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37 混乱の中心部で

昼休みに入った瞬間、板垣がスマートフォンを開くと、凄まじい数の通知が飛び込んだ。

板垣の元にメディアのSNSアカウントからDMが続々と届いていた。


『研究室の件について、板垣様のご意見を伺えますでしょうか?』

『板垣様に取材させていただきたいのですが』

『板垣様の状況をご説明お願いできますか?』


 まるで行列ができているかのように並ぶ通知に、目が回りそうになる。

 板垣は「うーーーー」と唸り声を上げ、机に突っ伏した。


 しばらく深呼吸をし、メディアに対して一件ずつ返信をする。

『研究室の実験については、問題ありません』


 親指を動かしながら画面を見ると、ふとEメールの通知に目が釘付けになる。


 六条からの連絡だった。

「先生!?」

 板垣の心臓がどくんと跳ね、内容を確認する。

『急で申し訳ありませんが、今日の17時以降に私の居室に来てもらえますか?』


スマートフォンを持つ手が小刻みに震える。

――もしかして、ヲガワさんの動画のことかな……。炎上したこと、先生に怒られるのかな。

板垣は唇を噛み、がくりと肩を落とした。



 放課後、板垣は急いで荷物をまとめていた。その最中、何かを言いたげな早坂と目が合う。

「あのさ、あろまん」

「ごめん、今日は急用があって一人で帰るね!」

 

目を丸くして驚く早坂をよそに、板垣は学校を飛び出し、大学の六条の居室へと向かった。



居室のドアをノックし、慎重に開ける。

「失礼します、板垣、です」

 板垣の声は震え、走ってきたせいか息を切らしていた。


「あ、板垣さん」 

 六条の声に板垣は胸を詰まらせる。板垣がふと声の方を見ると、大量の書類が積まれたデスクが目に入り、やや疲れ気味に笑う六条と目が合った。

 板垣は一瞬、思考が吹き飛んで言葉を失った。


板垣は勢いよく頭を下げる。

「あの、今回は、ご迷惑をお掛けして、申し訳ございませんでした」

板垣が目を強く瞑って言うと、六条は緩やかに笑って答えた。

「板垣さんが謝ることないよ。それより、マスコミとか五月蠅いメディアのやつらから迷惑掛けられてない?」


板垣は目を開いて「ほえ……」と声を漏らした。

――怒られると思ったのに、心配、されてる?


「あの、メディアからは色々来てるんですけど、私からは実験については問題ないですって、返事を出してるので。先生に迷惑掛からないようにしてます。心配しなくて、大丈夫なので……!」

 板垣が慌てながら身振り手振りで説明すると、六条は笑ったまま小さく頷いて聞いていた。

「そうか。ありがとね」

 六条が板垣に笑いかけた瞬間、板垣は全身をぴたりと硬直させ、一瞬唇を噛んで俯いた。

「……はい」

 板垣は息苦しさと頭の熱さを感じ、顔を上げられずに身体を縮ませた。


「私の方からも、今回の件はウェブサイトで説明するつもりだから。もし板垣さんが困るようなことを言われたら、いつでも相談してね」

 六条が優しく言うと、板垣は俯いたまま頷いた。


「……失礼しました」

 板垣は一礼して六条の居室を出た。


 板垣が胸に手を当てたまま深呼吸していると、廊下を西尾が通りかかった。

 西尾は板垣に気付くと、驚いた表情で見る。

「え? 板垣さん、なんでここにいるん?」

「あ……先生に呼び出されて……」


 西尾は怪訝な顔でしばらく板垣を見ていた。

 板垣は西尾を見上げ、ゆっくりと口を開いた。

「実は、今回の実験のこと、ちょっとネットで炎上しちゃって」

「んあ、もしかして今日うちの学生が騒いでたのって……」

 西尾は口を噤み、しばらく眉間にしわを寄せて考え込む。


やがて西尾は表情を緩めて板垣を見た。

「ちょっと話そ」


 

板垣は西尾に連れられて研究棟の屋上に行った。

冷たい風が板垣の頬を撫で、思わず首を震わせる。

夕日が落ち、空は薄暗くなっていた。


板垣は西尾をちらりと見上げながら話し始める。

「有名発信者のヲガワさんっていう人が、事件のことを動画にしたいって言ってくれて。私とるみでその話をしに行ったんです」

 西尾は黙って聞いていた。

「ヲガワさんとの話は、途中までは問題なかったんです。むしろヲガワさんは、私たちの気持ちに寄り添ってくれてました」

「うん」

 

 板垣は小さく息を吸った。

「……でも。撮影の時に、るみが突然、研究室で私がひどい目に遭ってるって言い出して……。ヲガワさんも困ってそうでした。ただ、私はこの話がヲガワさんの動画に入るとは思ってなくて……」

 板垣の声が小さく震える。

「でも、るみの話がなぜかヲガワさんの動画で発信されてて。それで、研究室のことが騒ぎになってしまいました」


西尾は煙草を吸い、口から白い煙を吐く。

「状況は分かったわ。……で、板垣さんは、率直にどう思ったん?」


 板垣は目を見開いて声を詰まらせた。

 少し困ったように考え込み、やがて小声で答える。

「焦りました」

「焦ったの?」

 西尾は煙草を吸いながらしばらく板垣を見つめる。


 板垣は小さく息を吸って話を続けた。

「私は自分の感情を制御できるようにならなきゃいけない。もうしばらく、ここでやるべきことがあると思ってます。実験を中断される方が、私にとっては困ります」


 言った瞬間、板垣の喉奥にもやがかかった。

 本当に困るのは、実験が止まることなのか。

それとも、ここに来る理由を失うことなのか。


それでも板垣の口は止まらなかった。

「それを、何も知らない人たちから騒がれて、邪魔されて、怖かったです。……余計なことを、しないでほしいのに」

 板垣の指先に力が入り、爪が手のひらに食いこむ。その痛みを感じながらも、手を緩められなかった。


西尾は口元を緩めて言った。

「じゃあ、俺の個人的な意見を言うね。……板垣さんは、冷静さを失ってると思う」


 板垣の鼓動が跳ね上がる。

 しばらく唇を嚙んで西尾の胸元を睨みつけ、視線を落としてため息を吐いた。

「やっぱり。そうですか」


 西尾は驚いて煙草を口から離す。

「やっぱり、って??」


 板垣はしばらく「うーん」と呻り、息を吐いた後、目を伏せたまま言った。

「私、なんで実験が止まると困るのか、分からなくなってて。これ以上何も壊さないために、感情の制御ができるようにならないといけないから、研究室に通ってるはずなのに。ここに行く理由がだんだん……」

 板垣の声が途切れる。


西尾は眉を上げて板垣の顔を覗き込んだ。板垣の視線は泳ぎ、西尾から逃げるように瞳が端へと追いやられていく。

西尾は板垣を見たまま首を傾げた。


 板垣は目を逸らしたまま続ける。

「研究室、居心地が良いので。ここに来る理由を、奪われたくないんだと思います」

「実験で散々傷ついてるのに、居心地が良い?」

 西尾はすぐに切り返す。


 板垣は数秒間悩んだ後、言葉を絞り出した。

「研究室の空気だけは、ずっと変わらないので。それに……」

 板垣は言いかけてから、焦ったように手で口を覆った。

西尾は目線だけを板垣に向けて「どうした?」と軽く尋ねる。

 

 板垣はごくりと唾を飲み、顎を引いた。

「引かないでほしいんですけど。……先生のこと、好きかもしれなくて」

「は?」

 西尾はしばらく固まった。

 板垣は心臓がうるさく鳴っているのを感じていた。


 西尾は眉を寄せて板垣を見下ろす。

「先生が板垣さんに優しくしてるのは、板垣さんが保護対象だからであって、それ以上の何でもないんだよ」

「はい」

「あの人、板垣さんの倍の年だよ」

「えっ」

「あと――」

 西尾は言いかけて口を閉ざす。眉間が痛くなるくらいに力が入っていたことに気付き、顔の力を緩めた。


 板垣は俯いていた。

 西尾の言葉が事実として、胸を鋭く抉っていく。感情に任せてはいけない。距離を取らなければならない。正しい答えが並ぶほど、息が苦しくなる。


「あの、先生とどうにかなりたい訳じゃないんです。むしろ、嫌いになれたらいいなって。ど、どうすればいいですか?」

「はあ?」

 西尾は眉を吊り上げて板垣を見つめた。板垣の髪の隙から、赤面した困り顔が覗いていた。


 西尾の口元から白い煙が吐かれた。

「俺に恋愛相談って、正気か?」

「むしろ逆ですけど……」


 板垣は袖を握りしめて言った。

「好きになってもいい事ないって、分かってるんです」

 板垣の口から熱いため息が漏れる。

「なのに、優しくされる度に苦しくなるし、こっち見てニコってされるだけで、心臓が保たなくて……心が、言うことを聞かなくなったみたいで、しんどくて」

 西尾は「うわあ……」と呻きながら、目を強く瞑り、考え込んだ。


 風が強く吹き、フェンスが鳴った。

その音を聞いて、板垣は呼吸を取り戻した。


 西尾は頭を抱えながら言う。

「板垣さんは何も悪くない。ただ、板垣さんのそれは……」

 西尾は深呼吸して続けた。


「恋じゃなくて、依存かもな」


 板垣の身体がピタリと強張る。

 

 西尾は板垣をじっと見下ろして、低い声で言った。

「人は心が不安定になった時に、その拠り所を求めてしまう。それを恋愛感情と錯覚してしまうことがある」

「ふえ……」

 板垣は消えそうな声を零した。自分の感情の正体が『正しくないもの』ような言われ方に困惑していた。


 西尾は板垣を見て口元を緩ませる。

「焦らないで。板垣さんがちゃんと自律できるようになれば、その気持ちも落ち着くはずだから」

 板垣は戸惑った顔のまま、ぎこちなく頷いた。


 板垣は胸に手を当てて、屋上の冷たい空気を肺に送り込む。

 西尾の言葉を反芻すると、胸が刺されるように痛んだ。その痛みが、板垣の頭を少しずつ覚ましていく。


 ――ここにいる理由を、見失わないようにしよう。



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