31 制御不能
教師の話し声とチョークの音が静かな教室に響く。
板垣は黒板の白い文字の羅列を見ながら、動きを止めていた。目は黒板を追っているのに、意味が頭に入って来ない。
板垣は時々はっとしてペンを動かすが、筆圧が弱く記号のような文字がノートに並んでいく。
左手のスマートウォッチの画面に、微弱な心拍変動の線図がちらつく。黒板を見るたびに、その線が視界の端に入り込んできた。
板垣の耳には教師の声が一切入って来ず、昨日の実験室での記憶がずっと頭にこびりついて離れなかった。
自分の心が、自分のものじゃないような感覚。
耳の先まで熱くなり、板垣は思わず俯いた。目に入ったノートの文字が揺れて見えた。
授業が終わるとすぐに、横から早坂の声が聞こえた。
「あろまん、体調悪い?」
「ううん、大丈夫」
「いや、明らかに授業中ぼーっとしてたぞ」
「ほぁ!?」
板垣は目を泳がせると、早坂は怪訝な顔で板垣を見た。
板垣は俯いて一息置き、返答する。
「……気持ちが整理できてないだけかも」
そう言って板垣は手元のスマートウォッチをちらりと一瞥した。
早坂は奥歯を噛みしめる。
「……あろまん、やっぱり、その実験の手伝いってやつ、やばいと思うよ。すぐにやめた方がいいよ」
早坂の声は細かく震え、閉じた手のひらに力が入っていた。
「実験は、私にとって必要な――」
言いかけた瞬間、板垣の視界が大きく歪む。光の粒が早坂の周りに浮かび、音が急に遠ざかった。
――あ、この感覚。
板垣はスマートウォッチの画面の触れると、心拍数と呼吸のデータが乱れている様子が表示された。
板垣は机に手をついてゆっくりと立ち上がる。
「るみ、ごめん。ちょっと、トイレ行ってくる」
板垣はふらつきながら教室を出た。
早坂が板垣を追いかけようとした瞬間、それを阻止するかのように授業開始のチャイムが鳴った。
同時に数学の教師が教室に入り、「始めるぞ~」と威勢よく声を上げた。
早坂は板垣を追うタイミングを失っていた。
板垣は廊下をふらつきながら歩く。
「落ち着け、深呼吸……」
視界は色を失い、耳鳴りがした。
廊下が延々と続き、トイレまでの距離があまりにも遠く感じる。
板垣は空いているミーティングルームに駆け込み、崩れ落ちた。
床を見つめながら呼吸を荒くする。深呼吸しようとしても、空気が肺の奥まで入らない。喉が震え、息を吸うリズムが乱れる。
動悸がして、板垣は胸を押さえながら全身を震わせた。
指先から感覚がなくなっていく。
「落ち着け、落ち着け、落ち着け落ち着け」
唇から震えた息が漏れ、動悸がさらに激しくなる。スマートウォッチの画面では、赤い数字が無機質に板垣の焦りを示していた。
――なんで?
制御できないという焦りが板垣をさらに追い詰める。
「助けて」
板垣は縋るように呟いた。しかし板垣の頭は熱くなり、浅い呼吸を繰り返すことしかできない。
以前は、心を落ち着けられるものを思い浮かべられたはずだった。
耳鳴りがひどくなり、背筋が粟立つ。
板垣は近くの机の脚を握りしめようとしたが、力が入らず指先が震えるだけだった。
――るみのことを思い浮かべれば……!
『その実験の手伝いってやつ、やばいと思うよ。すぐにやめた方がいいよ』
一瞬、先ほどの早坂の声が脳裏を掠めた。
板垣はふと視線を上げる。
視界が白くチカチカと刺さり、窓の光が眩しく爆ぜた。
一瞬、音と視界が消える。
窓ガラスに一瞬でヒビが入る。
直後にガシャンと音が響き、破片が雨のように床に散った。
板垣は膝をつき、震える手で胸を押さえた。
「なんで……」
か弱い声が零れる。
板垣の指先は冷たく、まだ震えていた。
ミーティング室のドアが勢いよく開き、英語教師が入ってくる。
「何してんの!?」
その怒号に板垣は一瞬怯み、目に涙を浮かべた。
「……すみません、体調悪くて。ふらついて窓に寄っかかってたら、割れちゃいました……」
板垣は咄嗟に出た嘘で誤魔化した。
教師は板垣に駆け寄り、「ケガはない?」と尋ねた。
「顔色悪いよ。熱あるんじゃない?」
教師は板垣を保健室に連れて行った。
板垣の胸の中で罪悪感と、そして、感情を制御できない不安が積み重なっていった。




