4 戻れた場所
板垣は重い足取りで高校へと向かっていた。
校舎が見えた瞬間、足が竦み、呼吸が早くなる。板垣はその場で俯くと、自分の膝が震えているのが見えた。
逃げたい。これ以上進みたくない。
これが、夢であってほしい。
顔を上げて校舎を見上げた時、かつての同じ光景が重なった。
それは、高校に入学した日のことだった。
板垣は校舎を見上げながら歩いていた。
「上ばっかり見て歩くと危ないよ」
隣を歩く母親が板垣の肩を叩き、板垣はびくりとして前を向いた。
脇道には五分咲きの桜の木が並び、青空とのコントラストを作っている。
板垣の足取りは自然と軽く、ブレザーの脇が突っ張るような違和感もいつの間にか気にならなくなっていた。板垣の肩は小さく上下に揺れ、リュックに着いたカワウソのストラップも浮ついたように振れていた。
体育館に張り出されたクラス表を見て、板垣は背伸びをしたり飛び跳ねたり、身体をくねらせたりしながら自分の名前を探した。1年2組の名簿に自分の名前を見つけたと同時に、背中を誰かに叩かれた。
「あろまん、同じクラスだね。2組でしょ」
板垣が振り返ると、早坂がニッと笑っていた。その顔を見た瞬間、板垣の胸に安堵が広がった。
「え、ほんと?! やった」
板垣の視線が1年2組のクラス名簿を何度も往復した。早坂の名前を見つけた瞬間、板垣の口角が上がり、早坂とハイタッチする。
「同じ中学の人、ほとんどいないね」
「新しい友達できるといいなー」
板垣と早坂は並んで教室へと向かった。
板垣は前方にある自分の席に座ってから、早坂と席が離れていることへの不安感が拭えず、時々ちらりと後ろを振り返る。その度に困ったように笑う早坂と目が合い、板垣は胸を撫で下ろした。
板垣が5度目に後ろを振り返った時に、斜め後ろの席の女子から声をかけられた。
入学式の後、板垣はスマートフォンを見ると、母親から『先に帰ってる』というメッセージが来ていた。
板垣はざわつく教室をきょろきょろと見回して早坂を探した。
「帰ろ」
突然横から早坂の声がして、板垣は大げさに肩を上げた。
「ほあ! あ、るみ。帰ろ!」
板垣と早坂は二人並んで帰り道を歩く。板垣は早坂の歩幅に会わせて少し大股で足を進めた。
早坂は大きくため息を吐いた後、板垣を見て言った。
「……高校ってさ、急に世界が広がった感じしない?」
「分かる。廊下長すぎて迷った」
板垣は淡々と答え、早坂が目を丸くした。
「え、迷うとこあった?」
「トイレ行って帰って来ようとしたら、教室が増えてた気がする」
「増えてない」
「世界広がったなーって、ちょっと感動した」
早坂は鼻で笑い、隣で板垣が肩を竦めた。
「るみはクラスの子と仲良くなれそう?」
「隣の田中ちゃんって子、明るくて優しそうだったよ。あろまんは?」
「私も、加藤ちゃんって子と喋った!」
二人で顔を見合わせて苦笑いする。
「まだ初日だからかな。……やっぱ、るみと話すのが一番楽かも」
「あはっ、私も同じこと思った。あろまんが一番楽だわ」
早坂の歩く速さが、板垣に合わせてゆっくりになる。しばらく二人は黙っていたが、沈黙も苦にならなかった。そのうちに板垣の腹が鳴り、早坂が吹き出す。
「……コンビニ、寄る?」
早坂の指がすぐそこのコンビニを指した。
「寄らないで帰る」
板垣は気まずそうに答え、
「お昼に照り焼きチキンが出てくる気配がする。我慢しないと」
と付け加えた。
家の近くの交差点に着くと、「またね」と手を振って早坂と別れた。板垣は赤信号を確認して立ち止まり、スマートフォンを開き、早坂と一緒に撮った入学式の記念写真を見た。
思わず頬が緩み、目を細めて写真を拡大した。
信号が青に変わっているのに気付かず、後ろの自転車にベルを鳴らされて、板垣はびくりと肩を跳ねさせた。
「あ、すみません」
自転車に乗った人は、板垣に見向きもせずに通り過ぎて行った。
板垣が家に帰った瞬間、好物の照り焼きチキンの匂いが鼻に染みわたった。
「おかえり、あろちゃんの好きなチキンだよ。入学祝い~」
「やったあ」
母親はチキンの乗った皿をテーブルに置きながら笑っていた。板垣はリュックを放り投げ、テーブルに向かって滑り込んだ。
板垣はテーブルを挟んで母親と向い合わせに座り、手を合わせた。
「あろちゃんもついに高校生かあ」
母親は感慨深く言い、チキンに箸をつけた。
「明日から勉強忙しくなるね。部活とか決めてる?」
「まだ何も!」
「あろちゃんらしいな」
母親は苦笑混じりに言った。
板垣はチキンを頬張り、早送りのような速さで咀嚼する。
「まあ、何か困ったりしたら、お母さんに言ってね」
板垣は照り焼きチキンを噛みしめて、にこやかに頷いた。
「分かった!」
「分かんない……」
板垣の目に映る校舎が歪む。
四方八方から、誰かの視線が刺さる。近くを通る生徒たちが、板垣のことを話している。
どうしてこうなったの?
板垣は心の中で問いかける。残酷にも答えは返って来ず、脇を通る人の視線が板垣の現在地を示していた。
板垣の足は、まるで入学式の日に縛り付けられているかのように動かなかった。その鉛のような足を引き摺りながら進むほど、背中が重くなっていく。
板垣は再び顔を上げて校舎を睨んだ。
あの日板垣を迎えてくれた校舎は、同じ形をした別の建物になっていた。




