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21 私とカカオ70%とシフォンケーキと

 研究室のデスクで、板垣と西尾は小さく一息ついていた。

 休日の居室は静まり返り、蛍光灯の白い光と空調の音が部屋を包んでいた。


「先生はいないんですか?」

 板垣は両足をぶらぶらと遊ばせながら尋ねる。

 西尾は板垣の問いに思わず眉を上げた。

「いないよ。学会で出張中。……会いたかった?」

「いや、別に」

 そう言いながら、板垣は一瞬だけ目を伏せた。その顔には、微かに寂しさが滲んでいた。


 西尾は口を尖らせながら、デスクの引き出しから紙コップとインスタントコーヒーを取り出し、立ち上がった。その直後に電気ポットが鳴った。

「とりあえずコーヒーでも飲むか」

 西尾は紙コップにお湯を注ぎ、板垣に差し出す。

 板垣は「ありがとうございます」と呟き、紙コップを両手で包んだ。コーヒーの香りと温かい湯気が鼻先に染みわたった。


 西尾は表情を緩めて板垣を見た後、居室の入口のデスクに目をやった。近くに置いてある羊羹の大箱を乱雑に持ち上げ、板垣の前に差し出した。

「これも食べていいよ。先生の非常食だけど」

 板垣はくすりと笑い、箱から羊羹の個包装を3つほど取り出した。


 板垣は羊羹を二口食べ、コーヒーを小さく啜る。甘さと温かさが混じりながら喉を通り、胃の奥へと沈んでいく。

 熱を含んだため息が、静かな部屋の中で小さく立ち上った。

「この部屋が、一番落ち着きます」

 板垣は手元の羊羹をぼんやりと眺めて、ぽつりと呟く。


 しばらく沈黙が続き、空調の音だけが響いた。


 西尾は猫の絵がデザインされたマグカップを回しながら、視線を宙に漂わせた。時々、様子を窺うようにちらりと板垣に目をやると、板垣は羊羹に夢中になっていた。


 西尾は口を開きかけ、大きく息を吸って口を閉じる。そのままコーヒーを一口飲んだ。

 ――さっき、なんであんなに泣いてたんだ?

 西尾は頭を抱えて再びちらりと板垣を見る。少し考えてから、口を開いた。

「板垣さん、最近どう?」

 西尾は遠回しに尋ねた。


 板垣は羊羹を咀嚼しながら少しだけ顔を上げた。飲み込む動作の後、コーヒーを一口飲み、板垣は返答を詰まらせる。

「どう、って……?」

「いや、その……元気にしてるかなーって」

 西尾は苦笑しながら誤魔化した。


 板垣は目線を落とし、小さく息を吸った。

「……私の動画のこと、知ってますか?」

 西尾はきょとんとして板垣を見る。

「動画?」

「あ、西尾さん知らないんですね。これです」

 板垣はスマートフォンの画面を西尾に見せ、早坂たちのショート動画を再生した。


「これ、るみ……あー、友達が作って投稿してくれたんです」

 板垣は微笑みながら言った。

 西尾は食い入るように画面を見つめる。画面には、見覚えのある少女の姿が映っていた。

「えと、早坂さん、だっけ。この子」

 西尾が呟くと、板垣は驚いて「ほあ?」と間抜けな声を出した。

「西尾さん、るみのこと知ってるんですか? ……あ、この前の実験のときの動画のコメントで……」

 西尾は二、三度瞬きをして板垣を見た。

「や、この前その子に会った」

 板垣は再び「ほあ!?」と間抜けな声を出した。


 西尾はしばらく首を傾げた後、再び画面に目をやる。よく見ると、“いいね”の数が数万件に上っていた。

「ほあ!?」

 西尾も間抜けな声を出した。

「これ、拡散されたん?」

 西尾が画面を指しながら板垣を見ると、板垣は黙って深く頷く。


 板垣は動画を止め、ゆっくりと話し始めた。

「るみたちが、私のために動画を投稿してくれたんです。それが拡散されると、私の方が被害者だっていう声が広がっていったんです。あれからクラスの子も、私に謝ってきたり、優しく話し掛けてくれるようになりました」

 その声は穏やかで温かさが滲んでいた。


 板垣はコーヒーを一口飲み、再び顔を上げる。板垣の表情は曇り、唇をぎゅっと引いていた。

「人って、こんなに簡単に動いちゃうんだなって。昨日まで私を嫌ってた人が、今日になって急に『応援してます』って言ってくるんです。それもたくさん。……なんか、怖くなりました」


 西尾は言葉を失い、視線を落としながらただ黙っていた。

 板垣は両手で紙コップを包みながら続けた。

「それで、あの事件の被害者……沼野くんのお母さんから話がしたいって言われて。今日、会ってきたんです」

 その言葉に西尾ははっとして板垣を見た。板垣の顔はさらに曇り、目をぎゅっと伏せながら唇を嚙みしめていた。


「『なんでお前が生きてるんだ』って言われて、反論できませんでした。私、本当は悪いことをしたのかもしれない。あの人の言葉が、ずっと頭から離れないんです」

 声がだんだんと震え、涙声が混じる。


「……私、生きてちゃだめなのかなって、思いました」

 板垣の声は震え、言葉の最後は掠れていた。

 西尾はマグカップの取っ手を強く握り、しばらく何も言えなかった。


 板垣の鼻を啜る音が部屋に響く。


 板垣の呼吸が落ち着いた頃、西尾はぼそりと呟いた。

「そんな訳ないだろ」

 その声は淡々としていたが、どこか優しさが滲んでいた。


 板垣は口元を緩めて笑う。

「西尾さんって、なんかめちゃくちゃ怖そうでしたけど、ほんとは優しいんですね」

 板垣の言葉に、西尾は眉を歪ませながら苦笑した。


 目を腫らしながら手先で羊羹の個包装を弄び、板垣は小さくため息をついた。ふと脳裏に六条の穏やかな顔が浮かぶ。

 ――先生なら、どうしてくれるんだろう。

 板垣が羊羹の個包装を開けようとすると、視線を感じた。その先に目をやると、西尾がじっと板垣を見ていた。

「あの?」

 板垣は固まったまま西尾を見返すと、西尾が口を開いた。

「先生なら何て言うかな」

 板垣は西尾を見たまま何度か瞬きをした。


 西尾は困ったような顔で「ん” ん”っ」と喉を鳴らし、姿勢を正す。

 次の瞬間、西尾の表情がふと緩み、声のトーンが変わった。

「板垣さんが一人きりで抱える必要はないよ」

 いつもの無造作な口調とは違い、穏やかで柔らかい声だった。

 その声に板垣は目を見開き、口を半開きにしながら西尾を見る。


 西尾はしばらく言葉を探していたが、諦めたように素顔に戻った。

「……分かった?」

 西尾は低い声で言ってマグカップのコーヒーを乱雑に飲み干した。板垣に目をやると、板垣は放心して固まっていた。

「板垣さん?」

 西尾の呼び掛けに、板垣はぴくりと背筋を伸ばして西尾を見た。


 板垣は二、三度口をパクパクさせた。

「……びっくり、しました。まるでそこに先生がいるみたいで。西尾さんすご」

「板垣さんがずっと物寂しげな顔してたから。ちょっとは元気出た?」

 西尾は口元だけにやりとさせると、板垣は驚いた顔のままぎこちなく頷いた。


 西尾は目を伏せて深く息を吐いた。

「俺、研究室で人の表情とか声色の分析を何年もやってるんすよ。いつも見てる人のマネぐらい余裕なのよ」

 少し軽い口調で西尾は言い、コーヒーを飲もうとマグカップを持ち上げた。空になった中身を見て一瞬肩を落とし、静かにマグカップを置く。そのまま西尾は続けた。

「板垣さんを苦しめてる要因を、一つずつ消していこう。俺が手伝うからさ」

 その気の抜けた言い方に、板垣の肩から力が抜けた。


「あと、ちょっと俺から忠告、したいんだけど」

 西尾の声に板垣が振り向く。

「あんまり先生の優しさを当てにしないほうが良いと思う。あの人、ああ見えてときどき残酷な手段使おうとしたり、底が知れない人なんだよ。板垣さんが傷つかないように、今のうちに言っとくわ」

 西尾は淡々と言い、コーヒーのおかわりを作った。


 板垣は手元の羊羹を見つめる。

「先生、そんなに怖い人に見えないですけど。シフォンケーキみたいな感じじゃないですか。ほわほわしてて」

「うぇ?」

 西尾は裏声を上げ、マグカップを持つ手が止まる。西尾の声に板垣が思わず振り向き、二人の目が合った。

 西尾は気まずそうに視線を逸らし、無意識に指先でマグカップに描かれた猫の頭を撫でるようになぞっていた。

「……先生がシフォンケーキなら、俺は何?」

 西尾が小声で尋ねると、板垣は少し考えこんだ後、口を開いた。

「西尾さんはビターチョコレートですね。カカオ70%の板チョコのやつ」

 弾んだような板垣の声の横で、西尾は神妙な顔つきでコーヒーを口に含む。

「板垣さん、俺のことあんまり好きじゃないでしょ」

 西尾が首の後ろを掻きながら尋ねると、板垣は勢いよく首を横に振った。

「私、西尾さんのこと、ちゃんと好きですよ?? それに、チョコの中ではビターチョコが一番好きなんです!」

 板垣の返答に、西尾の動きが一瞬止まる。


「板垣さん、ビター派だったの?」

「? ……はい」

 板垣はきょとんとして答える。

 西尾は困惑を浮かべたまま口を開く。

「先生が『板垣さんは甘い方が好きそう』って言って、いつもミルクチョコ渡してたけど……。もしかしてちょっと不満だった?」

「不満なんて、そんな生意気なこと……!」

 板垣の目はあちこちに泳いでいた。

「先生に伝えとくわ」

 西尾はニヤリと言うと、板垣は頬を小さく膨らませた。


 板垣は小さくため息を吐いて、力無く西尾を見る。

「でも、先生を当てにしちゃいけないなら、私はどうすれば……」

 板垣の目に映る西尾は、眉を歪ませて口をぎっちり結んでいた。

 その顔は、何かに怒っているようにも悩んでいるようにも見えた。


 板垣は思わずその辺に転がった羊羹の包装紙をくしゃくしゃと握りしめた。


「あの、そろそろ帰ります。お邪魔してすみませんでした」

 板垣は荷物をまとめて席を立つと、西尾も立ち上がった。

 西尾は目線を横に向けながら言った。

「板垣さんの味方は他にもいるよ。これからも、なんか辛いことあったら……友達とか、俺でもよければいつでも頼ればいい」


 板垣は表情を緩め、「はい」と答える。

 目を細めて西尾を見つめると、西尾は照れくさそうに首元を掻きながら居室のドアを開いた。


 廊下に出た途端、しんとした静寂と、少し冷たい空気が流れた。

 板垣の背筋が伸びる。


 振り返ってドア越しに居室を覗くと、西尾が眠たげな顔でひらひらと手を振ってきた。

 板垣はくすりと笑い、小さく会釈した後、廊下を歩きだした。



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