瞬間、居室のドアが乱暴にノックされ、直後に西尾が入って来た。

「せ……」


 西尾は板垣たちの様子を見た途端に眉を吊り上げた。

「何してるん!?」

 西尾は板垣に駆け寄り、六条を乱暴に引き剥がす。板垣は反動で大きく一歩退いた。


「邪魔するな。板垣さんは俺のものだ」

「ふざけてるんすか?」

 西尾は六条を軽く突き飛ばし、板垣に引き攣った笑顔を向けた。

「板垣さん、びっくりさせてごめん。先生、最近寝不足続きで、頭おかしくなってるんだわ……今度、何あったか教えて」


 板垣はしばらく茫然と西尾を見て、ふらつきながら居室を出た。


 西尾は板垣がいなくなったのを確認し、怒鳴り声を上げた。

「先生ほんとおかしいっすよ。目を覚ましてください!」

 六条は頭を抱え、何度か深く呼吸した。

「私の方がおかしいのか?」

「は?」

 西尾の顔に怒りが滲み、六条を睨みつける。


「おかしい自覚すら無いんですか? 板垣さんはあなたの所有物じゃないです。彼女、ただでさえ精神的に弱ってるのに、無駄に混乱させるようなことしないでください」

 西尾が六条のデスクを何度か叩くと、付箋だらけの書類の山が目に入った。

 西尾の顔から次第に怒りが消え、落ち着きを取り戻す。


「そんで、ここにある申請書出し終わったら……とりあえずちゃんと寝てください。先生疲れてるんすよ」

 六条は頭を抱えたまましばらく項垂れていた。


 数秒の沈黙の後、六条は表情を緩めて西尾を見上げる。

「ところで西尾くんは、私に文句を言いにわざわざこの部屋に来たのか?」

 西尾は気まずそうに目を逸らした。

「……いえ。報告をしに。論文やっとアクセプトされました」

 西尾がぼそりと呟いた途端、六条は目を輝かせた。


「おめでとう!! 学生が筆頭著者であのビッグジャーナルに掲載されるなんて、うちの研究科じゃ快挙もんだよ。西尾くんの努力の成果が、これからの科学の進歩の糧になっていくからね。自分の研究成果が報われると同時に、その内容に責任を負うっていう感覚、分かったかな?」


「あ……?」

 西尾は先程までとの温度差に混乱し、目を見開いて固まっていた。西尾は六条の輝くような笑顔を見ながら、胃の奥からせり上がるような吐き気を堪えていた。




 板垣は覚束ない足取りで研究棟の出口に向かった。

 外に出た瞬間、焼かれていたような頭が冷たい風で冷やされる。


 ふと見ると、父親が立っていた。

 板垣は驚いて父親の元に駆け寄る。

「お父さん、待っててくれてたの?」

 父親は笑いながら頷く。

「あろま、走って来たの?」

「ほえ?」

「息切れしてるから」


 板垣は一瞬言葉を詰まらせ、小さく頷いた。

「じゃあゆっくり歩こう」

 父親は板垣を見て言った。


 二人は並んで歩き始める。

 空はすっかり暗くなり、大学構内は人気がまばらになっていた。


 板垣は父親をちらりと見て前を向き、小さく息を吸った。

「あのさ、お父さん。仕事とか、忙しいと思うけど。私のことも、ちゃんと見ててほしいな。それで、もし私が変になったら、『あろま変だよ』って教えてね。……さっきみたいに」


 父親は驚いて板垣を見た。

 板垣は小さく頬を膨らませて父親を見つめ返す。


「うん、分かった」

 父親の声は硬かったが、目はしっかりと板垣を見つめていた。


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