32 崩壊、歪んだ再構築
板垣は西尾に連れられて六条の居室に向かっていると、廊下で六条と鉢合わせた。
「あ、板垣さん今日も連れてきました」
「先生、こんにちは。今日は、体調も万全です」
板垣は表情をきりっとさせた。
六条は板垣を見てふわりと表情を緩め、それを見た板垣の心臓が一度大きく鳴った。
「本当に万全なのかな?」
板垣を見つめる六条の顔は何かを探っているようだった。見透かすような目線に板垣は小さく身震いし、思わず目を逸らす。
「元気、ですけど」
力無い声で板垣は呟く。
西尾は訝しげに板垣と六条を見比べ、「何か?」と尋ねた。
六条は目を伏せて柔らかい声で言う。
「板垣さん、今日も精神が不安定になった瞬間があったよね。しかも、今回は……おそらく情動破壊の発動まで至ったんじゃないかな?」
板垣は目を逸らしたまま黙り込んだ。西尾は目を見開いて板垣を見る。
「板垣さん?」
西尾の呼びかけにも答えられず、板垣はぷるぷると肩を震わせる。
六条は板垣の前に屈み、視線を合わせようとする。頑なに目を合わせない板垣を見て六条はふっと笑い、右手を板垣の頭に乗せた。
「怒ってるわけじゃないよ。板垣さんの抱えているものは、それだけ制御が難しいんだ。私からお願いしたいのは、板垣さんが一人で無理しないでほしいってこと。何かあったときは強がらずに、私たちを頼ってほしいんだよ」
板垣は震えながら小さく頷いた。
「すみません。……先生のおっしゃる通り、今日は、あの現象を発動させました。幸い人がいないところで、怪我もなかったですけど」
板垣は小さく一息吐いて続けた。
「なぜか、焦る気持ちを制御できなかったんです」
板垣は六条と目を合わせるが、一瞬で目を逸らした。
六条は背筋を伸ばし、腕を組んだ。
「どうして制御できなかったんだろうな?」
板垣は首を横に振った。
「……るみのことを思い出せれば、落ち着くと思ったんです。でも逆に、追い詰められる感じがしました」
板垣の言葉に、六条は考え込みながら「うん」と漏らした。
西尾がそれを怪訝な顔で見た後、不安げに板垣を見守る。
「今日の練習では、お友達のことを考えないようにしようか。お友達の存在が、無意識のうちに板垣さんの感情をマイナスに引っ張っているかもしれないからね」
六条は笑顔を滲ませながら柔らかい声で言った。
板垣は俯きながら、震える鼻息を漏らした。
「私がるみのことを悪く思ってるみたいな言い方……」
「私がしてるのは、『情動破壊の制御に何が必要で、何を排除すべきか』の話だよ。板垣さんがお友達を大事に思ってることを否定するつもりはない」
板垣は小さく頬を膨らませた。口先に力が入り、小刻みに震える。
「……分かりました。今日はそれで、やってみます」
そう言い切った後、板垣は小さく肩を落として黙り込んだ。
「実験の前に先生と二人で話したいことがあるんすけど、いっすか」
西尾が淡々と言うと、六条は目を丸くして西尾を見る。
「うん? いいけど……。じゃあ、板垣さんは先に居室で待っててもらっていいかな?」
板垣は俯いたまま頷き、居室に向かった。
板垣はその足でふらりと女子トイレに入る。個室のドアを開け、深いため息を吐いた。
――先生と、目が合わせられない。……目が合うと、まともに考えられなくなる。
板垣は両手で頭を抱えた。頭の中が熱くなり、鼓動が早くなっているのを感じていた。熱くなった耳を冷ますように、冷えた手先を耳に当てる。
何度か深呼吸を繰り返して、ようやく平静を取り戻した。
板垣がトイレから出ると、廊下から西尾の声が耳に入った。
「あまり実験を繰り返すとまずいですよ。最近彼女の様子がおかしいの、先生も分かってますよね?」
板垣は思わず足を止め、トイレの入口の壁に隠れて聞き耳を立てた。ちらりと顔を出すと、六条の居室のドアの前で、西尾と六条が二人で話し込んでいる様子が見えた。
「板垣さんの制御が中途半端な状態で、実験を中断させろと言いたいのか?」
「ですが、繰り返すほど彼女の状態が悪化する気がするんです」
西尾の声に焦りが混ざる。
「じゃあ、板垣さんに直接聞いてみるか。実験を中断したいのか、それともこのまま続けたいのか」
六条が淡々と答え、西尾は肩を落とす。
板垣は隠れながら息を呑んだ。
西尾が呆れたように言う。
「そんなこと聞いたら、板垣さんは絶対に『続けたい』って言うじゃないですか」
「そう答えるだろう。彼女は真相の追究と感情の制御が目標だから。それにこのままだと、板垣さんは……また世間に恐れられる存在になってしまうからな」
六条は冷たい声で答えた。
板垣は目を見開いた。
――あ。そうか。私、“怖い存在”なんだ。
目に涙が溜まり、呼吸が震える。
口に手を当て、深く息を吸った瞬間、視界が歪んだ。
「じゃあせめて、カウンセリングとか……彼女の精神を落ち着ける他の手段を考えてみませんか?」
「板垣さんのことは壊れないように丁重に扱ってるじゃないか。あれだけ協力的で理想的な実験サンプルなんて滅多に手に入らないよ。貴重なリソースを活用しないでどうするんだ」
六条の乾いた笑い声が廊下に響いた。
一瞬で板垣の全身から熱が引く。
板垣は呼吸を乱しながら、陰から六条を睨んだ。
「……なんでそんな言い方するんですか」
喉から掠れ声が漏れる。
涙が勝手に溢れ、震えが止まらなくなる。
視界の端で、蛍光灯の光が滲み、揺れ、形を失っていった。
息がうまく吸えない。
浅い呼吸ばかりが喉を擦り、胸が苦しい。
冷たい汗が背中を伝い、脚から力が抜け、板垣は床に崩れ落ちた。
廊下に響いた物音に気付き、六条と西尾が板垣の方を振り向く。
「……板垣さん?」
六条は板垣の元に駆け寄った。
板垣は六条の首元を睨み付け、肩で呼吸をしていた。
「ゆっくり息を吐いて、落ち着こう」
六条は優しく声を掛け、板垣の前で膝をつく。
「落ち着けるわけないじゃないですか!」
板垣は怒鳴り声を上げた。
その声に六条と西尾の動きがピタリと止まる。
板垣は全身を震わせる。
周りの音が遠くなり、視界も眩み始めていた。殴るような鼓動が脈打ち続け、胸が痛くなる。
板垣は孤独な空間に取り残された感覚のまま、ひたすらに怒鳴った。
「私は先生のこと信用してたのに! それなのに、先生は私をただ利用しようと……」
意識が遠のきかけた瞬間、身体が包まれる感覚に板垣ははっとして息を止めた。
「板垣さんは、私にとって大事な人だよ」
六条は優しく板垣を抱きながら、柔らかい声で言った。
板垣が息を呑むと同時に、心の中で少しずつ、感情の荒波が遠のいていく。
板垣は六条の胸元で何度も深呼吸を繰り返し、小さく嗚咽していた。
同時に激しい動悸を感じていた。
――もし今、私が制御できてなかったら。
先生のこと、殺してたのか。
板垣は涙を流しながら肩を震わせる。
自分のことが、怖くて仕方ない。
自分の感情が誰かを傷つけて、壊してしまう。
板垣は唇を震わせて尋ねた。
「先生は、私が怖くないんですか?」
六条は手を伸ばして板垣の頭を優しく撫でた。
「怖いわけないでしょ。板垣さんのことは、私に守らせてください」
板垣は崩れ落ちるように全身の力が抜けた。
胸がぎゅっと潰されるような苦しさに上手く息ができず、肩が不規則に揺れる。
六条は板垣の身体を支えながら、震える背中を優しくさすっていた。
「っ……」
西尾は六条の背中を睨みつける。
――正気か? 一歩間違えれば死ぬようなこと。
それに……。さっきまで板垣さんのこと『実験サンプル』呼ばわりしてたのに、よくその口で『大事な人』なんて言えるな。
西尾の喉の奥に嫌悪感が溜まり、奥歯を強く噛む。
『一番怖いのは、誰も止めないことなんだよ』
本田の言葉が西尾の脳裏で警鐘のように鳴る。
西尾が板垣の元にゆっくり近づくと、六条が背中を向けたまま淡々と言った。
「西尾くん、実験の段取り進めてくれるかな」
「嫌です」
西尾ははっきりと即答し、廊下の空気が凍りついた。
板垣は緊張した雰囲気に耐えられず、六条から離れて立ち上がる。
西尾を見上げながら板垣は言った。
「実験、やります。これからも続けられます。大丈夫です」
西尾の胸の奥に重い鉛のような不安が落ちる。
「こんな状態で、まだ続けるの?」
「はい。続けさせてください。私自身のために」
西尾は浮かない顔のまましばらく板垣を見つめ、大きくため息を吐く。
「分かりました」
そのまま西尾はスタスタと実験室へと向かった。
廊下を歩きながら、西尾は苛立ったように頭を掻いた。
「勘弁してくれよ」
西尾の口から囁くような独り言が零れた。
板垣も西尾の後を追い、ぱたぱたと駆けだした。




