33 理解の先に
実験の後、居室のデスクで板垣は目に涙を浮かべながら、ビターチョコレートを口に入れた。口の中に広がる甘さに、板垣は思考がしばらく痺れる感覚がしていた。
板垣はしばらくぼんやりしたあと、ふと思い立ってリュックの中を漁る。
「板垣さん、どしたん」
西尾が横から声を掛けると、板垣はリュックから数学の問題集とノートを取り出した。
「再来週、中間テストなんですよ……」
板垣はデスクに問題集などを並べて、憂鬱のため息を漏らした。そのまま西尾に目線を移し、目を鋭くする。
「西尾さん、文永大に入れるくらい頭良いなら、勉強教えてくれませんか?」
板垣が西尾に言うと、西尾は口元をゆるゆると動かしながら板垣を見つめた。
「俺、高校の内容なんてもう数学か物理しか分からんぞ」
「数学教えてください! あと情報もほんとに訳分かんなくて」
「情報? あんなんパワーポイントで遊ぶだけやん。テストなんてあったっけ」
板垣は「ほえ?」と間抜けな声を上げた。
「え。プログラミング、とか、あるんですけど」
西尾はぽかんとして数秒間沈黙し、頭の中でエラーを吐き出した。
NameError: name 'プログラミング' is not defined
しばらくお互いに見合った後、板垣は数学の勉強に取り掛かる。
「うう、二次関数わけわかんない……」
「とにかく図に書いた方がイメージしやすいよ。平方完成したらグラフの形なんとなくわかるっしょ」
「軸と頂点の座標しか分からないですよ」
「y=0で解けばx軸との交点が出せるでしょ。そしたらこのaとの位置関係を場合分けして並べるだけじゃん」
ノートには記号のような線図が並び、板垣は頭を悩ませながらペンを動かしていた。
しばらくして、板垣は声を上げた。
「うお、なんとなく分かってきましたよ、西尾さん!」
「それ一番危険なやつ。……あれ、そのグラフ、上に凸じゃね?」
「えっ」
西尾は微笑しながら板垣を見て、ふと思い至った。
――この時間のために、板垣さんは何を犠牲にしている?
その時、居室のドアがゆっくりと開く。西尾は途端に表情を硬くしてドアを見る。
六条が穏やかに笑いながら言った。
「二人とも、これからちょっと話そうか」
西尾の眉間に皺が刻まれ、その隣で板垣はきょとんとして頷いた。
「今までの実験で分かっていることを共有しておこうと思って」
六条が口を開くと、西尾は小さく安堵のようなため息を吐いた。
板垣は背筋を伸ばして視線を鋭くした。
六条はゆっくりと話し始める。
「まず、あの現象……『情動破壊』は板垣さんの強い感情の変化によって引き起こされるだろうと考えられる。確証まではいかないけどね」
「情動破壊……」
板垣は首を傾げる。
「板垣さんに起こる現象を、俺たちで勝手に情動破壊って呼んでる」
西尾はぼそりと答え、ちらりと板垣を見て口元を上げる。
「ちなみに英語の略称は……ED……? あれ?」
板垣は何度か瞬きしながら西尾を見て、その隣で六条は肩を震わせて笑いを堪えていた。
「ERDね。……で話を戻すと。『情動破壊』は、板垣さんの感情の変化がピークに達した瞬間に起こる。その瞬間に板垣さんの目線の先にあった対象物が破壊される、という物理現象だよ」
「目線の先、なんですね。感覚的にそんな気はしてましたけど」
板垣が呟くと、西尾が小さく頷いた。
「板垣さんの試験データを映像や音声と同期してみると、破壊座標は板垣さんの視線と一致したんよ。だからほぼそうなるんだろうと」
「え、じゃあ私が目を閉じてたら、どうなるんですか」
一瞬の間の後、西尾が答える。
「閉じた目の先にあるものか、直前に見たものを破壊すると思う。これもn=1だけど一応観測してる。視線の座標が観測できてないけど」
「じゃあ、目を閉じることで破壊をなくすることはできないんですね」
板垣はしゅんとして肩を落とした。
「物理現象としては、視線の先の物質に強い外向きの力を発生させるようだ。今までの破壊サンプルを分析したんだけど、破壊起点は板垣さんの視線の先の点……いや、そこまで厳密な特定はできてないから、あくまで推測。そこに引張応力集中が見られた」
「なんか、ビッグバンみたいっすね。一点から瞬間的なエネルギーの爆発が起こるイメージっすよね」
西尾はぼそりと言うと、板垣はぽかんとしながら「ほえー」と声を上げた。
「西尾くんはビッグバンを誤解してるな」
「んえ?」
西尾が目を開いてとぼけた声を出すと、六条は苦笑した。
「それで、今優先すべきことは、板垣さんが破壊を起こさないための制御ができるようにすること。……本当は、『そもそもなぜ板垣さんの身にこのような現象が宿ったのか』を調べる必要があると思ってるけど、全く見当がつかない」
板垣は大きくため息を吐く。
「制御ができないと、またいつか……誰かを殺し……傷つけてしまうかもしれないんですね」
板垣は小さく肩を震わせながら、ぽつりと続けた。
「あの。私、沼野くんのこと、殺したんですよね。その証拠になるデータが、出ちゃったんですよね。……私、どうなるんですか?」
しばらく部屋に重い沈黙が落ちた。
「このデータを今すぐ外部に知らせる必要はないよ。まずは、板垣さんの制御の精度を上げて、板垣さん自身が安心できる状態にしよう」
六条は穏やかな口調で言うと、西尾も一呼吸置いて頷いた。
板垣は小さくため息を吐いた。
西尾がぼそりと言った。
「先生が言ってるように、まずは制御。今、板垣さんが不安になる必要はない」
西尾は言い終わった後にもう一度口を開きかけて、そっと閉じた。
「ありがとうございます」
板垣は濁った声で答えた。胸の中では、自分が沼野を殺したという罪悪感が張り付いたまま消えなかった。
西尾がすっと立ち上がる。
「……ちょっとタバコ行ってきます」
西尾は胸ポケットを探りながら、板垣をじっと見つめて尋ねた。
「……板垣さんも、来る?」
「私、タバコ吸いませんけど!?」
西尾はふっと笑って一人で居室を出た。
西尾が廊下を歩いていると、実験終わりの学生とすれ違った。ちらりと学生を見ながら階段を駆け下りていく。他の研究室の教授とすれ違いざまに、声が掛けられた。
「あ、西尾くんじゃん」
西尾は立ち止まり、教授を振り返る。
「曽根先生、どうしました?」
曽根は笑みを浮かべて言った。
「最近六条先生、物騒なことしてるね」
西尾の鼓動が大きく鳴り、手汗が滲む。
頭の中で、嫌な予感が浮かび上がった。
――板垣さんの実験、他の教授たちに知られてるのか?
緊張の中、西尾が口を開きかけると、曽根の笑い声が耳に飛び込んだ。
「この前、六条先生が破片をたくさん持って、『爆弾作ってみたんですけど、威力知りたいので破面解析教えてください~』って俺のところに来たんだよ。まあ、さすがに冗談だろうけど」
一瞬の間を置いて、西尾の表情が緩む。
「そうだったんすか、ははは」
西尾の口から安堵混じりの乾いた笑いが漏れた。
曽根は笑いながら階段を上り、廊下へと姿を消した。
西尾は胸を手を当てて深く息を吐いた。
「爆弾、ね」
――冗談で済んでる。今は、まだ。
だけど彼女のことは、絶対に兵器にしてはいけない。
苛立った足音が階段に響いた。
「……西尾さん、どうしちゃったんですかね。タバコってそんな急に吸いたくなるものなんでしょうか?」
板垣は居室のドアを見つめたままぽつりと言った。ドアの小窓の向こう側をぼんやりと眺めながら、西尾の様子を思い返す。
「今日の西尾さん、ちょっといつもよりも怖いというか……最初の実験も止めようとしてたし、何かあったんですか、ね……?」
板垣がゆっくりと振り返ると、六条は椅子に座って羊羹の個包装を開けてもしゃもしゃと食べていた。板垣はごくりと喉を鳴らして六条の手元の羊羹を睨みつけていた。
六条は板垣の視線に気付くと羊羹を飲み込み、板垣の方を向いた。
「西尾くんは板垣さんのことを誰よりも心配してるからね。板垣さんが苦しむようなことは、たとえ実験であっても耐えられないんだよ」
板垣はぱちぱちと瞬きをして六条の羊羹を見つめていた。
「西尾さん、優しいですもんね。見た目によらず」
板垣は控えめに笑った。六条も表情を緩め、羊羹の個包装を黙って板垣の前に差し出した。
板垣は羊羹を受け取って膝に手を置き、羊羹ごときゅっと握りしめて小さく息を吸う。
「実験は確かに辛いですけど、私が元に戻るために必要なことだって、分かってます。止める方が、もっと苦しくなるので……。なんとか、耐えてみせます」
板垣は言葉を噛み締めながら吐き出していた。だが肩は小刻みに震え、視線は足元に落ちている。
六条は小さくため息を吐き、柔らかく微笑んで右手を板垣の頭に向けて差し出した。その瞬間に板垣は六条の袖を掴み、そのまま押し退ける。
板垣自身が一瞬驚き、六条を見て慌て始めた。
「ふあぁ、乱暴なことしてすみません。その、今のは反射的に……」
「勝手に触ろうとしてごめんね。板垣さんの言葉にちょっと感動しちゃって」
六条は寂しげに笑い、ゆっくり立ち上がる。
「もし辛くて無理だと思った時は無理せずに言って。体調を崩したら元も子もないからね。板垣さん、いつも頑張りすぎるところがあるから」
板垣は頷いたまま俯いた状態で固まった。
六条はしばらく板垣の様子を窺い、静かに居室を出た。
板垣は深いため息を吐いた。動悸が治まらず、深呼吸を繰り返す。
「私も、どうしちゃったんだろう……」
左手を額につけて、そのままずるずると前髪を掻き上げる。やがて視線が右手の羊羹を捉え、板垣はぴたりと姿勢を直した。
羊羹の個包装を不器用に開け、小さくひと口齧り付いた。




