30 奪われた心
「今日は、前半はこの前みたいに、強い感情を抑制する練習をする。そん後は……先生と今後のことを話し合おうかと……」
研究室のデスク席に座った板垣の隣で、西尾がぼそぼそと話し始めた。
居室では学生たちの話し声と装置の音が飛び交い、小さなざわめきを作っている。
「先生はいないんですか?」
板垣がきょとんとして尋ねると、西尾も首を傾げた。
「まだ戻ってなさそ。前の講義が長引いてるんかな」
板垣は肩を落としてデスクの天板を見つめた。
西尾は一瞬眉をひそめて口を開く。
「板垣さんさ。先生のこと友達っぽく思ってたりする?」
板垣は勢いよく西尾の方を振り向いた。
「ととと友達!? なんでですか? そんな非常識なこと思ってないですよ?!」
声は一瞬裏返り、上ずっていた。
「あーそうよね。ごめん、今の話忘れて」
西尾はそう言って深いため息を吐いた。
西尾は言葉を選ぶように少し間を置いて、腕を組みながら再び尋ねる。
「あとさ。板垣さん、昨日の昼過ぎ、なんかあった?」
板垣はぽかんとして西尾を見つめた。
「なんかあった、ってどういうことですか?」
「感情が揺さぶられたり、動揺するようなことがあったかな? 明らかに情動破壊の発生条件に近い状況だったから」
頭上から降って来た声に、驚いた板垣は勢いよく顔を上げてイスからひっくり返りそうになった。
六条は板垣のイスを支えながら少し息を切らして笑っていた。
「先生、遅いっす」
「板垣さんにあげるチョコなくなってて……調達してきてた」
「え、この前買ったばかりでしたよね。なんでそんな早く」
「あのチョコって美味しいんだねえ」
二人のやり取りを見ながら、板垣は肩を揺らして吹き出した。
「で、板垣さん、昨日は大丈夫だったん?」
西尾は平たい声で尋ねる。板垣は西尾を見ると、心配そうな表情に一瞬驚き、声を詰まらせた。
「あの感覚が直前まで来て、でも、なんとか、抑えられました。るみ……あ、友達が助けてくれたので、ケガはしてません」
板垣が言うと、西尾はほっと小さく息を吐いた。
「そうか。板垣さんが無事でよかったよ」
六条は笑いながら言った。その声がいつもよりも硬いのに気付き、板垣は一拍遅れで頷いた。
実験の準備が完了し、板垣は実験室でイスに座っていた。
「今日はまず感情制御の練習、ですよね」
板垣は目の前の六条に向かって言った。
「そうだね。……あ、関係ない話だけどさ。板垣さん、今日の昼頃……昼休みの時間かな。どんなことしてたの?」
六条が尋ねると、板垣はぽかんとして六条を見た。
「友達と普通に話してましたけど……」
「普通に話してたのか。早坂さんもそこにいたの?」
「あ、るみもいました」
六条の微笑の中にいつもと違って寂しさが混ざり、板垣は驚いて目を見開く。心臓が一瞬跳ね上がり、板垣は息を吞んだ。
「……るみがどうかしました?」
板垣は恐る恐る尋ねると、六条は小さく首を横に振った。
「いや、板垣さん、なんであの時動揺してたのかなあって、ちょっと気になっただけ」
板垣は「ほえ!?」と気の抜けた声を上げ、六条を見た。
昼休みの記憶がじんわりと蘇り、板垣の胸の中は少しずつ熱を帯びていった。
六条は板垣に顔を近づける。
「板垣さんの心の中は、こっち側に筒抜けなんだよ」
六条は微笑みながら囁き、板垣の左手首に嵌められたスマートウォッチを指した。
小さな画面に六条の指先が触れ、激しく変化する線図と赤い数字が表れる。その数字は、板垣の心の変化を板垣自身よりも先に知っているようだった。
「板垣さんは、何に心を揺さぶられて、何を感じるのかな?」
六条が柔らかい声で尋ねる。
板垣の心臓が大きく鳴った。同時に六条の笑顔の中に一瞬無機質な視線を感じ、背筋がぞくりと冷える。
顔は熱いのに身体の芯は冷えている感覚に、頭の中がパニックになっていた。
「……っ。怖いですよ、先生」
板垣は言いながら、自分が本当に怖いと思ってるのかすら分からなくなっていた。
板垣は視線を落とし、浅い呼吸を繰り返す。ぼやけた視界の中で、膝が震えているのが見えた。
「何してるんすか。早く実験やりますよ」
西尾の低い声が降りかかり、六条は一歩退いて西尾を振り返った。
西尾は六条を睨みつけて深くため息を吐いた後、取り乱したような板垣の様子を見て一瞬ぎょっとした。
「板垣さん、体調あんまりよくない感じ?」
西尾は顔をしかめて尋ねる。
「大丈夫、です」
板垣は目を逸らして答えると、西尾は小さく息を吐いた。
「体調おかしかったらすぐに言ってね」
板垣はぎこちなく頷き、西尾は浮かない顔をして持ち場に戻った。
六条は板垣に目を向けながらゆっくりと話し始める。
「板垣さんは最近、どうも感情の昂ぶりを誘発しやすい状態になっているみたいだね」
板垣は俯いて奥歯を食いしばる。
六条は板垣の前で屈み、穏やかな声で続けた。
「日常に戻って行動量が増えたことが要因だと思うけど……精神が不安定な状態は感情の昂ぶりをさらに誘発して、負の連鎖に陥ってしまう」
「これから、感情の制御が、必要になる場面が、もっと増えるかも、ってことですか?」
板垣が声を震わせて尋ねると、六条は微笑みながら頷いた。
「そういうこと。でも、板垣さんが『自分の感情は自分で抑制できる』という自信をつけられれば、精神はかなり安定すると思うよ。だからちょっとずつ、慣れていこう。ここだったら何回失敗しても大丈夫だからね」
六条は板垣の呼吸を落ち着けるように背中を優しくさすった。
板垣は背中に温かい感触を感じた瞬間、強張っていた心が一気に解けて崩れ落ちるような感覚がした。
脳内で、昼休みの会話が勝手に蘇る。
和田たちから『優しい人が合う』と言われ、ふと浮かんでいた目の前の六条の姿。でもさすがに違う、とその時は心の中で否定したはずだった。
――あれ?
「板垣さん?」
その声を聞いた瞬間に、鼓動が跳ね上がる。顔を上げられず、鼻から熱い息が漏れる。
心臓の辺りを押さえると、激しい拍動に押し返された。
――なんで??
板垣は頭の熱を冷ますように、顔を両手で覆いながら深く息を吐いた。肩が小刻みに震えながら上下に大きく揺れた。
「板垣さん、具合悪いのかな」
六条は呟き、西尾にストップサインを出した。
安全壁の奥から西尾が現れ、板垣の元に駆け寄る。
「大丈夫? やっぱり体調万全じゃないでしょ」
「違います。大丈夫、です」
板垣は息を荒くしながら、自分自身に言い聞かせるように言った。
「今日は調子悪そうだから休もうか」
六条が言うと、板垣は目を開いて首を横に振った。
「大丈夫です、すぐに、できます」
「無理しない方がいいよ。ほい、立てるかな」
板垣は六条に手を掴まれて立ち上がった。板垣は俯きながらぷるぷると震えていた。
「板垣さん、なんか熱ありそうだな。マジで休んだほうがいいよ」
西尾が板垣の背中を支えて居室へと連れて行った。
「すみません……」
板垣は震える声で呟いた。
「お疲れ。今日はゆっくり休んで。次また練習頑張ろうね」
居室のデスクに戻った板垣の手に、六条からビターチョコレートが差し出される。
「……何もやってないのに、貰っていいんですか?」
板垣が顔を上げると、にっこりと微笑んだ六条と目が合う。
「いいんだよ。板垣さんにはいつも色々と手伝ってもらってるから」
その声と表情に、板垣の心臓が痛いぐらい跳ね、喉がきゅっと締まる。
「?????」
板垣はばっと顔を下に向け、焦点の合わない目でチョコレートを見た。
「今後の計画の話、次の時でいいっすか」
「そうしよっか」
西尾と六条がふらりと居室の入口で話し込む傍ら、板垣はビターチョコレートを口に入れた。
その甘さに驚き、板垣は一瞬息を止める。
次第に呼吸と心拍が落ち着いていくのを感じながら、デスクにうつ伏せてぼんやりと遠くを見つめた。




