16 正義は悪魔のような姿をしている
西尾はカップ焼きそばを啜りながらパソコンを睨みつけていた。学生が作った卒業研究の中間発表用のスライドを眺め、左手に持った箸を止めてコメントを入力する。
学生たちは昼食のために外に出払っていた。静寂の中、西尾は空いたカップ焼きそばを机に放置したまま大きく欠伸をする。
西尾はサラダチキンの袋を開けて食べ始めた。
ノック音がして居室のドアが開く。
「あれ、西尾くんしかいないの?」
羊羹の大箱を持った六条が顔を覗かせる。西尾は眉間にしわを寄せながら「そうっすけど」と雑な返答をした。
「中間発表の資料、まだ誰も出てないんだけど。どんな状況?」
六条の問いに、西尾は思わず苦い顔をした。手元のノートパソコンにはコメントだらけのスライドのファイルが開かれている。
「俺のところにもまだ一人しか出てないっす。修正めちゃありますけど」
西尾はぼそぼそと答えながらダメ出しだらけのスライドを表示させる。六条は小声で「うわぁ……」と呆れたように呟き、羊羹の個包装を開けて食べ始めた。
「いつも言ってますけど……先生は糖分だけじゃなくて、プロテイン摂ってください」
西尾は呆れ顔で六条を見てサラダチキンをひと齧りした。六条は柔らかく笑った後、パソコンの画面に映ったスライドを指す。
「予測モデルのここの係数を差し替えた根拠が弱いな。なんでこうしたのか後で確認してもらえる? もしおかしなこと言ってたら、後で『補講』だな」
西尾の眉間の皺が深くなる。
「んえ……。どんな答えが返ってくれば大丈夫なんすか?」
「……西尾くんもまとめて『補講』ね」
六条が引き攣って笑うと、西尾は眉を上げて口を半開きにした。
西尾はサラダチキンをもうひと齧りした後、六条をちらりと横目で見ながら切り出した。
「話変わるんすけど。この前の板垣さんの実験で起きたアレ……。記憶の混濁じゃなくて、物理的に『壊れた』じゃないすか」
六条はほくほくした顔で羊羹を食べながら小さく頷いた。その呑気な様子に西尾は一瞬背筋を冷やし、パソコンを睨みながら話を続ける。
「先生、気付いてるか分からないすけど。あの結果見る限り、板垣さん、本当に人を殺したんじゃ……」
六条の動きがぴたりと止まる。
西尾は無意識に手元のパソコンでブラウザを開き、『板垣』と検索していた。検索結果に俳優やヒゲの伸びた偉人の記事が並ぶ。その中に、『板垣あろま』の名前が入った動画が目に飛び込んだ。
「西尾くんの言う通りだと思うよ」
六条は低い声で答え、西尾はピクリと肩を震わせる。
パソコンの画面でカーソルがゆっくりと動画のリンクへと向かい、『板垣あろま』の動画を再生した。
動画では、『平安寺』を名乗るチャンネル主が、板垣の事件を面白おかしく解説していた。
『彼女が本当に殺したのではないかという噂がネットで浮上しています! なので、本人に突撃しました!』
動画の続きでは、板垣に迫る平安寺と、板垣と早坂が二人で逃げる姿が映っていた。平安寺は二人をしばらく追いかけたが、信号に捕まって二人を見失う。そして動画の締め括りで、平安寺は語った。
『あの狼狽えようを見ると、彼女は本当に殺したのかもしれません』
西尾は黙って動画が終わるまで見届けた後、ゆっくりとマウスを操作して『動画を報告』をクリックする。六条はその様子を見て小さく笑い声を漏らす。
「動画の彼にも悪気はないんだよ。彼らにとっては、歪んだ憶測や妄想を通して世界を見る方が楽しいんだろう」
六条は微笑みながらもう一つ羊羹の個包装に手を伸ばした。西尾は六条とパソコンの画面を交互に睨み付けてため息を吐いた。
六条はパソコンの画面を一瞥して続けた。
「そんな頭の悪いやつらから、どうやって板垣さんを守ろうか?」
西尾は唇を噛んでパソコンを睨む。
『守る』という言葉が西尾の胸の中で引っ掛かった。だがそれよりも、板垣が見せ物として晒されている事実に腹が立っていた。
「……俺は、研究室の中の世界しか知りませんでした。板垣さんが外で、どんな世界を見てきたのか。彼女は、俺が知らないような苦しさを抱えているのかもしれない」
西尾は顎に手をつき、目を伏せる。
六条はゆっくりと話し始める。
「板垣さんの殺害の手段は、私たちしか知らない。そして、まだ再現性が確認できていない。本人も何が起きたのかを把握できていないし、あの現象を制御する対策すらまだ掴めていない。……彼女はまだ、観察対象としてここに置いておくべきだと思う」
西尾は一瞬躊躇った後に小さく頷いた。
「でも、板垣さんを世間の偏見から守る理屈が必要になる。事件当時、急性一過性精神病性障害による記憶混濁が起こったという仮説を立てようか。被害者はもともと死んでいて、通りがかった板垣さんがそのショックにより『自分が被害者を殺害した』幻覚を見たことにする」
「先生」
「過去の類似例を洗い出して、誰にでも起こりうることだと説明できればいいかな。でも精神障害は一過性のもので、現在の彼女の精神状態は問題ないというデータはある。それを客観的に示せるようにまとめておけば――」
「先生!」
西尾が大声で呼び止めると、ようやく六条が口を閉ざした。
西尾は俯きながらぽつりと呟いた。
「気持ちは分かりますよ。俺だって彼女を守りたいすけど……嘘はつきたくないです」
呟きながら、西尾は頭を抱えた。彼女をこれ以上追い詰めない方法はないのか? 彼女が安心できる居場所は――。
西尾の脳裏に、板垣の姿が浮かぶ。実験中の板垣は確かに辛そうだった。だが、休憩中にチョコレートを頬張る時の嬉しそうな表情、西尾の冗談にビビる様子、少し間の抜けた顔。それらを思い出し、西尾はふと考えた。
「板垣さん、ここにいる時が一番安心できてるんじゃ……」
それは西尾にとって手放しで喜べる話ではなかった。この研究室を板垣の居場所にすることで、彼女から何か大事なものを奪ってしまうのではないかという不安があった。
西尾が顔を上げると、六条はふわりと微笑んでいた。
その笑顔の意味が掴めず、西尾の腹の奥が冷えていった。
西尾は深くため息をつき、六条から目を逸らす。
食べかけのサラダチキンがデスクに放られた。
「……タバコ吸ってきます」
西尾はぼそぼそと言いながら、足早に居室を出て行った。




