14 追いかける狂気
早坂は会場併設のカフェにいた。
背後からはオレンジ色の光が差し込み、テーブルを照らす。店内は落ち着いたBGMと静かな話し声が心地よく響いていたが、早坂の席には小さな緊張が漂っていた。
目の前に座る本田は、顎に手を当てながらじっと早坂を見ている。その目はまるで観察者のようだった。
早坂はその視線に不思議と嫌悪を感じず、むしろ心が吸い寄せられるような感覚がした。
早坂と本田は、互いに見つめ合いながら言葉を探していた。テーブルに置かれたコーヒーの湯気が二人の心を曖昧に断っている。
「あの、六条研究室って、どんなところなんですか」
早坂は真顔で尋ねた。
本田はカップを口に運びながら、早坂を観察するように見つめる。その静かで冷淡な視線に早坂は臆することなく見つめ返す。
本田はわずかに口角を上げる。
「……質問の意図を聞いていいかな? あなたは、あの研究室を目指しているの? それとも」
「友達が、そこに関わってから様子がおかしいんです」
早坂が答えた途端、本田は口元をまっすぐに引き締めた。本田の目線にほんの少し温度が宿る。
「その『友達』って、もしかして、板垣さん、かな?」
本田の返答に早坂は目を見開いて固まった。鼓動が早くなり、手には汗が滲む。
本田は一瞬顔を緩めて笑い、すぐに真顔になる。
「……どう様子がおかしいのか、詳しく教えてくれるかな?」
本田は落ち着いた声で尋ねた。
早坂は目を伏せてゆっくりと答えた。
「心がどこかふわふわと浮いているみたいで。なんか、ぼーっとしてるんです。いや、元々ぼーっとしてるところがある子なんですけど。でも突然苦しそうな顔をしたり……」
早坂は深く息を吐く。テーブルに置く手を強く握り、続けて言った。
「なんか、すごく無理をして頑張っている気がしていて。さっきの本田さんの講演を聞いたときに……研究室であの子が泣いている姿が、なぜか浮かんじゃったんです」
本田は『板垣が過酷な実験に使われている』という西尾の話を思い出す。その話と目の前で語られた言葉が、小さな接点で繋がるのを感じた。
「私も詳しく知らないけど……。板垣さんはおそらく、あの研究室でたくさん傷ついてる。心をいたぶられるようなことをやられていると思う」
一瞬早坂の息が止まる。今まで形になっていなかった不安が、実体をもって早坂に襲いかかった。
「なんで……。あの研究室、そんなに怖いところなんですか?」
早坂の膝が震える。
コーヒーを一口飲み、本田は淡々と続ける。
「六条という人間は、感情というものをどうやって見て利用するか、自分の好奇心だけに従って研究している狂人だよ。人の心を、“実験サンプル”として使うことに躊躇がない」
早坂は目を見開いて歯を食いしばった。
「そんなところに、あろまんが……」
早坂の肩が小刻みに震え、目を潤ませながら本田を見る。
「あろまんを助けたいです。……私は、その六条って人を、ぶん殴る覚悟もあります」
その声は震え、小さく掠れていた。
「あろまんのために、私に、何ができますか?」
本田はにこりと口元を上げた。
「あなたみたいに、行動に移せる人って強いと思うよ」
名刺を取り出して早坂の前に差し出す。
「あなたの名前も聞いていいかな?」
早坂は本田の笑顔に気を奪われ、一瞬自分の名前を忘れかける。
手前のコーヒーに視線を落とし、早坂は小声で答えた。
「早坂、琉実、です」
「早坂さん、ね」
本田は鋭い目つきで早坂を一瞥し、続けた。
「あなたなら、板垣さんを救えそうな気がする」
そう言いながら、本田の目線がふと窓の外へと向く。西日に目が眩み、瞼に力が入る。
ふと、本田が何かに気付いて声を上げる。
「早坂さん。六条本人がそこにいるよ」
「へ!?」
早坂は後ろを振り返るが、窓の外にはぱらぱらと歩くビジネスマンの姿しか見えなかった。
「……あの。追いかけてもいいですか?」
早坂は真顔で言った。
二人は喫茶店を出て、本田がきょろきょろと遠くまで見渡す。対象の姿を小さく捉えると、早坂の手を引いて小走りした。
六条と西尾は、展示場の駐車場に向かっていた。
「ちっ、車で来てるのか」
本田は小さく舌打ちをして、早坂の手を引きながら駐車場へと向かう。『G-D Tech.』のロゴが印字された銀色のコンパクトカーの前に止まり、遠くを睨みながら車のカギを開ける。
「乗って」
本田は短く言い、早坂は助手席に乗り込んだ。
「……あの、なんか、すみません」
早坂がおどおどしながら言うと、本田は小さく笑ってエンジンを入れた。
「早坂さんがぶん殴るところ、見てみたいから」
本田が右足を強く踏み込むと、早坂の身体が前に揺れ、シートベルトが肩に強く食い込んだ。
本田は手荒に社用車を操り、数台前を走る黒のセダンを睨みつけていた。手前の信号が黄色に変わった瞬間、アクセルを深く踏み込んで急旋回した。ペットボトルが横に倒れ、早坂の足元に転がった。
「本田さん、信号、赤ですよ」
「まだ黄色だった」
早坂は言葉を失い、白みかけた顔で本田を見る。微かな吐き気と絶叫マシンに乗った時のような高揚感が混ざり、喉に何かが込み上げていた。
「私、急いでると運転荒くなるんだよね。事故らないように気をつけるけど」
本田は淡々と言った。
本田の社用車は猛スピードで湾岸沿いの高架下を抜け、ようやく目の前に対象の黒いセダンを捉えた。
「あのゴキブリみたいな車に乗ってるはず」
本田の声に、早坂はまっすぐ前を睨んだ。
本田はアクセルをベタ踏みし、前の車両との距離をぐんぐんと詰めていった。
隣で早坂は小さな悲鳴を漏らし、目をぎゅっと瞑っていた。
西尾はちらりと何度か視線を上げ、やや顔を強張らせながら、隣でハンドルを握る六条を見る。
「先生、さっきからG-Dテックの社用車がずっと後ろに付いてる気がするんすけど」
六条はぽかんとした顔で「なんか忘れ物したっけ?」と呟き、アクセルを強く踏んだ。
前のめりになった西尾は一瞬呻き声を上げ、顔を引きつらせて六条を見る。
「この車、結構いいやつっすよね……? そんな運転して大丈夫なんすか?」
「大丈夫。妹からの借り物だから」
「は?」
やがて橋に差し掛かり、夕日を反射する海と埠頭の景色が広がった。
「いい眺めだね。西尾くんはさ、ドライブするなら東京タワーと湾岸沿い、どっち行きたい?」
六条が目を細めて尋ねると、西尾は呆れ顔で淡々と答えた。
「……東京タワーがいいっす」
「え、趣味悪」
六条は笑顔を崩さずに返し、湾岸方面にハンドルを切った。
後ろの社用車もそれに続いた。
西尾は言葉を失い、浮かない顔で胸元のポケットを探る。
しばらくすると、車内に煙草の匂いが充満した。
西尾がふとバックミラーを凝視すると、息を呑んだ。後ろの社用車の運転手の顔に見覚えがあった。
「先生、そこのコンビニで停めてください。後ろの社用車……本田さんです」
コンビニの駐車場に黒のセダンが入ると、G-Dテックの社用車がそれに続いた。
六条と西尾が車から降り、怪訝な顔を社用車に向ける。
G-Dテック社用車の中から、本田はしばらく外の様子を観察する。
視線が六条と西尾を捉え、本田は目を鋭くした。
「やっぱり」
本田は呟き、早坂と目を合わせた後、社用車を降りた。
「本田さん、どうしたんすか?」
西尾は低い声で言い、本田を見た後、隣の早坂を一瞥した。
「え、高校生? なんで?」
西尾は驚いたように声を上げた。
早坂は西尾の姿を見て、一瞬びくりと肩を震わせる。
ひょろりとしてやや猫背の、長い前髪で表情が分かりづらい男。
――この人が、六条か。
早坂の拳に力が入る。
「……ども、はじめまして」
西尾は早坂に小さく会釈したが、早坂は顔を強張らせて睨みつけていた。その顔には汗が滲み、呼吸が少し浅くなっていた。
「こんにちは」
横から六条が割り込んで早坂の前に立ち、腰を屈めてにこりと目線を合わせる。
その穏やかな表情と柔らかい声に、早坂はようやく全身の力を緩めた。
「彼女、早坂さん。板垣さんのお友達なんだって」
本田が二人に向けて淡々と言うと、西尾は眉を上げて小さく声を漏らした。
六条は早坂を見て笑顔のまま、ゆっくりと言った。
「初めまして、早坂さん。六条と言います。……板垣さんから君のことは色々と聞いてるよ。よろしくね」
――は?
早坂は目を大きく見開いた。
鼓動が一度大きく鳴り、身体の芯から冷えていくような気持ち悪さが一瞬で全身に広がる。
目の前の男が、本田の言うような狂人だと思えなかった。
そして、そう思ってしまったことに恐怖を覚えていた。
早坂は思わず縋るような目線を本田に向けていた。




