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3 戻りたいのに、戻れない

 板垣は久しぶりの校舎を眺めていた。

 長い休み明けのような気分だった。しかし、抱えているものは大量の宿題なんかよりもずっと重い、不安と憂鬱だった。


 この数ヶ月、板垣はどこに行っても視線を感じていた。

 スーパーの雑誌棚に並んだ自分の名前。

 道端や電車でついて回る、見知らぬ大人たちの囁き声。

 SNSで“事件の子”と呼ばれて憶測が憶測を呼んだ。


 だが、誰も本当のことを知ろうとしなかった。


 足を引き摺るように昇降口に入った瞬間、男子たちの囁き声が聞こえた。

「殺人事件の……」

「え、学校に戻って来たの?」

 板垣が声の方に目を向けると、その男子たちはびくりと肩を揺らして走り去った。


 板垣は怯えた目で周囲を見回しながら、忍び足で廊下を渡る。今まで感じたことがないぐらいに廊下が長い。

 身体が熱くなり、背中に汗が滲む。


『1年2組』のプレートが見えた瞬間、心臓が跳ね、喉がきつく締まる。足では教室を目指しながら、逃げたいと叫び出しそうな気持ちが口元まで込み上げていた。


 やがて教室のドアが目の前に迫り、板垣は一度唾を飲んで、ゆっくりと腕を上げる。ドアにかけた指の先まで震えていた。

 ドアを開けた瞬間。


 ざわめきが止まる。

 空気が張り付いたように重くなる。

 周囲の視線が一斉に板垣に突き刺さる。


 足が床に吸いつくように重い。

 一歩、二歩、教室に入るたびに視線の圧が強く刺さり、板垣の呼吸が浅くなる。


「おはよ……」

 板垣の小さな声が教室に響く。誰も答えず、椅子が軋む音だけが教室の隅で小さく鳴った。

 板垣が席に向かう途中、女子の一人が板垣にぎこちなく会釈した。その微妙な距離感の苦しさに、逃げるように席へと滑り込む。


 机の向こうで、早坂がちらりと目を合わせてきた。早坂は一瞬口を小さく開け、ふわりと笑みを向けてきた。

「あろまん、おはよ」

 板垣の耳に、早坂の声が微かに届いた。その声だけが教室の中で温度を持っていた。


 クラスメイトたちの小声、遠慮がちな視線、机を並べているだけで伝わる恐怖。板垣はその目線に耐えながら、ただ黒板を見つめた。



 休み時間、早坂が板垣の席に駆け寄り、小さく声をかける。

「あろまん、大丈夫?」

 その“普通の声”に板垣は一瞬ぎょっとしたが、すぐに笑顔を作った。


「うん、大丈夫……多分」

 板垣は早坂の顔を見つめ、少しずつ顔の力を緩ませる。

「るみ、元気そうで、良かった」

 板垣は思わず言った。

 その言葉に早坂は「は?」と一瞬間抜けな声を出した。


「……あろまんこそ、そんなに変わってなくて良かった」


 早坂の一言が、板垣にとってようやく空気が吸えた瞬間のように感じられた。早坂の存在だけが、普通の世界に戻れるかもしれないという細い糸のように見えてしまう。


 早坂は唇を強く結び、少し困った顔で板垣の机にもたれかかった。

「あのさ、変に頑張らなくていいから。私、あろまんから離れないからさ」

 板垣は小さく頷く。早坂の顔をじっと見ていると、胸の奥で少しだけ安堵が広がった。



 放課後、板垣がリュックを背負うと隣から早坂の声がした。

「あろまん、一緒に帰ろ」

 板垣はリュックの肩紐を強く握り、頷いた。


 板垣は早坂と並んで帰り道を歩いた。夕日が目を刺し、時々細目になりながら小さく歩き進める。

 隣を誰かと歩くのは久しぶりだった。板垣はすぐそばから感じられる早坂の息遣いに思わず表情を緩め、何度も早坂を振り返った。


 早坂は取り留めもない話を続けていた。板垣は曖昧な返事をしながらぼんやりと笑い、視界の端で早坂を見続けていた。


 やがて駅前の通りに入り、行き交う人が増えていく。

 板垣は全身の皮膚がひりつくのを感じた。あちこちから視線を感じる。誰も声は発さないが、静かな好奇と嫌疑が刺さる。

 板垣は思わず肩を縮めて俯き気味に歩いた。

 隣で早坂は、何も気付かずに板垣に話しかけ続けていた。



 早坂との別れ際、板垣は小さく手を振った。

「じゃ、また明日ね」

「また明日っ」

 静かな交差点で二人の声だけが響く。板垣は早坂の後ろ姿が見えなくなるまで、その場で立ち止まって見送った。

 やがて足先の向きを変えて歩き出す。

 一人で歩くと、歩道がやけに広く感じた。




 板垣が帰宅すると、夜の食卓は静まり返っていた。

 以前は三人でテレビを見ながら笑っていたが、今は食器のぶつかる音だけが響く。

 母親は俯いたまま、無言で箸を動かしている。

 テレビでニュースが流れると、母親が慌ててリモコンでテレビの電源を切った。

 その沈黙が余計に耳に刺さった。



 その夜、板垣が自室で勉強していると、廊下の向こうから押し殺した声が聞こえた。

「もう限界なの。あの子をこれ以上家に……」

「世間がどう言おうと俺たちが支えなきゃ――」

 父親の疲れたような低い声に、母親の泣き声が被さる。


 板垣のシャープペンシルを握る手に力が入り、手の震えで芯が折れる。視界がぼやけて、ノートに落ちる涙で文字が滲む。

「私の、せいで」

 震えた声がぽつりと零れた。





 数日後、朝食の席で母親が涙声で言った。

「来週、荷物をまとめるから」

 父親は淡々と短く「わかった」と答える。

「どういう、こと?」

 板垣は箸を持ったまま、二人の顔を見比べた。

 両親の会話の意味は理解していた。だが、それを信じたくなかった。


 両親は顔を見合わせ、少しだけ沈黙してから、父がぽつりと告げた。

「……あろまは、俺のほうに来い」


 その声は、救いの手というよりは、乾いた事務連絡のように聞こえた。板垣は息を止め、身体を強張らせた。頷くことも首を横に振ることもできず、ただ両親の顔を交互に見つめていた。


 何かを諦めたような父親の顔。

 自分を通り越して遠くを見る母親の目線。

 板垣は口の中に残った目玉焼きの味が砂のように変わるのを感じた。

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