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24 劇薬は口に甘し

 後半の実験が始まると、板垣は静かな実験室の中心で、緊張した面持ちで座っていた。


「板垣さんは、どんなことを考えたり見たりしてる時が一番安心するかな?」

 六条からの問いに、板垣は困ったように考え込む。その様子を見て、六条は笑いながら言った。

「そこまで真剣に考えなくていいよ。思い浮かんだものを何でも教えて」


 板垣は顔の力を緩め、六条の笑顔を見つめていた。板垣は一拍置いて息を吸い、少し考えた後、ゆっくりと答える。

「……え。お菓子、と、そこの居室のコーヒーみたいな匂いと」


 板垣の返答を聞きながら、六条は微笑んで頷く。その緩い笑顔を見て、板垣は胸の奥がふと解けるのを感じた。

「っ……」

 板垣は一瞬口を開きかけて声を飲み込んだ。


 ――先生、って言いそうになった……。

 板垣の視線が泳ぎ、頭が熱くなる。


 六条はゆっくりと手を伸ばし、板垣の肩に軽く触れた。

「肩に力入ってるよ。リラックスして」

 板垣はぴくりと肩を揺らして息を吞んだ。鼓動が早まり、呼吸が浅くなる。


 板垣は再び口を開きかけた時、六条が囁くように言った。

「あとは、早坂さん……かな?」

「ほえ!?」

 板垣の心臓が跳ね上がり、間抜けな声を出した。六条はくすりと笑い、板垣の頭を軽くぽんと撫でる。

「お友達のこと、大好きだもんね。良いことだよ」


 板垣は視線を足元に落としたまま、ぷるぷると膝を震わせる。

 心臓がバクバクと脈打ち、顔が熱くなっていた。


 六条は板垣の様子に一瞬驚いた後、表情を緩めて穏やかに話し始めた。

「今度は、板垣さんが心理的な自己制御ができるかどうかを確かめたい」

 板垣はぴくりと顔を上げて尋ねる。

「自己制御、ですか?」


 六条はふわりと笑いながら言った。

「これから私たちの方でいつものように負荷をかけていく。板垣さんのダメージが大きくなってきたところで、私から指示を出す。その時に、今板垣さんが話してくれた『安心できること』を考えて、心を落ち着けてみようか」


 板垣は俯いたまま「はい」と答えて頷いた。

 六条からヘッドセットを受け取り、板垣は頭に装着する。

 ゆっくり目を閉じて深呼吸を繰り返す。


 西尾は安全壁越しにその様子を見ながらパソコンを操作し、クリックした。

 画面に表示された波形は乱れ、西尾は思わず眉を寄せる。焦りながらパラメーターのモニターを端から確認すると、ほとんどのパラメーターで値が乱れていた。

「……センサーの装着不良か?」


 ほどなくして六条が西尾の隣に座る。

「先生、こんなんじゃ測定になりませんよ。センサーがちゃんと着いてるか確認してきます」

 西尾が立ち上がろうとすると、六条は腕を掴んで引き留める。

「板垣さんのこと、ちょっと揶揄っちゃった。落ち着くまで時間かかるかも」

「は!?」

 西尾は怒鳴るように叫んだ。


 六条は笑顔を崩さずにぽつりと言った。

「どうすれば早坂さんみたいに、板垣さんから強い愛着を持ってもらえると思う? 私も板垣さんと友達になれれば、彼女の心の中で存在感を出せるかな」


 西尾はしばらく顔を引き攣らせて絶句し、六条を睨んだ。

「あなたは何を言ってるんですか? 時差ボケで頭いかれました?」

「私は正気だよ」

「先生の思考は倫理から逸脱してるんすけど、自覚ありますか?」

 西尾のしかめ面を見て、六条はふっと笑いを漏らす。


「誤解を招いちゃったようだな。私は板垣さんをどうにかしたいだなんて一切考えてないよ。彼女は未成年だし、むしろ保護しなきゃいけない立場だろ」


 西尾は表情を変えずに、声を低くして尖らせる。

「じゃあなんで、板垣さんと仲良くなれたらなんて気持ち悪いこと考えたんですか?」

「実験サンプルを手元に留めるための手段だよ。彼女が安心できる材料になれれば、安定してこちら側に置いておける。情動破壊の再発防止としても合理的だろう」

 六条は穏やかに微笑して西尾を見る。

 西尾はマウスを強く握り、低い声を絞り出す。

「冗談、ですよね」


 西尾は背中に汗を滲ませてパソコンの画面に目を向けた。波形や値はようやく板垣の落ち着きを示した。隣で六条はパソコンの画面を一瞥した後、西尾をちらりと見た。

「今回の精神負荷役、西尾くんがやってみる?」

 西尾は目を伏せて首を横に振った。

「無理っす。板垣さんを追い詰めるなんて俺にはできません」

「台本を読むだけなのになあ。まあ、しょうがないか」

 六条は緩く笑いながらヘッドセットを装着し、マイクに向かって話し始めた。


「板垣さん、そろそろ落ち着いたかな? 実験始めようか」


 板垣は耳元の声に小さく頷いた。


『板垣さんが……沼野くんという人を、殺した時のことを思い出してもらおうかな』

 耳元に飛び込んだ声に、板垣は肩を縮ませた。

 鼓動が早まり、呼吸がうるさくなる。

 膝に置いた手をぎゅっと握ると、汗が滲んでいた。


「殺……した……? 私が……」

 板垣は呟きながら全身を震わせる。


『5月の休日、お友達の“早坂さん”と遊んだ日の帰りの出来事で間違いなかったかな?』

 落ち着いた柔らかい声が耳に入る。板垣は目を閉じて呼吸を荒げた。

「それは……やめて……下さい」

『あれ、間違ってたかな?』

 六条がとぼけたような声で尋ねると、板垣は怒りを滲ませて叫ぶ。

「合ってます!」

 板垣は肩を上下させて息をした。口から吐き出される空気が大きく震えている。


『板垣さんは帰り道の途中で、“沼野くん”という少年に会ったんだっけ?』

 板垣は黙って肩で息をする。

 目を閉じると、あの日の記憶が鮮明に蘇る。

 それを遮ろうと首を激しく横に振る。

「嫌だ、思い出したくない」

 額を汗が伝い、喉元に硬い空気が押し寄せる。


 問いかけは容赦なく続いた。

『そこで沼野くんは、板垣さんに何て言ったんだっけ? ……覚えてるかな?』


 沼野の笑い声が脳裏にフラッシュバックする。


 板垣は目を血走らせ、頭を押さえた。

 耳鳴りがして、頭の中が焼けるように熱くなる。

 呼吸が乱れる。涙が溢れる。

 耳元の音がぼやけ、視界が霞み始めた。


 安全壁越しに座っている西尾がパソコンを睨む。

「そろそろっすよ」

 六条は板垣の様子をしばらく見守ったあと、マイクに向かって呼びかけた。

「板垣さん、心を落ち着けられるかな?」


 板垣は大きく息を吐いて、先ほどの六条とのやり取りを思い返した。

 ――安心できるもの……。

 チョコレートの包み、居室の風景とコーヒーの香り。

 るみや中学の友達。

 先生の声。

 色々な感覚が板垣の脳裏を掠め、じんわりと胸の中を満たしていく。

 少しずつ、頭の中の温度が下がっていく。


「落ち着いてきてますね」

 西尾が安堵混じりに言うと、六条も頷く。

 二人はしばらく板垣とパソコンのモニターを見守り、モニターの値が正常範囲に収まったことを確認した。


『板垣さん、上手にできたね。今日はこれで終わりにしよう』

 耳元から六条の声が聞こえると、板垣はほっと息を吐いてヘッドセットを外した。

 座ったまま息を整えていると、六条から先ほどと同じビターチョコレートが手渡された。

「お疲れ様。板垣さんは感情の制御がちゃんとできてたよ。これからも少しずつ練習して、怖い思いをしなくて済むようにしようね」


 板垣は目に涙を溜めながら声の方を見上げた。滲んだ視界の中で微かに笑顔が見え、胸がきゅっと縮むように苦しくなる。


 ビターチョコレートを口に入れると、不思議と先ほどよりも甘く感じた。

 その甘さが口の中に染み込むように溶けていった。



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