23 一瞬の苦み
板垣が西尾に連れられて六条の居室に入ると、パソコンに向かっていた六条が寝ぼけた顔で振り返った。
「先生、板垣さん来ました」
西尾が無造作に言うと、六条がぼんやりと笑う。
「あ、おはよう」
「今夕方ですけど」
西尾が淡々と答え、隣で板垣が吹き出して肩を震わせた。六条はぼーっと板垣を見つめ、徐に立ち上がった。
「これ、板垣さんに。出張のお土産」
板垣の手に英文字が書かれた小さな包みが渡された。板垣はそれを手に取って興味深く観察する。
「ありがとうございます。……見たことないですけど、これ、お菓子ですか? 京都とか有名なところのものじゃないですよね?」
「チョコだよ。アメリカのやつ」
西尾が微笑しながら答えると、板垣は驚いて目を丸くする。
「アメ……、外国行ってたんですか!?」
六条は少しだけ照れたように笑った。
「うん、ボストンの方で国際学会があってね。面白い話が聞けたよ」
「国際学会……なんかかっこいいです……!」
板垣は目を輝かせて六条を見上げる。瞳には少し憧れの色が混じっていた。
西尾は隣で小さくため息をついて、退屈そうに首元をさする。
「そういえば先生。アレ、ここで板垣さんに渡します?」
板垣はきょとんとして西尾を見上げる。西尾は板垣をちらりと見て、少しだけ口角を上げた。
六条はしばらくぼんやりと考えた後、「あれか」と呟いてデスクの上の小さい箱を手に取り、西尾に渡した。
西尾がその箱を開けると、中から黒いスマートウォッチのようなものが出てきた。思わず板垣もそれを凝視する。
「これがエレマジック社の試作機ですか。思ったよりちゃんと作り込んでるんすね」
「スマートウォッチ、ですか?」
板垣は西尾を見上げて尋ねる。
「まあ、そんな感じ。それをつけると、リアルタイムでバイタルデータが取れる。本来の使い方は健康管理なんだけど、今回は板垣さんのデータ収集と感覚制御の模索に使おうと思ってる」
西尾は淡々と答え、ちらりと六条を見る。
「……んですよね?」
「うん」
六条はぼやけた笑顔のまま頷いた。
板垣は西尾に促され、スマートウォッチを左手首に装着する。スマートウォッチを恐る恐る操作し、小さな歓声を上げた。
西尾はその様子を見て笑いを漏らす。
「一旦それの測定精度を確認したいから、実験室に行こうか」
六条が穏やかな声で言った。
小一時間ほど経ち、実験室から涙目の板垣が出た。
板垣は頭の芯が焼け焦げたような感覚が残ったまま、覚束ない足取りでデスクに向かい、空いた席に座った。
喉を震わせながらしばらく息を整えていると、実験室から六条と西尾が出てくる。
「測定精度、問題なさそうだったね」
六条が朗らかに言うと、西尾が不機嫌な表情で雑に頷いた。二人は板垣の前で立ち止まる。
六条は板垣の前で屈み、目線を合わせて穏やかに笑った。
「今日も頑張ったね。後半もよろしくね」
六条の手からチョコレートが差し出される。いつもと違い、黒い包みだった。板垣はそれを見た瞬間、目を見開いた。
「今日はビターチョコだよ」
六条は柔らかい声でにこやかに言うが、板垣は歯をカチカチと鳴らして横目で西尾を睨んだ。西尾はにやりと口元を歪ませていた。
「ありがとうございます。……なんか、すみません」
板垣は小声でビターチョコレートを受け取り、小さく頬を膨らませた。
六条は板垣の手首に視線を落とし、スマートウォッチの表示を確認する。
「今は呼吸も心拍も安定してるね。情動破壊が発動しかけたときのデータも綺麗に取れてそうだったし、もう少し休憩したら続きをやろうか」
隣で西尾が腕を組んだ。
「発動までの閾値がちょっと不安定っすね。一応推測モデルは構築してみたんすけど、再現性が微妙で」
「う〜ん……。拾えてない要因が絡んでそうだな。呼吸の深さを制御してみる? 呼吸法を一定に保たせた状態でもう一回……」
六条の言葉に西尾が顔をしかめる。西尾が恐る恐る板垣を見ると、板垣はぽかんとしながら六条を見上げていた。
西尾は咳払いをすると、六条が一瞬驚いたように背筋を伸ばした。
「いや、次は感情を落ち着ける方法を試そう。制御の糸口を掴むには、板垣さん自身が“止めようと思えば止められる”って実感できることが大事だから」
六条はそう言いながら、板垣を見て柔らかく微笑んだ。板垣はその笑顔を見て、安堵の小さなため息をついた。
その隣で西尾は苦い顔をしながら板垣を眺めていた。
六条がデスクの方へ歩き出しながら、西尾の耳元でぼそりと言う。
「対象の破壊プロセス、どうにかして観測したいんだけど。破壊対象を柔らかいモノに変えて、ハイスピで捉えるか。破断面を電顕で見るのがいいのかな。対象をもっと多面的にリアルタイムで見れないかな……。詳しい先生って誰だろう」
六条はにこにこと笑い、西尾は呆れ顔で肩をさすった。
板垣は二人のやり取りをぼんやり聞きながら、包みを開けてチョコレートを口に運ぶ。
強めの苦みとほのかな酸味が舌の上で広がり、板垣は思わず口の動きを止める。
――ビターチョコって、こんな味だったっけ?
六条たちの声が遠のいていく。
板垣は手の中の包み紙を見つめながら、小さく息を吐いた。
口の中の苦みが、胸の奥に溜まったものとどこか似ているようで、少し息を詰まらせた。
顔を上げると、浮かない表情の西尾と目が合った。その視線が、口の中の苦みを一層引き立てていた。




