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26 この鼓動は渡さない

 保健室の閉じ込められたカーテンの中で、早坂は板垣と並んでベッドに腰を下ろしていた。早坂が隣の板垣を見ると、じっとカーテンの布地を見つめている。


「ほんとに平気なの?」

 早坂が板垣の隣に腰を下ろし、怪訝な顔で尋ねる。


「うん。もう、だいぶ楽になった」

 板垣は微笑みながら、自分の左手首の袖を引っ張っていた。その仕草が、何かを隠しているように見えた。

 早坂は俯き、小さく鼻息を漏らした。

「さっきの、ほんとに貧血なの?」

 早坂の声が少し硬くなる。


「多分。最近、寝不足だったから。……ほら、中間テストも近いし」

 板垣の笑顔が、嘘のように見えた。


 早坂は板垣の手を取って軽く握る。

 板垣の身体がびくりと反応し、裏返った声を上げる。

「るみ?」


 早坂は板垣の目をじっと見つめると、板垣はすぐに目を逸らして視線を落とした。


 ――なんで、目を逸らすの?


 早坂は思わず板垣の手を握る力を強める。

 板垣の焦ったような息が早坂の首元にかかり、早坂は「ごめん」と驚いた声を上げて手を離した。

 その時、板垣の左手の袖口から黒いスマートウォッチが覗いた。

 早坂の胸の中がひりつき、吸い込まれるようにスマートウォッチを見つめる。


「あのさ。ちょっと気になってたんだけど」


 早坂は尋ねながら、自分の声が硬くなっていることに驚いた。それを誤魔化すように咳払いをして続ける。

「そのスマートウォッチ、おニューのやつ? なんかかっこいいね」


 板垣の目が大きく開いた。

「あ、その、ええと」

 板垣の声が揺れ、視線が泳いでいた。

 その様子に早坂は首を傾げ、次第に眉間のしわが深くなっていく。


「研究室で貰って……データ収集のために、つけてなきゃいけなくて……」

 板垣は慌てた様子で答える。


 数秒の沈黙の後、早坂は冷たい声で言い放った。

「……ああ、そう」

「でも、るみが心配することないから」

 板垣は小声で呟いた。


 早坂はそのまま黙っていた。

 眉間に力が入り、思わず拳を握る。冷たい指先を包みながら、喉に込み上げる熱を抑え込む。


 二人はしばらく見つめ合った。

 早坂の頭の中が、少しずつ熱くなっていく。


「……そういえば!」

 板垣は小さく手を叩いた。

「あのさ、昼休みのとき……るみが田中ちゃんたちと話してたじゃん。なんか……ヲガワさんがどうとか……」


 途端に早坂は顔の力を緩め、「あ」と呟いてスマートフォンを取り出した。

「そうだ、あろまんにずっと話したかったんだ」


 早坂はヲガワから届いたDMの画面を板垣に見せた。

「ヲガワさんって、知ってる?」

「有名人じゃん」

 板垣は目を丸くする。

 早坂のスマートフォンの画面に、その有名人のアイコンとメッセージが並んでいた。

「ほあ!?」

 板垣は画面を見ながら、気の抜けた声を上げた。


 早坂はその横顔を見ながら、息を整えた。

『お話を伺いたい』、『一連の出来事を動画に取り上げてよいか』、『あなたたちの味方になりたい』

 誠実で、正しい言葉が並んでいる。

 ――でも。


 早坂の喉が詰まる。

「……この人となら、話してみようかと思ってて。でも、ちょっと怖い。この前みたいなことがあったら……」

 早坂は板垣を見つめた。


「……私と一緒に、行ってくれない? やっぱり、あろまんと一緒じゃないと、怖くて」

 板垣は早坂の顔を見つめ返した。

 早坂の視界が微かに揺れていた。


「一緒に話そう。私も、るみが一緒の方がいい」

 板垣のまっすぐな声が、早坂の耳に届いた。


 その言葉に、早坂の胸の中で何かが崩れ落ちた。

「ありがとう」

 早坂は掠れた声で言うと、肩を震わせて俯いた。

 胸の奥から生温かい感情がせり上がってくる。


 早坂は考えるより先に腕が動き、耐えきれなくなったように板垣の胸元へ倒れ込んだ。板垣の体温と石鹸のような甘い香りに包まれながら、早坂は深く息を吸い込んだ。

 板垣の浮き出た鎖骨に額を押し当てると、早くて規則正しい拍動を感じ取った。


 ――この心臓の音も、そのスマートウォッチを通して、研究室に『監視』されているの?


 早坂の指先がぴたりと硬直しながら小刻みに震えた。その指先で、すっと板垣の髪を撫でる。板垣が自分の手の中にあることを確かめるように、早坂は手を何度も滑らせた。


「最近、あろまんが急に遠くに行ったみたいで。何かに、塗りつぶされていくみたいに。……怖くて、寂しかった」

 早坂は声を震わせた。早坂の声は、涙よりも重い粘り気を持って板垣の耳に届いた。


「私、どこにも行かないよ」

 板垣は戸惑い混じりに早坂の背中をさすった。

「どこにも行かないでよ」

 早坂は涙声で答える。自分の口から出た自分勝手さと醜さに、自分自身が一番傷ついた顔になりながら板垣を見上げた。


 板垣の表情には、苦みが混ざっているように見えた。


 授業終わりのチャイムが鳴る。

 早坂は板垣から離れ、立ち上がる。板垣に背中を向けながらぼそりと言った。

「……あろまんも戻ろ」

「うん」

 二人は並んで保健室を出る。


 話し声が飛び交う廊下を歩きながら、早坂は板垣の左手首に目をやった。

 スマートウォッチの画面が白い光を放っている。


 ――あろまんは、世間の偏見から逃れて救われたはずなのに。

 なんで?

 なんで、まだ研究室から監視されてるの?


 早坂の鼓動が深く鳴り、まるで叩かれているかのように胸が痛む。

 廊下のざわめきが耳から遠のいた。


 そして、早坂の脳裏に若い女性の姿が浮かんだ。

 ――本田さん。

 まるでSOSのように早坂の胸の中で反響し続ける。

 その心の叫びが、すっと廊下の窓を飛び越えていくような感覚がした。


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