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2 突然、迫られる覚悟

 早坂(はやさか)は自室で机に向かっていた。机に広げられた数学の問題集とノート、参考書を見比べて顔をしかめる。ペンを持った右手は止まり、綺麗な文字や図表が整然と並んだノートを意味なくなぞるように、目線だけが何度も往復する。


 早坂は前髪をかき上げながらぶつぶつと呟いた。

「あろまんは『因数分解楽しい~』って言ってたけど……。全く気持ちわからん」


 ふと壁にかかった時計に目をやると、19時を過ぎていた。

 早坂は顔の力を緩めて小さくため息をつき、スマートフォンを取り上げる。


 いつものようにSNSアプリを開いた瞬間、早坂の目の色が変わる。

 よく知る人物たちの名前と顔写真が、炎上中のスレッドを埋めていた。


「あろまん?!」

 早坂は声を荒げ、指を振り回すようにして画面をスクロールしていく。

『#女子高生殺人』、『板垣あろまとは何者か』などの見出しが次々と流れて、コメントが追いかけてくる。


「なんで……」


 早坂の指先がスマートフォンの画面を叩く。画面の向こうで、見知らぬ誰かが板垣を「怖い」、「殺人鬼」などと娯楽として消費している。

 その文字列をなぞる度に、悪寒が早坂の指を通って全身に這い上がってくる。


 早坂の脳裏に浮かぶのは板垣の控えめな笑顔。ちょこちょこと動き、少しそそっかしい姿。

 こんなところに名前を並べられるような人間ではない。


 スマートフォンの画面を追っていた早坂の視線が止まる。

「事件、昨日って……。あろまん、私と遊んだすぐ後に……」

 板垣と会った時の笑顔を思い返す。それはいつもと変わらない、早坂が良く知る姿だった。

 昨日のあの笑顔が嘘のように――いや、目の前の光景の方が、早坂にとっては信じがたかった。


 早坂の全身に汗が滲み、背筋がぞくりと冷える。焦りが胸の中を揺らし、耐えられずスマートフォンをベッドに投げた。 


 頭の中が熱くなり、そのまま机にうつ伏せになる。開きかけの参考書やノートが机の端に押しやられ、ペンが落ちる音がした。

 その音に早坂は条件反射のように腕を上げかけたが、頭を上げられずに止まった。

 思考が追い付かず、ただ額に当たる冷たい感触に心を任せる。


 ――日常が、こんな形で壊されるなんて。


 頭の中がぐるぐると掻き回され、目が回るようだった。


 その時、自室のドアがノックされる。

 早坂が飛び起きると、怪訝な顔をした母親が顔を出していた。

琉実(るみ)。夜ご飯ってさっきから呼んでるんだけど」





 翌日。

 朝から教室がざわついていた。あちこちでクラスメイトたちがスマートフォン片手に囁き合う。


「板垣さん、どうしちゃったの?」

「でも証拠ないって……」

 それらの声には、非日常に浮ついたような空気が混じっていた。


 早坂は話し声を聞き流しながら、ちらりと板垣の席に目を向ける。

 そこには、ぽっかりと空白が出来ていた。

 ゆっくりと目を逸らし、深く息を吐きながら、自分の席でうつ伏せに伸びる。


「ねえ早坂さん」

 ふと早坂の肩が軽く叩かれる。顔を上げると、クラスの女子が机に寄りかかりながら早坂を見ていた。

「……なに」

「聞いちゃいけないかもだけど。板垣さんの事件で殺された沼野って人、早坂さんと同中でしょ? ぶっちゃけ板垣さん、なんで殺しちゃったか実は知ってたりする?」

 その女子の瞳の奥で、卑しい好奇心が光っていた。それは事故現場に集まってスマートフォンを向ける群衆の目に似ていた。


 ――気持ち悪い。

 早坂はクラスの女子を睨みつける。

「知らない。そもそもあろまんが殺したって確定してないでしょ」

 クラスの女子は一瞬言葉を失い、無言でその場を離れた。


 早坂は眉間に皺を寄せて教室を見渡した。

 スマートフォンを片手に口に手を当てて驚き、身震いしたりしている女子。まるで漫画の感想でも言い合っているような口調で話す男子グループ。自分の席で黙っている女子が、時々ちらりと早坂を窺っている。


 早坂の手に汗が滲む。

 ――もしかして、この人たちにとって、あろまんのことは……


 教室のそこらに漏れる板垣の名前。それが、群がるハエの羽音のように早坂の耳を刺す。早坂が声のする方を睨みつけた時、背後の離れた場所からも下衆な視線を感じ取った。


 教室に広がる熱が、早坂にとってはとても冷たく、気味の悪いものに感じた。自分だけが異物になっているような感覚が早坂を襲い、目の前の黒板が急に遠のいていった。



 授業が始まってからも、ひそひそと話す声が小さく響いていた。早坂が声のする前の席を見ると、机の下でスマートフォンの画面の明かりがちらついていた。

「ネットだと、板垣さんが異能力者って話が出てるらしいぞ」

「そんな馬鹿な……」


 話し声に教師の眉がぴくりと動き、チョークで黒板を叩く音が止まる。

「お前ら、授業に集中しろ!」

 教師の怒声が教室に響いた。

 早坂は耳を塞ぎたくなる衝動を抑えながら、視線を手元に戻した。

 ペンを持つ右手が細かく震え、ノートの文字がひどく乱れていた。



 帰りのホームルームが終わると同時に、早坂は逃げるように教室を出た。


 駅のホームで電車を待っていると、斜め前に立つサラリーマンのスマートフォン画面に『板垣あろま』の名前が映っているのが見えた。

 ちらりと見えた見出しに、息が一瞬詰まる。早坂は思わずリュックにぶら下がったカワウソのストラップを握りしめた。


 ――あろまんは今、どこで何をしているの? 怖い人に責められたりしてたらどうしよう。


 それに、もしあの子が戻ってきたときに、みんなが元通りに受け入れてくれるの?


 手から離れたストラップが大きく揺れる。

 早坂の唇が小さく動いた。

「……あろまんを、守らなきゃ」

 その声は駅のホームの喧騒に吸い込まれて消える。同時にその言葉が、決意のように、そして呪いのように、早坂の胸に染み付いていった。


 早坂の足元に伸びるぼやけた影が、乗り入れた電車の巨大な影に塗りつぶされる。


 逃げ場なんて、どこにもない。


 早坂は小さく頷いて、吸い込まれるように右足を一歩踏み出した。

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