36 混沌と対抗心
板垣は登校中、駅のホームでスマートフォンを見て、固まっていた。
「どういうこと?」
息が震え、しばらく画面から目を逸らすことができなかった。
目の前に迫る電車の走行音が、ようやく板垣の視線を現実に戻した。
板垣は不安で震えながら電車に乗り込み、電車の中でも落ち着かずに足踏みを繰り返した。
学校に着き、廊下を進む。だんだんと早歩きになっていく。頭が脈打ち、次第に鼓動が速くなる。
睨みつけるような目をしながら教室へ向かった。
六条が講義室に入った瞬間、数人の女子学生がバタバタと集まって来る。
「先生、これ、どういうことですか?」
「うん?」
女子学生が見せたスマートフォンの画面には、SNSのタイムラインで“文永大学六条研究室”、“板垣あろま”、“人体実験”などの文字列が並んでいた。
六条は画面を見下ろしたまま、しばらく瞬きをしなかった。
女子学生は一瞬怯んだ後、口を開く。
「なんか……先生のところで、あの板垣さんっていう子がひどい目に遭ってるって、軽く炎上してるんですけど。まさか、デマですよね?」
六条は穏やかに笑みを作り、女子学生に尋ねた。
「ソースを教えてくれる?」
講義後に六条が居室でパソコンを開くと、夥しい数のEメールが届いていた。
知らないアドレスからの抗議文、メディアからの取材依頼。六条は冷めた目でそれらを片っ端から削除し、先ほど女子学生に教えられた『ソース』を確認した。
動画に映っていたのは、『ヲガワ』という投稿主と、板垣、早坂だった。
動画ではしばらく板垣の事件に関する事実が話され、特に炎上する要素がなかった。
しかし、動画が進んだところで、早坂が口を開いた。
『あろまん、事件があったときに“真相解明”のために、大学の研究室の調査を受けてたんですけど。それが過酷な心理実験みたいなんです』
『文永大学の六条研究室というところです。あろまんは、もう元に戻ったはずなのに、まだ研究室から監視されて、実験が続いています』
六条は一瞬目を見開いた後、「ふーん」と低い声を漏らした。動画を止め、深いため息を吐いて画面を睨みつけた。
「『お友達』、邪魔だなあ」
六条の目は据わり、声には苛立ちよりも面倒臭さが混じっていた。
その後、迷いなく動画を閉じ、淡々と研究室のHPの記事を書き始めた。
板垣は足早に教室に入る。
席に座っていた早坂の方へまっすぐ向かい、板垣は強い声で尋ねた。
「るみ、どういうこと?!」
早坂は驚いた顔で板垣を見つめた。
「あえ?」
「私のことが、ネットで騒ぎになってるんだけど」
早坂は口を半開きにした。ゆっくりと手がブレザーのポケットに伸び、スマートフォンを取り出す。
SNSで板垣と六条研究室について軽く炎上しているのを見て、息を詰まらせた。
――あろまん、これを望んでたんじゃ、ないの?
早坂が恐る恐る板垣を見ると、目の前の板垣は、ぷるぷると身体を震わせ、目を伏せていた。
「あろまん?」
板垣は返事ができなかった。しばらく身体を震わせ、俯いたまま唇から息が漏れ出る。
「るみ、なんで……ヲガワさんの動画に、研究室の話が入ってるの?」
「え」
早坂も返事を詰まらせる。
「私、あろまんがまだ苦しんでいると思って……」
「違う」
板垣は早坂から目を逸らした。
「今、実験を止められるのは、困る」
板垣の声が少し裏返る。
「は……?」
早坂の手が震える。歯がカチカチと鳴り、背筋が冷えていく。
「お願いだから。余計なこと、しないで」
板垣の声は、懇願のようだった。
だが、それは早坂に向けられたものではない気がした。
早坂は息を詰まらせたまま、板垣を見つめる。
――もしかして、やり方を間違えた?
早坂の全身に汗が滲む。
目の前の板垣は、目を合わせようとしない。
だが、その姿からひしひしと伝わってくるものがあった。
追い詰められ、怖がっている。
何かを失うことを。
早坂は目を伏せて深くため息を吐いた。
肩を震わせ、しばらく頭を抱えて、早坂の口が開いた。
「あろまん、ごめん」
それが何に対する謝罪なのか、早坂にも分からなかった。




