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20 光が、罪を照らした

 板垣は自室の勉強机で宿題を進めていた。ふと壁の時計に目をやると夜の9時を指している。

「週末課題多すぎ……」


 欠伸を噛み殺し、スマートフォンに手を伸ばした瞬間、画面が光で埋まった。

 通知、通知、通知――。

 並んでいたのはクラスメイトの名前、中学が同じだったよく知らない人、SNSで板垣のアカウントを特定してフォローしてきた他人だった。

 SNSのアイコンが次々と点滅し、既読もつけられないほどの速さで画面が流れていく。

 板垣はただその光の洪水を見つめていた。


 胸がじわじわと重くなる。

「えー……」

 勉強机に積まれたテキストとスマートフォンの画面を見比べ、浅く息を吐いた。


 スクロールの途中、通知の中に一件の不在着信が紛れていた。

「るみから……?」


 早坂から届いていたDMを読んだ瞬間、心臓が大きく跳ね上がった。

『沼野のお母さんから連絡あって、私たちと会って話したいって』


 頭の中が熱くなる。

 喉が詰まり、息が速くなっていた。


 板垣はスマートフォンを握り直し、震える指で発信ボタンを押す。

 コール音がやけに長く感じられた。


 コール音が止み、早坂の焦ったような声が耳に飛び込む。

『DM見た?』

「見た……。どうしよう」

 板垣の声は掠れていた。


 しばらくの沈黙の後、早坂の声が続く。

『あろまん……一緒に行ってくれない?』


 板垣の肩の震えがピタリと止まる。

「るみ、一緒に行ってくれるの?」

『モメた原因作ったの私じゃん。沼野のお母さんが連絡よこしたの、動画のせいでしょ』

「そんな。るみは私のために……」

 否定しかけて言葉が詰まる。


 通話の向こうで早坂が大きく息を吐いた。

『あろまん、ほんとにごめん。勝手に巻き込んじゃって。急にこんなことになって、怖いよね』

 早坂の優しい声が耳に刺さり、胸の奥が軋んだ。

「るみは何も悪くないよ……」

 板垣の声は尻すぼみに掠れていった。


 板垣は目を閉じる。

 沼野の母親に、直接向き合うという現実。


 恐怖で全身が強張っていた。まるで逃げたいと言うように、背中は丸まり、肩や膝は縮まっている。


 それでも。

 このまま何もしないで震えている方が、ずっと怖い。


 板垣はゆっくり息を吸った。

 震えは止まらないまま、声を押し出す。

「私が、行く」

『え?』

「るみと一緒に、じゃなくて、私が行かなきゃ」


 一瞬の沈黙の後、早坂が小さく息を呑む気配がした。

 板垣は震えながら続ける。

「怖いけど……逃げたままは、嫌だから」


 通話の向こうから、早坂のはっきりとした声が聞こえた。

『じゃあ一緒に行こう。私も逃げない』

 板垣は小さく頷いた。スマートフォンの角が手に食いこむ。


「ありがとう」


 通話を切った後も、心臓は早鐘を打っていた。

 板垣は机の上に広がった問題集をそっと閉じ、椅子の上で膝を抱えた。





 翌日の昼過ぎ、板垣は待ち合わせ場所のコンビニに着いた。

 早坂はコンビニの入り口前に立ってスマートフォンを見ていた。

「るみ、遅れてごめん」

「いーよ、さっき来たばっかりだし」

 早坂はにこりと笑っていたが、その顔は少し強張っていた。


「はい、あろまんの好きなチョコ。たまたま売ってたから」

「ほえ?!」

 早坂は片手に持っていたビニール袋から、ビターチョコレートを取り出した。

「あ! ありがとう!」

 板垣は目を輝かせてチョコレートを受け取る。受け取ったチョコレートを眺め、板垣の動きが止まる。

 早坂も何も言わずにそのまま立っていた。


 板垣は小声で言った。

「これ、今食べていい……?」

 早坂は笑いながら頷いた。



 やがて『沼野』と書かれた表札の一軒家に着くと、二人は緊張した面持ちで一度立ち止まる。

 早坂は真顔で、声を落として言った。

「あろまんは、絶対に謝らないで」

「……え?」

「謝ったら、罪を認めたことになる。あろまんは悪いことしてないんだから」

 早坂の言葉に、板垣は全身が固まった。

 ――私、本当に悪いことしてないのかな……?

 頷くこともできず、目線を伏せた。



 早坂が玄関のチャイムを押すと、数秒の間を置いて扉が開いた。

 出てきたのは、泣き腫らした目をした女性だった。女性の頬はこけ、唇はひび割れていた。


「早坂と、板垣です」

 早坂は震えた声で挨拶をし、板垣は隣でぎこちなく会釈をした。

「……入って」

 女性は冷たい小声を発し、二人を家に入れた。


 二人はリビングに通された。空気が重く、外の音も遠のいた。

 早坂は迷わず端の仏壇に向かい、板垣もそれについて進む。

 仏壇の前に座ると、写真立てや花、線香が供えられていた。早坂は写真に目を向けず、機械のように線香を立てる。

 板垣は写真にちらりと目をやると、明るく笑った少年の姿が映っていた。その姿を見て、吐き気のような感覚が喉元にのし上がる。

 板垣は俯き気味に線香を立てて手を合わせた。


 沼野の母親は二人をテーブルに促し、お茶を差し出しながら静かに話し始めた。

「ゆうくん、ね。あの日、帰って来なかったの」

 ぽつりと呟くような声だった。

 早坂は黙って沼野の母親の首元を睨み、板垣は俯きながら肩を小さく震わせていた。

「帰ってきたと思ったらね。ゆうくんとは思えない形になってて。……あれが自分の息子だって、信じたくなかった」

 沼野の母親の声がだんだんと震え、手に力が入る。

 板垣は口元を手で覆い、目を強く瞑った。


 沼野の母親は大きく息を吸い、早坂と板垣を見ながら言う。

「それでね。あなたたちの動画を見たの。ネットで、すごい有名になってたね」

 声が大きくなり、次第に声に棘が混じっていく。


 早坂は両手を膝に置いて唇を嚙みしめた。

 沼野の母親は苛立った声で続ける。

「……あれから、うちに嫌がらせが来てるんだけど。『本当は不良の仲間だった』とか、『親もどうせ同じ』だとか、『いじめの因果応報』とか。全部証拠なんてないのに」

 早坂の肩がぴくりと動き、震えた声で言った。

「……やり過ぎました。私は板垣さんへの世間の誤解を解きたい一心でしたが、配慮が足りませんでした。申し訳ございません」


 沼野の母親の肩が一瞬震え、顔に力が入る。

「はあ? 謝って済むと思ってるの!? あの子を殺したのはあんたでしょ?」

 沼野の母親の声が一気に割れ、早坂と板垣を睨みつける。

「あの子を何度殺せば気が済むわけ!? 『ちゃんと元気に生きてます』じゃねえよ! なんでお前らなんかがのうのうと生きてるんだよ! ゆうくんを返せよ!」

 沼野の母親がスマートフォンをテーブルに叩きつける。鈍い音に板垣は身体を固くし、視界の端で早坂の拳が震えるのを見た。


 板垣は口を開きかけるが、早坂の言葉を思い出す。

 ――「あろまんは、絶対に謝らないで」。

 板垣は唇を結んで飲み込んだ。罪悪感、嗚咽、嘔吐感が一気に喉元で堰き止められ、胃の中が熱くなった。


 それでも板垣は言葉を探した。そして絞られるような喉奥から、掠れた声が出た。

「のうのうとは、生きてません。毎日、怖いです。どうすればいいのかもわからないです」

 板垣は震える息を吸って拳を強く握る。

「それでも。沼野くんのお母さんが、どんな気持ちでいるのか。それを知らないままじゃ、だめだと思ったので。……なので、今日、ここに来ました」


 隣で早坂が息を呑んだ。

 沼野の母親は板垣を睨んでいる。


「あなたは自己満足に酔ってるだけでしょ? ここに来たからって、私のこと分かった気にならないでくれる?」

 沼野の母親の言葉が胸に深く刺さる。

 板垣は俯き、何も言い返せなかった。


「私、母親なんだよ。子どもが死んだだけで苦しいのに、その大事な子どもが好き勝手言われてるなんて耐えられないの。あんたらもお母さんに聞いてみなよ」

 沼野の母親は声のトーンをやや下げて、絞り出すように言った。


 そのまま沼野の母親は、突然糸が切れたように泣き崩れた。


 低い泣き声と重い空気の中で、板垣と早坂は黙って俯くことしかできなかった。


 やがて沼野の母親が鼻を啜りながら言った。

「うん。言いたいことは言ったから、もういい。あなたたちも、ここに居づらいでしょうから、そろそろ帰って」

 早坂はゆっくりと立ち上がって、深く頭を下げる。そのまま何も言わずに玄関に向かった。板垣も「失礼しました」と小声で言って深く頭を下げ、早坂の背中を追った。



 外に出た瞬間、重苦しかった空気から解放されたような感覚が全身を覆う。風が冷たく、遠くで犬が吠えている。

 早坂は玄関先で立ち尽くした。

 板垣はその隣で、口元を押さえたまま黙っている。


 長い沈黙のあと、早坂がぽつりと呟いた。

「……ごめん、あろまん。全部、私のせいだ」

 板垣は小さく首を振る。


 早坂は板垣を見て、小さく息を吐いた。

「じゃあまた、来週ね」

 早坂は硬い声で言いながら手を振る。その顔に笑顔はなかった。

 板垣はそれに答えるようにゆっくりと手を挙げ、小さく振った。

 そこから二人は無言のまま、背中を向けてそれぞれ歩きだした。



 板垣はしばらく歩き、後ろを振り返る。早坂の姿が見えなくなったことを確認して、道端に蹲った。

「うっ……」

 喉元に嗚咽と嘔吐感が込み上げてきた。


 沼野の母親の話を聞いたときから、沼野が死んだ時の光景が脳内でフラッシュバックしていた。

 耳に飛び込んだ彼の言葉、破壊音、バラバラになる身体。血が広がるアスファルト、鼻に刺さる鉄の匂い。

 止めようとしても、頭の中で勝手に蘇る。

 そして、沼野の母親が言った『私、母親なんだよ』という言葉が脳裏で響く。同時に思い出したのが、あの日の板垣の母親の顔――“得体の知れないもの”を見る目だった。

「私のお母さんは、私のこと、見捨てたのに」


 板垣は涙目で蹲ったまま、呼吸を乱して嘔吐いていた。心臓が握りつぶされたように苦しく、全身が崩れたように動けない。

「う……うっ……ああ……うぇっ」


 ――なんで、私が生きてることが、ここまで否定されなきゃいけないんだろう。

 ……いや、否定されて、当然なんだ。


 喉からは熱い空気が押し出され、同時に呻き声が漏れる。

 目に涙を溜めながら、地面を見つめた。

 視界はぼやけて滲んでいた。


 その時、

「ちょっ……大丈夫ですか?」

 背後から低い声がした。


 板垣が振り返ると、西尾が立っていた。コンビニの袋を手に持ち、唖然とした顔で板垣を見ている。

 目が合った瞬間、西尾が驚いた顔で言った。

「板垣さんじゃん。どうした? 体調悪い?」

 西尾は慌てて板垣の元に駆け寄る。

 板垣は首を横に振ろうとするが、喉がつかえて言葉が出ない。ただ、両手で口元を覆って泣き続けていた。


「とりあえずさ、家に帰……大学、行こうか。ちょっと休んだ方がいいよ」

 西尾は戸惑いながら、板垣を支えて立たせようとする。板垣は抵抗もせず、ただ導かれるままに立ち上がった。

 西尾の腕の感触と夕暮れの風の冷たさが、ようやく板垣に現実を思い出させた。


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