34 すれ違う善意たち
板垣と早坂は、マンションの一室のドア前に立っていた。
二人は顔を見合わせ、互いに頷く。
早坂の指がインターホンのボタンに触れた。
ピンポーンという音の直後、ドアが開き、穏やかに笑った若い女性が出てきた。
「あ、まずは中に入って!」
女性は囁き声で二人を部屋の中に通した。
8畳ほどのリビングに入ると、板垣と早坂はソファーに促された。
腰から沈み込む感覚に、板垣は一瞬息を詰めた。身体が沈み、心だけが置き去りで浮いているようだった。
女性はにっこりと笑い、口を開いた。
「改めまして、ヲガワと言います。今日はわざわざ時間取ってくれて、ありがとね」
ヲガワがぺこりと頭を下げると、板垣と早坂もつられて頭を下げた。
「えと、早坂です」
「板垣です」
二人はやや緊張しながら自己紹介をする。
ヲガワが二人の様子を見て口元を緩めた。
「二人とも、まだ高校生だっけ?」
「はい。高校1年生です」
早坂が答えると、ヲガワは唇をきゅっと引き締めて笑った。
「しっかりしてるね。二人は同級生かな?」
「はい、中学から一緒で」
板垣が答えると、ヲガワは笑顔のまま頷いた。
「二人はずっと友達なんだね。私から見ても、お互い信頼し合ってるんだなーっていうのが、すごく伝わってくるよ」
ヲガワが言うと、早坂は一瞬照れたような顔になって俯いた。
板垣が小さく笑っていると、視界の端に三脚で固定されたスマートフォンが見えた。思わず肩を強張らせると、ヲガワがそれに気付いて言った。
「板垣さん、まだカメラ回ってないから、怖がらなくて大丈夫だよ。動画の内容も、最初に話し合ってから決めようと思ってるんだ」
「……はい」
板垣は頷いたが、カメラから感じる誰かの視線を拭い去れず、喉がひりついていた。
「ちょっと準備するから、二人は寛いで待っててね」
ヲガワが立ち上がり、キッチンの方に向かった。
リビングに早坂のため息が響いた。
「なんかこの部屋、めちゃめちゃ落ち着くな」
早坂が呟き、きょろきょろと部屋を見回した。白を基調とした柔らかい雰囲気の家具が整然と置かれている。シンプルでありながら、どこか温かさを感じる不思議な部屋だった。
「ヲガワさんの撮影室、こんな感じだったんだ。動画だとソファーとテーブルしか映ってないから、なんか新鮮」
早坂が興味深そうに言ったあと、しばらく沈黙が続く。
早坂が不思議そうに板垣の方に顔を向けると、板垣は俯きながら固まっていた。
「あろまん?」
早坂の声に板垣は「ほわ」と気の抜けた声を上げ、顔を上げた。
「ちょっと、ぼーっとしてた」
板垣はぼんやりとした声で言うと、早坂は微笑する。
「この部屋、落ち着きすぎてぼーっとしちゃうよな。なんか分かるわ」
「お待たせ。お茶とお菓子どーぞ」
ヲガワがお盆を持ってテーブルの前に跪く。
「「ありがとうございます!」」
二人が声を合わせながら目を輝かせる。
「まったりお茶しながらでいいから、お話始めようか」
ヲガワは緩やかに笑いながら言った。
ヲガワはノートパソコンを開きながら穏やかに話し始める。
「まずは一連の出来事について整理するね。ええと……沼野くんという人が死亡した事件で、板垣さんは『自分が殺したかもしれない』と自首。そのあと、板垣さんは、沼野くんを殺害した容疑で一旦拘束されたけど、実際は証拠がなくて不起訴になった。ここまではいいかな?」
「合ってる、よね?」
早坂が板垣に確認すると、板垣は一息置いてからぎこちなく頷いた。
「板垣さん、そんなに罪悪感持たなくていいんだよ。板垣さんは無実だったんだから」
その言葉を聞いた瞬間、板垣は息を詰まらせた。
沼野を本当に殺したかもしれない。
多くの人を傷つけた。
自分に起こった異変が怖い。
今でも、その感情が板垣の胸の奥にじっと付き纏っている。
静かなタイピング音がしばらく続き、ヲガワは再び口を開いた。
「……じゃあ続けるね。その後、板垣さんは世間から『殺したかもしれない人』と、『虚偽の自首をした、狂った人』の二種類の偏見が向けられた。もちろん、どちらも憶測による間違った認識だった。でも板垣さんは普段の生活で、その偏見の中で傷ついてきた。……早坂さんがあの動画を出すまでは」
早坂は深く頷く。板垣もしばらくヲガワの言葉を噛みしめた後、頷いた。
ヲガワは一息吐き、板垣に寂しさ混じりの微笑みを向ける。
「板垣さん、心細かったよね。それまで、支えてくれる人がほとんどいなかったんだよね。ご家族と、早坂さん……くらいしか味方がいなかったのかな」
板垣は唇を結び、やや俯いた。同意も否定もできず、ただ黙ることしかできなかった。
研究室で過ごした時間は、ここでは無いことにされている。
小さな虚しさが板垣の顔にじわじわと広がっていく。
「辛いことは、無理に思い出さなくていいからね」
ヲガワの声に、板垣ははっとして顔を上げる。
「それで、板垣さんが孤独に苦しんでいたとき、早坂さんが『板垣さんの誤解を解くための動画』を作って投稿した。これが拡散されて、世間の偏見が落ち着いた」
早坂と板垣は同時に頷いた。
「なぜ偏見が落ち着いたかというと、板垣さんが普通の高校生だってことがまずは世間に広まったこと。そして、被害者の沼野くんって人がほかのトラブルに関わってる可能性が分かってきたからだね」
早坂は紅茶を一口飲み、小さく息を吐く。板垣もつられて紅茶を飲み、ごくりと喉を鳴らした。
「板垣さん、味方が増えてほんとによかったね。早坂さんも勇気ある行動だったと思うよ」
ヲガワは緩く微笑み、紅茶に口をつけた。
「……はい。クラスの子とも、あれから仲良くできるようになって」
板垣は手元を見つめながら言った。
ヲガワはうんうんと相槌を打ちながら、一呼吸置いた。その後、ヲガワの顔に寂しさが混じり、口を開く。
「でも、早坂さんは、動画を消してしまったんだよね? そして、動画を消したことが一瞬騒がれてしまった」
早坂は俯いた。
ヲガワは小さく息を吐いた。
「……ざっと、板垣さんたちの状況を整理してみたけど、こんな感じだよね」
ヲガワの説明は、板垣の状況をよく整理していた。出来事が綺麗に整えられ、順番に並べられている。
ヲガワは紅茶を二口ほど飲み、ゆっくりと言った。
「今日は、動画を消してしまった経緯の話をしたいんだ。それで、世間の人が納得できる形に弁明できるといいかなと思って。私がそのお手伝いをできればいいんだけど」
早坂は顔を上げてヲガワを見つめていた。
「うん、台本はこんな感じで進めようか」
ヲガワが書き上げたテキストメモを二人に見せる。
メモには早坂が動画を作った動機、その後の世間や学校での反応、沼野の遺族に配慮して動画を消したことがフラットな事実ベースで並んでいた。
誰も責めることなく、傷つけない。発信者として手慣れたヲガワの腕が光っていた。
「一字一句この通りじゃなくても、アドリブとか自由に話したいことも大歓迎だからね。あとで編集もするから、安心して」
ヲガワはにっこりと微笑んだ。
早坂は感心しながらメモの内容を目で追った。
だがメモに書かれた最後のトピックを見た途端、早坂の目つきが変わる。
『板垣さんは、もう普通の高校生として、もとの日常が戻っている話』
――もとの日常が、戻っている?
早坂の心臓がどくんと鳴る。ゆっくりと隣の板垣に顔を向けると、板垣は緊張した面持ちでメモを見ていた。
板垣の左手首には、まだ黒いスマートウォッチが着けられている。
――あろまんは、まだ……。
早坂は目を伏せて考え込んだ。
「じゃあ、スタートするねー」
ヲガワは慣れた手付きで撮影を始める。
「今日はなんと、板垣さんと、お友達の早坂さんにお話を伺います!」
ヲガワは板垣たちの紹介をし、事件に関する一連の出来事を説明していった。
やがて話題が『早坂が動画を消した経緯』へと移る。
「どうして早坂さんは……、あれだけ味方を増やした動画を消してしまったんですか?」
「被害者の印象を悪くするようなことを、あの動画で伝えてしまっていたからです。私はあろまんを救いたい一心で、周りのことを考えられてませんでした。あの動画が存在し続ける限り、今後も誰かの目に入り続ける。ご遺族にも迷惑が掛かって、再び傷つけてしまう。ですので、一緒に動画を作った友達や、あろまんとも話し合って、消すことにしました」
早坂の話にヲガワはゆっくり頷き、静かに尋ねた。
「早坂さんたちは、動画のことでご遺族に謝罪しに行ったみたいですね」
「はい。ご遺族のことを傷つけていたことを、実感しました。軽率なことをしたと思ってます」
ヲガワは少し悩んだ表情をして答える。
「早坂さんがやったことは、軽率なことではないですよ。……でね、この動画を見たり、SNSが好きな人に伝えたいんだけど、“目の前にいない人を傷つける”感覚がね、私たち、鈍ってきてると思うの。言葉だったり、まあ手段は色々あると思うけど、相手の姿が見えないと、傷つける行為に抵抗がなくなっちゃうんだよね」
「分かります、それ」
板垣が呟くと、ヲガワが頷いた。
「板垣さんが傷ついてきたのも、まさにそれのせいだと思ってて。何も知らない人たちが好き勝手言って。板垣さんが傷ついてる姿が直接見えないから、何でも言えるの。……でも、何かを発信する前に、一回立ち止まろ。あと、受け手に回るときも一緒。情報の洪水にただ流されてちゃダメ。味見して確かめないと」
しばらく熱を帯びたヲガワの話が続いたあと、ヲガワが深く息を吐いた。
「……でも、今は、板垣さんにも日常が戻ってきて、普通に高校生活を送っているんですよね?」
板垣の顔が無意識に強張り、息が詰まる。
僅かな間の後、板垣は明るい声を作って答えた。
「はい。クラスの友達もできて、普通に――」
その先の言葉が、一瞬出てこなかった。
早坂はその空白に気付き、板垣を見る。
板垣の顔は僅かに引き攣っていた。
「いや」
早坂が横から口を挟み、板垣は固まる。
「あろまん、事件があったときに“真相解明”のために、大学の研究室の調査を受けてたんですけど。それが過酷な心理実験みたいなんです」
「るみ?!」
「文永大学の六条研究室というところです。あろまんは、もう元に戻ったはずなのに、まだ研究室から監視されて、実験が続いています。……最近、あろまんの体調が不安定で。私は高校生の身分なので、どうやってあろまんを研究室の監視から救いだせばいいのか困ってて」
「ちょっと、待ってね」
ヲガワの声に早坂はハッとして口を閉ざした。
早坂が板垣を見ると、板垣はかなり困惑した顔をしていた。
早坂の手に汗が滲む。
板垣は肩をぷるぷると震わせ、黙っていた。
「板垣さんが、普通の高校生活を送ってるエピソードから、聞かせてほしいな」
ヲガワはゆっくり話すが、その声が小さく震えていた。
撮影が終わり、ヲガワは二人に「今日はありがとね」と言ってお菓子を渡した。
「お土産に持って行って。動画の内容についても、早坂さん経由で改めて相談させてね」
早坂と板垣は頷き、二人はヲガワのマンションを後にした。
夕暮れの中を二人で並んで歩く。
「ヲガワさん、優しい人だったな。メンタル系インフルエンサーなだけあるわ」
早坂が呟くと、板垣もこくりと頷いた。
「世界中の人、みんなヲガワさんだったらいいのに」
板垣がぽつりと言うと、早坂は吹き出した。
やや肌寒い風が吹き、板垣は思わず背中を丸める。再び顔を上げると、夕暮れの空が目に飛び込んだ。
黄色がかった空に、黒い雲がもやもやと広がっている。
板垣の目は、ぼんやりと雲の動きを追っていた。




