11 逃げ道を作るために
「今日はわが社の経費で落とすから、じゃんじゃん食って飲んでよ! ほら、六条先生も、西尾くんも!」
スーツ姿の小太りの中年男性のガラガラ声が響く。
飲み屋の個室席にはビールと油の匂いが充満し、暑い空気で濁っていた。
「今週の展示会で、どのくらい引合い来ますかね~」
「そりゃあ、本田さんの頑張り次第だろ!!」
スーツ姿のサラリーマンたちはビール片手に赤ら顔で騒いでいた。その中で一人の女性社員は一切顔色を変えず、黙々と麦焼酎ロックを飲み続けている。
女性社員は氷だけが残ったグラスを眺め、静かに置いた。
「正直、共同研究なんて、ほとんど学生さんが頑張ってくれた結果に我々がタダ乗りしてるだけですよ。西尾くんのデータ解析がなかったら、成果なんて何も無かったと思いますからね」
「別に、全然そんなことないっすよ」
西尾はぽつりと言う。
「いやあ、実際、本田さんの言う通りですよ。私たちがこうして新しい成果を出せるのも、大学のお陰です。六条先生も、西尾くんも、いつもありがとうございます。今後もよろしくお願いします」
若手社員は顔を赤らめながらビール瓶を持ち、慣れた手つきで六条と西尾のグラスにビールを並々と注いだ。そして小太りの中年社員が再び大声を上げる。
「G-Dテックと六条研の未来にかんぱーい!」
「部長、テンション上がり過ぎですよ~」
店を出ると、西尾はその場に立ち止まってタバコを取り出す。
店の出入口からG-Dテック社員が次々と出て来ると同時に油とアルコールの臭気が漂い、西尾は小さく咽せた。やがてG-Dテック社員の群れはふらふらとした足取りで二次会へと向かった。
「西尾くん、二次会行かないの?」
六条が焦点の定まらない目を西尾に向ける。西尾は六条の顔を覗き込み、呆れ顔をした。
「……先生は今すぐ帰った方がいいっすよ」
淡々と答えて西尾は周囲を見回す。視線が先ほどの女性社員――本田を捉えると、西尾はまっすぐ彼女に向かって歩き出した。
「本田さん」
西尾の声に本田が振り向く。
「二人で飲みませんか? ちょっとお話したいことがあって」
本田は一瞬目を丸くするが、平然とした顔で答えた。
「いいよ」
西尾は本田に連れられて近くのバーに入店した。
静かな薄暗いバーのテーブル席で、本田は相変わらず麦焼酎ロックを飲んでいた。
西尾は何かを言おうとして口を開きかけ、誤魔化すようにジントニックを飲む。それを何度か繰り返し、時々本田から向けられる視線にひりつきを感じながら、切り出す言葉を考えていた。
「あのさ」
先に口を開いたのは本田だった。
「何でしょう」
西尾は焦り混じりに答える。
「西尾くんって六条と仲いいの?」
本田の問いに、西尾は唇を内側に巻き込みながら黙った。やがて西尾は困ったように目を伏せ、額に手をついて項垂れ、テーブルの灰皿に目線を落とす。
「……タバコ吸っていいっすか?」
答えになっていない返事をした。
煙草の煙を吐き出しながら、西尾はぼそぼそと話し始める。
「先生とは、仲はそこそこ良いと思ってます。でも、最近……」
口から一筋の白い煙が吹かれる。
「あの人、怖いんすよね」
本田は眉一つ動かさずに返す。
「ああ、やっぱり。仲良いんだ。ちょっと安心」
「いや、俺の話聞いてました?」
西尾は煙草を灰皿に置き、話を続ける。
「ちょっと前に、高校生殺人事件で話題になった、板垣さんって子いるじゃないですか。今、あの子を被験体にして、いろいろ調べてるんですけど」
「ふうん。あの事件の子に接触してるんだ」
本田の声に気だるさが混じり、頬杖をついた。
西尾は直近の実験を思い出し、目をきつく瞑った。ジントニックを煽り、グラスを強く置く。
「その実験っていうのが、板垣さんに精神的な負荷をかけるやつなんです。先生は、彼女が泣いてるのに止めないし、実験の一環とはいえ、まるで彼女を追い詰めるような言葉を掛けるし。しかもあの人、それを面白がってるみたいで。……このままだと、板垣さんが本当に壊れるんじゃないかと心配なんです」
本田は表情を歪ませながら西尾の話を聞いていた。死んだ目を西尾に向けながら、麦焼酎ロックをちびりと飲む。
西尾はその視線に困惑を浮かべる。
「えっと、本田さん。その顔、どんな感情っすか」
「六条って昔から頭いかれてたから、なんか危なっかしくて」
西尾の表情から酔いが引いていく。
本田は呆れ顔でグラスに視線を落としたまま続けた。
「板垣さん、あいつから離してあげた方がいいね。彼女は実験辞めたいとか訴えてるの?」
西尾は深くため息をついた。
「あの子、先生に懐いてそうなんすよねー……」
「は? なんで? 怖」
本田が再び死んだ目を西尾に向ける。西尾は本田から目を逸らし、ジントニックを煽る。
本田も麦焼酎ロックを飲み、グラスを置く音を最後に沈黙が訪れた。
麦焼酎ロックのグラスが半分ほど溶けたのを見て、本田は西尾に視線を上げた。
「西尾くんはさ、板垣さんを助けたいの? それとも六条を降ろしたい?」
「板垣さんを、助けたいです。……先生は、研究者としては失っちゃいけないと思ってます」
西尾は即答していた。口から出た言葉は確かに本心だったが、こんなにするりと出てくることに自分でも驚いていた。
「西尾くんって、なんかめちゃくちゃ暗そうだけど、ほんとは優しいんだね」
本田は初めて笑顔を見せた。
西尾は思わず口元をもそもそと動かしながら本田を見るが、一瞬で硬直する。
西尾は本田の笑顔の奥に、冷ややかな視線を感じ取った。




