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38 正義のぶつかり合い

 大学の講義室で、板垣は緊張した面持ちで座っていた。

 隣には西尾、さらにその隣には六条が座って待機している。

「そろそろ時間すよね」

 西尾は硬い声で言い、不安混じりにちらりと板垣を窺う。

 六条は腕時計を一瞥して、そのまま口元を抑えながら欠伸をした。


 すぐに講義室のドアがノックされ、本田とG-Dテック課長の男性が入室した。

「突然申し訳ありません。色々とお伺いしたいことがあって」

 課長が挨拶すると、六条も立ち上がり、一礼をした。


 課長は迷わずに六条に促された席に座った。後ろに本田が続き、黙って課長の隣の席に座る。


 板垣が本田に目線を向けると、本田と目が合った。

 本田は板垣に向けてにこりと笑いかけ、板垣はつられて僅かに口角を上げた。


「それで、こちらが、板垣さん……ですか」

 課長が板垣に目を向けると、板垣はぎこちなく頭を下げた。

「そうです。うちの調査に協力してもらってます」

 六条は落ち着いた声で言うが、表情にやや苛立ちが混ざっていた。


「ホームページも一応確認したんですけど、改めてご説明を伺ってもよろしいでしょうか?」

 課長が言うと、六条は目を伏せながら答えた。

「今年の5月に発生した殺人事件について、我々は真相の究明に向けて、板垣さんに調査の協力を依頼しました。これは、彼女への世間からの偏見を遠ざけるという意図と、同様の事例が起こり得るかどうかの調査という意図もありました」

 課長は真顔で六条を見つめ、その隣で本田は六条を睨みつけながら話を聞いていた。


「で、御社が知りたいであろう“実験”についてですが。現在、板垣さんの経過観察を続けているところです。完全に精神が戻ったことを証明するためには、長期的に良好であることを示すデータが必要になりますので」

 六条はちらりと西尾を見て課長と本田に向き直る。

「また、本件は調査計画、実行ともに全て私が主導で進めています。西尾くんはこの件に関して、責任を負う立場ではありません」

 西尾は目を見開き、「んえ……」と濁った声を漏らした。六条は西尾を見てにこりと微笑み、本田と課長に冷たい目を向ける。

「何かご質問はございますか?」

 六条は口元だけを柔らかく持ち上げ、淡々と尋ねた。


 本田が険しい顔のまま尋ねる。

「今回炎上した情報源で“過酷な人体実験”という言及がありましたが、それについての真偽はどうなんですか?」

「一部データを取るために彼女のトラウマに触れる必要があり、それを“過酷な実験”と言ってしまわれたのでしょう」

 横から西尾が口を出す。

「板垣さんの実験については、あらかじめ本人と保護者の同意を得ています」

 本田は口を尖らせたまま黙っていた。


 しばらく険しい顔をしていた本田が再び口を開いた。

「あともう一つお聞きしたくて。炎上した情報源で、“最近、板垣さんの体調が不安定である”ということについても言及がありましたが、研究室の実験との関連性はどうお考えですか?」

 六条が口を開こうとすると、本田が睨みつけて言った。

「西尾くんが答えてください」

「え、俺すか」

「状況の把握は、してますよね?」


 本田の問い返しに、西尾は困った表情でしばらく考え込んだ。その傍らで板垣が椅子に浅く座り直し、板垣の椅子が小さく音を立てた。

 西尾は一瞬板垣をちらりと見てから本田の方へと顔を向ける。


「……ええと。正直、関連性は断定できません。まず季節の変わり目ですし、“体調が不安定”ということの具体性もよく分かってないです。少なくとも、板垣さんの精神状態の観察という点において、彼女の体調に直接影響を与えるようなことはやっておりません」

「ふうん」

 本田は何か言いたげに冷たい鼻声を漏らし、隣で課長は少し怯えた様子で本田を見ていた。


「まあ、とりあえず、六条先生の研究室では、倫理に反するようなことはやってないってことが確認できましたので……会社の方にも報告いたします。今後も変わりなく、共同研究の方、よろしくお願いいたします」

 課長はそう言って頭を下げた。

 六条は不機嫌そうな顔のまま浅く頭を下げる。


 打ち合わせが終わると、本田が口を開いた。

「私、板垣さんと二人で話がしたいです」

「何言ってんの。許可しないけど」

 六条が冷たく答えると、本田が六条を睨みつけた。

「やましいことでもあるの?」


 板垣はおろおろしながら二人の間に入り、本田を見上げて言った。

「あの、お話、しましょう」

 本田は頷き、にっこりと板垣に笑いかけた。



 講義室に板垣と本田の二人だけが残り、テーブルを挟んで対面で座った。板垣は無意識に手のひらを何度も開閉し、つま先が浮き沈みしていた。

 本田は微笑みながら口を開く。

「私、G-Dテックっていう会社に勤めている、本田と言います。初めまして、だよね」

 本田は名刺を板垣に手渡す。

「本田さん、よろしくお願いいたします。板垣といいます」

 板垣は掠れた声で答え、強張った両手で名刺を受け取る。


 本田は背筋を伸ばし、穏やかな表情で板垣を見つめていた。

 板垣は本田を見つめ返すが、視線は細かく揺れていた。


「板垣さんには、私の質問に、正直に答えてほしいんだ」

 本田は微笑みながらはっきりとした口調で言った。

 板垣はごくりと唾を飲む。

「あの。私の答え次第で……」

「大丈夫。板垣さんに何かあることはないから」

 本田がきっぱりと言うと、板垣はテーブルに両手を置いて尋ねた。


「先生や西尾さんに、迷惑掛からないでしょうか?」


 本田の顔から笑みが消え、しばらく黙り込む。


「……すぐに立場が危うくなるみたいなことはないと思う。でも、板垣さんが本当にひどい目に遭っていたなら、外部の人間が動かないといけないんだ」

 本田の言葉に、板垣は唇を噛んでやや俯いた。

「分かりました」

 板垣が小さく頷くと、本田は再び口元を緩ませる。


「さっきの打ち合わせでの質問をそのまま板垣さんにも聞くね。まず、実験っていうのはどんなことをやってきたのかな?」

 本田は柔らかい口調で尋ねた。


 板垣は言葉を詰まらせる。六条に心理的に追い詰められた記憶が頭を埋め、苦い顔をした。

「言葉を整理できてなくても、ちょっとずつ話してもらっていいよ」

 本田は優しく言った。


 板垣はあちこちに目を泳がせて、口を開いた。

「辛いことを思い出させるような言葉を掛けられて、その時の私の脳や身体の反応のデータを取られて、ました」

 本田の口から小さなため息が漏れ出る。

 板垣は口を半開きにしたまま、焦り気味に本田の様子を伺っていた。本田は目を閉じて何かを思い出すように考え込んでいた。


 やがて本田は目を開けて尋ねる。

「板垣さんが『もう限界』って思っても、もっと追い詰められるようなことをされたのかな?」


 板垣は目を見開いて固まった。どう答えるべきか、思考を巡らせるほど分からなくなる。

 数秒間固まったあと、ぎこちなく頷いた。


「板垣さん、正直で助かるよ」

 本田はふっと笑った。


 板垣は訴えるように本田を見つめた。

「ですが……私が感じたことと、研究として必要なことは、別だと思って。そこは切り離して考えるべき、です、よね?」

 本田の背中に一瞬、寒気が走った。

 表情が凍りつき、板垣を見る目から次第に温度が失われていく。


 板垣は本田の顔を見て狼狽し、肩を小さくぷるぷると震わせた。

「えと、本田さん、あの、ちょえ、だい…どうし……」

「板垣さん落ち着いて」

 本田は板垣に声を掛けながら少しずつ落ち着きを取り戻した。


 板垣は本田を見ながら焦り混じりに言った。

「あの……先生は、実験の時以外は優しくしてくれるんです。チョコくれたり」

「GHQかよ」

「あとは……」

 板垣は言葉を詰まらせた。実験後に六条から優しく声を掛けられた記憶を思い返し、顔が熱くなる。深くため息を吐き、そのまま思考が停止した。


 本田は何度か瞬きをした。

「次の質問するね。板垣さん、最近体調悪いっていうのは、何か心当たりがある?」

 板垣は困ったように本田を見つめた。

「体調が悪いっていうのは……夜眠れないこととか、食欲がないこととか、授業中にぼーっとしちゃうこととかも含まれますか……?」

 板垣が真剣な表情で尋ねると、本田は困ったように笑った。


「うん。板垣さんから色々と聞き出そうと思ったけど、難しいな」

 板垣はきょとんとして本田を見た。

 本田は寂しげに笑って言った。

「板垣さん、六条とか西尾くんのこと、かなり好きなんだね。あいつらのこと、悪く言えないんでしょう」


 板垣はしばらく硬直した後、「ほあ」と間抜けな声を漏らし、俯いて肩を震わせた。

「……お力になれなくて、すみません」

 本田は首を小さく横に振る。

「板垣さんは悪くないよ。未成年に手を出す犯罪者どもがクソなだけ」

 本田が立ち上がり、板垣の肩を優しく叩いた。


「でもね、板垣さん。もっと危機感持った方がいいよ。第三者から見ると、あなたは自分で感じてるよりも、ずっと危険な状況にいるんだよ」

 板垣は目を丸くして本田を見つめた。


 本田は呆れ顔でため息を吐く。

「ちょっと、文句言いたいわ」

「……ぇ」

「六条の居室に案内してよ」

 本田の顔に怒りが滲むのを見て、板垣は一瞬怯んだ。



 最上階の廊下で、苛立ったようにパンプスが床を蹴る音が規則的に響く。

 板垣は俯き気味に歩き、本田を誘導する。背後から響く足音が板垣の不安を煽り、だんだんと上半身が縮こまっていた。


 板垣は足を止め、直後に本田の足音も止む。

「ここ、です」

 板垣が震えながら六条の居室を指すと、本田が勢いよくドアを叩いた。

 本田はそのままドアを開け放ち、居室の中へずかずかと進む。


 六条は一瞬驚いて固まるが、本田の顔を見た瞬間に鋭い声を投げた。

「板垣さんのことを混乱させないでくれ」

「混乱させてるのはあんたの方だけど」

 本田は表情を歪ませて言い放った。

 板垣は居室の入口の前で立ち止まったまま、びくりと肩を震わせた。


「さっき、板垣さんに聞いたよ。実験の内容のこと。板垣さんの限界を過ぎても追い詰めてデータ取ってたんだってね」

 本田は責め立てるように言い、六条のデスクを叩いた。

 板垣は気まずそうに俯いた。


 本田は険しい顔をして続ける。

「でも、板垣さんは、それ以上あんたらのこと悪く言えないみたいで。私も困りましたよ」

「え、そうなの?」

 六条の顔に緩い笑みが滲み、板垣の方を振り返った。

 板垣は六条と一瞬目が合った後、ふいと目を逸らした。

「いい加減にしてよ」

 本田が冷めた声を出すと、六条は嬉しそうに目尻を下げ、チョコレートの個包装を開けて食べ始めた。

「本田さんも食べる?」

「ふざけてんの?」


 六条は本田の怒りを一瞥し、興味を失ったように視線を逸らした。そのままゆっくりと立ち上がり、居室の入口にいる板垣の方に向かう。

 板垣は俯きながらびくりと身体を揺らした。

 六条は板垣にチョコレートを手渡し、穏やかな声で言った。

「板垣さん、こっちおいで。廊下寒いでしょ」

 声を聞いた瞬間、板垣は心臓が浮くような感覚に息を詰まらせた。

「っ……失礼、します」

 肩を縮ませながら居室に入る。

 本田は怪訝な顔をしながら視線で六条を追った。


 六条は腕を組みながら本田を睨みつけた。

「で、本田さんの目的は、板垣さんをこの研究室から引き離すことだよな?」

「そうだよ」

「なぜ引き離す必要があると考えてる?」

「板垣さんの精神状態に悪影響を与えているから」

 六条は深くため息を吐いて言った。

「でも、それはさっき否定されたよな?」


 本田は眉を寄せて答える。

「否定されたんじゃない。立証できなかったんだよ。証人が、全員お前を庇おうとしてるせいで」

 板垣は唇を強く噛み、俯いた。


 本田は震えた声で続けた。

「西尾くんにも失望したよ。あいつ、『板垣さんのこと救いたい』って言ってたのに、いつの間にかあんたの側に付いてるし。……このままだと板垣さんが壊れちゃうっていう危機感が、まるでないんだよ」


 板垣は歯を食いしばったまま黙っていた。

 本田は拳を強く握りしめる。

「板垣さんも、『自分が傷ついてることと、研究として必要なことは切り離して考えてる』って言ってたんだけど。お前は彼女に何を吹き込んだ?」

 本田の目には怯えが混じっていた。六条は目を細めて満足気に笑い、柔らかく答えた。

「板垣さんを救うために私たちは動いている。ただそれだけのことだよ。外部の人間は邪魔しないでくれ」

 本田は目を瞑り、深くため息を吐いた。本田の眉間に皺が深く刻まれ、肩を落としたまま静止する。


 本田の口からぽつりと低い声が出る。

「このラボの人間に、板垣さんのことは本当に救えるのかな? ……少なくとも今のままじゃ、救ってる『つもり』にしか見えない」

 本田はそう言って踵を返し、居室の出口に向かった。

 途中で本田は足を止める。


「板垣さん、今日はありがとね」

 板垣に向かって言い残し、苛立ったように歩いて去って行く。


 板垣は本田の背中を見送る間、無意識に息を止めていた。

『あなたは自分で感じてるよりも、ずっと危険な状況にいる』。

 本田に言われた言葉が正しいという直感はあった。

 だが、心と身体が動かない。


 それを自覚した瞬間、腹の芯からじわりと冷たさが広がった。



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