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10 そして鞭を打つ

 

「まず、今日やることを説明するね」

 研究棟の居室で、六条は手元のノートパソコンを操作しながら、静かに言った。


「板垣さんの話を聞いたり、事件に関する資料を見てたりして、気になる点があった。あの時、“強い感情の変化”があったみたいだね。そしてそれは、この前板垣さんと学校で話した時も同じだった」

 板垣は椅子に浅く座り、こくりと小さく頷いた。


「つまり感情が、板垣さん自身の“何か”に作用している可能性がある。それが脳の電気活動なのか、記憶の処理過程なのか、今はまだわからない。でも、意識が途切れたりするのは、一時的な記憶改変や意識混濁の結果じゃないかと考えている」

「えっと」

 板垣は困ったように声を漏らすと、六条は柔らかく笑いながら答えた。

「板垣さんが自分の記憶を壊してるかもしれない。それを確かめるのが、今日の目的だよ」


 板垣は手のひらを見つめた。細い指がかすかに震えている。

 六条は板垣に微笑みかける。

「板垣さんにはこれから、怖いことや、嫌なことを思い出してもらう。それで、板垣さんの心と脳がどんな反応をするか、見せてほしい。辛いと思うけど、頑張れるかな?」

 六条の笑顔を見て、板垣は不安が少し小さくなる気がした。

「頑張ります」

 俯きながら、呟くように答える。

「ありがとう。じゃあ、準備を始めようか」

 六条が立ち上がり、西尾に目配せをする。



 実験の準備が終わり、板垣は実験室でセンサーに繋がれた状態で座っていた。目の前には電源の点いた30インチぐらいのTVモニターが置かれ、ぼんやりと画面を見ていた。


「これも着けて」

 板垣は西尾からヘッドセットを手渡され、頭に装着する。


『この前の現象が起こる予兆を感じたら、右手を挙げてね』

 ヘッドホンから六条の声が聞こえた。


 照明が落ち、低周波音が流れる。

 目の前のTVモニター画面では、不安を煽るような映像が流れ始めた。

 板垣は指先が冷え、腹の芯から震えるような感覚がした。


 ――こわい。やだ。やめて。

 板垣は思わずきつく目を閉じた。


『目は閉じないで』

 ヘッドホンから聞こえた声に、板垣はぱっと目を開く。それと同時に涙が落ちた。


 西尾がノートパソコンを見ながらぼそりと呟く。

「恐怖指数、上がってます」

「順調だな」

 六条が穏やかに笑い、西尾は眉をひそめてため息を吐いた。


 映像の内容がだんだんとエスカレートしていく。

 板垣の呼吸が浅くなり、頭の中が冷えていく。


 ――もう無理。こわい。

 心が凍りつきそうになるのを感じていた。


 それでも“反応”は起きなかった。



 実験は止められ、六条は深く息をついた。

「……違うのか」

 西尾は怪訝な顔で六条を見た後、ノートパソコンを操作してデータを取り込む。西尾の視界の端に、肩を縮めた板垣の姿が見えた。


 実験装置を外された板垣の肩は、ぷるぷると小さく震えていた。

「よく頑張ったね」

 六条が優しく声を掛け、ポケットからミルクチョコレートの個包装を取り出す。

「この前、好きだって言ってたでしょ。頑張ったご褒美だよ」

「っありがとうございます」

 板垣は涙声で答え、震えた指先でチョコレートを受け取った。


「あ、その前に唾液サンプルだけ取らせて。すぐ終わるから」

 板垣はチョコレートの包み紙を開けながら、目を丸くして顔を上げた。




 数十分のインターバルを開け、板垣は再びセンサーを装着される。

「うん、安定してる。始めよう」

 六条の声と同時に西尾は再びパソコンを操作した。


『板垣さん、今度はモニター画面に何も出てこないけど、モニターの方向を見続けててほしい。そっちにカメラがあるから』

 板垣は小さく首を傾げるが、言われた通りに目の前のTVモニターを注視していた。


『これからは、質問に答えてね』

 六条は穏やかに言った。


 そして、ヘッドホンから言葉が飛び出す。

『最近、学校で嫌なことはあった?』

『みんなの態度をどう思ってる?』

『親御さんに見放されたと気づいたとき、どう感じた?』

 声のトーンは変わらず、それが逆に冷たく響く。


 板垣は震える声で質問に答えていく。


 ──なんでそんなこと聞くの。もう、思い出したくない。

 次第に視界が滲んでいく。


 西尾がパソコン画面に目をやると、モニタリングしている波形がゆっくりと荒れていった。

 西尾は画面を見たまま、六条に向けて淡々と言った。

「心拍、血圧上昇してます」


『どうしてみんな、板垣さんを避けるんだと思う?』

 板垣の耳元のヘッドホンから、六条の柔らかい声が刺さる。


 ──違う、やめて。言わないで。


 板垣は必死に息を吸おうとしたが、喉の奥が癒着したように塞がって動かず、代わりに肩が大きく揺れる。

 頭の中が痺れ、視界の端に火花のような白い光が散る。


 西尾が一瞬顔を上げた。

「先生、それ以上は……」

「もう少し、データが取れそうだから続けようか」

 六条は穏やかに笑って答える。

 西尾の手に汗が滲み、マウスを握る手に力が入った。


『自分が怖いと思われてること、どう感じる?』

『板垣さんは、何も悪いことしていないのに――』


 板垣の呼吸が大きく乱れる。質問に答える声が震え、涙が頬を伝う。頭の中で、巨大な影のような黒い塊が膨れ上がる。

 胸が苦しい。頭の中が熱い。


 西尾は額に汗を滲ませなら画面を睨みつける。モニターのグラフが跳ね上がった途端、思わずマウスから手を離して声を上げた。

「先生、ほんとにもう止めた方が。彼女、壊れちゃいますよ」

 西尾が振り返った瞬間、表情が凍り付いた。


「あの時と、同じ反応だな。……もう少し」

 六条はにこやかに笑い、視線だけは真っ直ぐ板垣を捉えていた。


 そして六条は口元のマイクに向けて話す。

『板垣さんは、これからもずっと一人で、世間という敵に立ち向かわないといけない』


 板垣の目から大粒の涙が溢れた。

 ――なんで。なんで、なんで、なんで。全部憎い。人間が嫌い。みんなひどい。誰も私のことなんか。


 叫びたいのに声が出ない。脳内が熱に侵され、逃げ場をなくした熱い息が喉元までせり上がってくる。


 板垣の右手が、ゆっくりと挙がった。


 西尾は急いで実験装置の制御を止め、六条は板垣を止めるために立ち上がった。

 その瞬間。


 板垣の頭の奥で、バチン、と何かが弾けた。

 空気が震え、板垣の意識が一瞬で爆ぜた。


 ガシャンと大きな音を立てて、TVモニターが破裂する。

 床に液晶の破片や配線の一部、電子部品の塊が散らばった。


 実験室の中で、しばらく三人の荒い呼吸音だけが響いた。


「……板垣さん、怪我はしてない? 大丈夫?」

 六条が板垣の元に駆け寄ると、板垣は怯えた目を向けた。

 板垣は、身体“には”怪我を負っていなかった。


 板垣は身体を震わせながら、涙を流す。

「先生は、私の、味方じゃ、なかったんですか? もう一人じゃないって、言ってくれたのに。父親の代わりにしていい、って言ってくれたのも。全部、嘘だったんですか……?」


 俯きながら嗚咽する板垣を、六条はゆっくり抱き締めた。

「私は板垣さんの味方だよ。さっきは実験のために、意図的に板垣さんを傷つけようとして嘘を言ってしまって……ごめんね」

 板垣は一瞬息を詰まらせ、小さく安堵の息を吐き出す。

 六条は板垣の反応を見ながら背中を優しくさすっていた。


 西尾は眉を吊り上げながら、ただ黙ってその様子を見ていた。



 研究棟から板垣を送り出した後、西尾は居室に戻り、デスクのパソコンで実験データを表計算ソフトに起こしていた。

 居室に学生はいなくなり、壁の時計は午後8時過ぎを指していた。


「さっきのあれ、どう思う?」

 横から六条が声を掛け、西尾は顔を上げて一瞬固まる。西尾は眉間に皺を寄せて六条を軽く睨み、パソコンに向き直って答えた。


「意識混濁の仮説が裏切られましたね。まさか物理現象が起こるなんて……」

 西尾は前髪をかき上げて浅いため息をつく。


 六条は西尾のデスクに寄りかかり、目尻を下げて微笑んだ。

「科学的に説明がつかない現象……。面白くなってきたね。おそらく、板垣さんの感情の揺れに関係するのだろうけど。発動条件の解明と、発生させない方法くらいは押さえたい。それはそれとして、物理現象として何が起こっているのかも知りたい、と思ってるんだけど」


 六条は目を伏せて腕を組み、西尾をちらりと見ながら続ける。

「西尾くんは、私の趣味にどこまで付き合ってくれるのかな?」


 西尾はキーボードに置いた手の動きを止める。

「……一服してきていっすか?」

 六条の返事を待たずに西尾は立ち上がり、ふらりと居室を出ていく。

 六条はきょとんとしてその背中を見送った。




 板垣が帰宅し、玄関のドアを開けた瞬間、冷たい空気が足元に流れ込む。目線の先には、暗く静まり返った廊下が続く。

 脱いだスニーカーが玄関の床に転がり、乾いた音を立てた。

 リビングまで歩き、照明をつけると、無機質な白い光が室内を均一に照らす。


 板垣はまっすぐシンクに向かい、蛇口のレバーを上げた。水が流れ落ちる音が、空の弁当箱と水筒に当たって弾ける。それをロボットのように洗い、流しに伏せた。

 水音が止んだ瞬間、空気が再び元の静寂に沈んだ。


 リビングのソファーに腰を下ろし、身体の重さで沈み込んだ。

 正面のカーテンを眺める視線は、遠くを見ながら漂う。

 部屋に冷たい光と沈黙だけが落ちる。


 目を閉じると、瞼の裏で出来事が残響する。

 学校の昇降口での視線と噂話。クラスからの孤立。それに早坂を巻き込むかもしれない恐怖。

 そして、大学の実験室で、苦しさの限界に達した瞬間に壊れたモニター。


 自分は、何なのか。何をしたのか。

 考えようとしても、分からない。ただ自分が怖い。

 肌の表面から薄く冷えるような感覚に身震いした。


 板垣は腕を抱えようとして、ポケットの硬い感触に気付く。中を探ると、六条から貰ったチョコレートが手のひらに転がり出た。

 板垣はぼんやりとチョコレートを見つめていた。


『板垣さんの味方だよ』

 板垣はその声を思い出し、じわじわと身体の奥から温度が戻っていく。少しだけ息がしやすくなっていた。


 板垣の瞼がぼんやりと垂れる。

「もう少し、頑張ろうかな」

 か細い声が静寂の中に落ちていった。


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