それでは殿方に好かれません――乳母が見た姫の輿入れ
「シリ様! お待ちください!」
ミンスタ領、シュドリー城の荘厳な廊下に、乳母エマの声が響き渡った。
金色と紺色の塊が、風のように駆け抜けていく。
その背を追いかけながら、エマは裾をたくし上げ、必死に走った。
「シリ様!」
声はすでに息切れと共に裏返っていた。
辿り着いたのは馬場。
そこには、颯爽と馬に跨がる姫の姿があった。
「エマ、ごめんね。今日はウラクと約束したの」
振り返ったシリの横には、腹違いの弟ウラクが控えている。
「シリ様! 馬を乗り回すなど・・・淑女らしくありません!
そんなことをなさっては、殿方に好かれません!」
エマは必死に言い募った。
『それでは殿方に好かれません』
それが私の口癖だった。
この時代、女性が馬に跨るなどありえない。
だが、シリはふっと笑う。
「私は婚期を逃した行き遅れよ。今さら、誰に好かれなくても構わないわ」
黄金の髪を陽光にきらめかせ、青い瞳を輝かせるその姿は、誰よりも眩しかった。
「・・・それでもです」
エマは苦しい息を吐きながら、それだけを伝えるのが精一杯だった。
「行ってきます」
シリは軽く馬腹を蹴り、白馬が砂塵を巻き上げて駆け出す。
「・・・行ってしまわれた」
残されたエマは呆然と立ち尽くす。
私が仕える姫は、シリ・モザ。
美男美女を輩出する家柄の最高傑作とまで謳われた姫。
黄金の髪に青い瞳、背は高く、整った顔立ち。
だが問題は、性格であった。
気が強く、一度言い出したら聞かない意思の強さ。
淑女としての作法や微笑みとは無縁で、幼い頃から馬や武器、戦術に心を奪われてきた。
ーーもし、この方が男に生まれていたなら。
きっと立派な領主になられただろう。
そんなありえない夢想をしながら、エマは重く息を吐いた。
シリは二十歳。
適齢期をとうに過ぎても、兄ゼンシは嫁ぎ先を定めていない。
あの気性の姫が、果たして誰かのもとに従うことがあるのだろうか。
「・・・私の育て方が、悪かったのでしょうか」
呟いた声は馬場に虚しく消えていった。
それでもエマは知っている。
たとえ時代が彼女を押さえつけようとも、
シリ様は決して、誰の影に隠れて生きることなどしないだろう。
◇
ある日、突然、シリ様の縁談が決まった。
それは、彼女が二十歳を迎えた春のこと。
領主である兄ゼンシに呼び出された。
領主の部屋に足を踏み入れたシリ様は、凛と背を伸ばしていた。
その姿を、従者として控えた私は、誇らしさと不安と共に見守った。
ゼンシ様の口から告げられた相手は――あまりにも不釣り合いな名だった。
「北の外れの領主、グユウ・セン。二十三歳だ」
辺鄙な土地、貧しい領地。
その上、ゼンシ様の言葉は続いた。
「この結婚を条件に、グユウは妻と離縁した。妻は生家に戻ったが、赤子がいる。可愛がれ」
淡々とした口調だった。
そこに感情はなく、ただ政略としての決定事項が述べられるだけ。
私は息をのんだ。
再婚、しかも子持ちの男との婚姻。
黄金の姫と称えられたシリ様が、なぜそんな条件を受け入れねばならぬのか。
「兄上、私は・・・」
シリ様は毅然と反発なさった。
けれど、ゼンシ様は一顧だにせず言い放つ。
「これは命令だ。お前の意思を問うものではない」
その場の空気が張り詰める。
私は胸の奥に、怒りにも似た熱を覚えた。
――あのシリ様が、そんな相手と。
けれど、この時代、領主の命には誰も逆らえない。
シリ様であっても。
私は唇を噛みしめながら、ただ心の中で願った。
ーーどうか、この理不尽な結婚の先に、シリ様を潰すことのない未来が待っていますように。
◇
事件が起きたのは、輿入れの二日前だった。
その朝、私はいつものようにシリ様の寝室へ入った。
しかし、窓辺に座るシリ様の瞳はどこか虚ろで、まるで心だけが遠くへ行ってしまったように見えた。
「シリ様・・・?」
声をかけても、返事はない。
胸騒ぎを覚えながら、私は着替えのドレスを取り出し、シリ様の背に手を伸ばした。
そして――息を呑む。
白い背に、無惨な鬱血痕が散っていたのだ。
「・・・っ!」
指先が震え、思わず声が喉に詰まる。
シリ様は何も言わない。
ただ静かに俯き、されるがままに立ち尽くしている。
ボタンを留めながら、私は呆然とその背中を見つめ続けた。
心の奥で、すべてを悟る。
――ゼンシ様。
輿入れを二日後に控えた妹に、あろうことか。
大切に育てた姫を、どうして。
領主であるその人は、姫の兄でありながら、悪魔のように牙を剥いた。
怒りで手が震え、ボタンの穴を何度も外しかける。
けれど、私は乳母にすぎない。
口を開けば、シリ様をさらに追い詰めることになる。
だから私は、ただ黙って着替えを整えるしかなかった。
その小さな背を覆い隠すように、布を掛けることしかできなかった。
「・・・エマ」
かすかな声が耳に届いた。
けれど振り返った姫の青い瞳は、涙も見せず、ただ深い湖のように沈んでいた。
私はその隣に立ち続けるしかなかった。
何もできない自分を呪いながら。
そして、傷を抱えたシリ様が、それでも輿入れに向かう運命を思い、胸の奥で泣き続けた。
◇
五日間の旅路を経て、私たちはようやくワスト領・レーク城にたどり着いた。
長い道中に、シリ様は一度も弱音を吐かなかった。
けれど、私にはわかっていた。
彼女の沈黙の奥に、どれほどの苦しみが隠されているのかを。
到着前、着替えのために背中の紐を解いたとき、私は思わず指先を止めた。
そこにあったはずの痕は、もう消えていたのだ。
「・・・良かった」
小さく胸を撫で下ろした。
心の傷までは消えぬだろうが、せめて形だけでも癒えたことが、私には救いだった。
明日は挙式、そして初夜。
逃れられぬ運命が待ち受けている。
そんな私の思いをよそに、シリ様は鏡に映る自分を見つめながら、ふっと微笑んだ。
「グユウ様って、どんな人なのかしら。・・・優しい人だと、いいのだけれど」
その声はあまりにか細く、風に溶けて消えてしまいそうだった。
一度も会ったことのない相手に、突然嫁ぐ――姫とはそういうものだと、頭ではわかっている。
けれど、やはり不条理で。
その胸中はいかばかりか、想像するだけで胸が痛んだ。
私はただ、ドレスの裾を整え、背に手を添えることしかできない。
願わくは。
ーーどうかその方が、シリ様を傷つける人でありませんように。
◇
レーク城の城門前に、一際背の高い青年の姿があった。
姫の背をそっと見つめながら、私は直感した。
――あの方が、きっとグユウ様。
辺境の領主としか聞いていなかったから、これまで噂話ひとつ耳にしたことがなかった。
その姿が近づくにつれ、輪郭がはっきりと見えてくる。
すらりとした体躯、インクのように艶やかな黒髪。
整った顔立ちは、少なくとも容姿においてはシリ様に引けを取らない。
私は心の中で、思わず採点を下していた。
だが――問題は、その表情であった。
シリ様が歩み寄っても、青年は微動だにしない。
普通ならば、笑顔を見せ、嫁いできた花嫁に言葉をかけるものだ。
だというのに。
切れ長の黒い瞳は、澄み渡るように美しいのに、そこには一片の感情も宿っていなかった。
まるで、冷たい銅像のように。
私は圧倒されると同時に、呆れを覚えた。
――このような男と、シリ様は生涯を共にせねばならぬのか。
背に控えながら、胸の奥で知らず知らずのうちに拳を握りしめていた。
「・・・グユウ・センだ」
小さく、低い声。
そこに感情はなく、ただ言葉を口にしただけだった。
「遠路ご苦労だった。今夜は、ゆっくり休むといい」
冷ややかな目が、シリを一瞥する。
そして彼は、何も言わずに城へと背を向け、歩き去った。
◇
翌日、二人は挙式を挙げた。
青のドレスに身を包んだシリ様は、光を纏ったかのように美しかった。
黄金の髪と澄んだ瞳が、祝福の場にふさわしい輝きを放っていた。
――この世の誰よりも美しい、と、私は胸を張って言えた。
けれど。
新郎であるグユウ様は、シリ様を見ようともしなかった。
隣に座っているというのに、まるでそこに誰もいないかのように振る舞っている。
笑顔も、言葉も、視線さえも。
祝宴の音楽や人々の賛辞の中で、彼だけが冷たい石像のようだった。
私は胸の奥に小さな棘を覚えた。
――なぜ、この方は。
不安そうに伏せるシリ様の横顔を見ながら、私の心にも同じ不安が広がっていく。
この婚姻は、本当に幸せへと続くものなのだろうか。
◇
その夜は、初夜であった。
支度を整えるシリ様の顔には、憂鬱の影が落ちていた。
無理もない。
一週間前のことを思えば、シリ様の胸中に不安が渦巻くのも当然だった。
私は必死に説き伏せる。
「グユウ様は二度目のご結婚です。・・・女性の扱いにも慣れておいででしょう」
それは、私が絞り出した唯一の利点であった。
「シリ様は、何も言わずにグユウ様に従えばよいのです。
いつものように反抗的な態度をなさってはなりません。
思ったことを口にしてもいけません。
大人しく、淑やかに・・・。顔には笑みを浮かべて」
強く言い聞かせながら、心のどこかで自分を責めていた。
ーーこんなこと、シリ様が望む生き方ではないのだ。
けれど、この時代で女が生き延びるには、それしかないのだ。
「・・・さあ、行きましょう」
念を押し、私はシリ様を送り出した。
重たい扉の向こうに、彼女を残して。
その夜、私は寝室脇の隠し小部屋に身を潜め、二人の成り行きを見守った。
初夜を見届けるのは乳母の務めである。
けれど、胸は不安で張り裂けそうだった。
寝室に入ったグユウ様は、シリ様から遠く離れた寝台の端に腰を下ろした。
――グユウ様、ここはあなたが導かねばなりませんのに!
私は思わず苦悶の表情を浮かべる。
しかし彼は一向に言葉を発しない。
やがて、痺れを切らしたようにシリ様の方から話しかけられた。
本来であれば、女性が先に口を開くのは作法に反する。
だが、この状況では仕方がない。
私は黙認するほかなかった。
急に、グユウ様が口づけをした。
これでようやく初夜らしい流れになるかと思った、その矢先――。
シリ様が、ぽろぽろと涙をこぼされたのだ。
――泣いている・・・!
私は狭い小部屋の壁に背を押しつけ、胸を締めつけられた。
ーーこれではだめだ。
だが、ただ泣いているだけなら、まだ可憐さもあろう。
ところが。
「私は・・・泣いてなんかいません!」
シリ様は声を張り上げ、癇癪を起こした。
――泣いているではありませんか!
私はズキズキと痛むこめかみを、親指で押さえた。
初夜は、完全に失敗に終わった。
やがて泣き疲れて眠りについたシリ様を、
ふと見つめるグユウ様の口元が――ほんのわずかに、微笑んだように見えた。
ーー気のせいかもしれない。
けれど、それだけが唯一の救いであった。
◇
初夜のあとも、二人はニ日間、寝室で共に過ごした。
それなのに――交わることはなかった。
隠し小部屋に潜んでいた私は、毎夜、胸をかきむしる思いで悶絶していた。
だが、その日々の中で、二人の距離はほんの少しずつ、重なっていったように思う。
無口で鉄仮面のような表情のグユウ様。
けれど、本当は誰よりも優しい方なのではないか――そんな予感すら抱かせた。
そして迎えた、結婚四日目の朝。
「乗馬をしたいの」
シリ様の一言に、私は全身が凍りついた。
女性が馬に跨るなど、絶対に秘密にしたかった。
結婚をしたら、やめると思ったのに!!
そんな振る舞いは、周囲の失笑と非難を買うだけだ。
「お願いです、シリ様。普通の装いでいてください。
男装など・・・グユウ様もきっと呆れてしまいます」
必死に止める私の前で、シリ様は何食わぬ顔で乗馬服に着替え始めた。
「エマ、私はグユウさんに好かれていないのよ。
どうせ好かれていないのなら、ありのままの私で過ごすわ」
青い瞳は、揺らぐことなく真っ直ぐだった。
「けれど・・・シリ様」
それでは――殿方に、愛されません。
心の叫びは、震える唇の奥で消えていった。
乗馬服を纏ったシリ様が姿を現したとき、
グユウ様をはじめ、ワスト領の家臣たちは一様に目を見張った。
――それは当然だ。
私は居たたまれない思いで、その場に立ち尽くした。
馬上のシリ様を前にしても、グユウ様は淡々と接していた。
怒りも、驚きも見せないその姿に、かえって胸がざわついた。
「・・・シリ様が規格外の姫になったのは、育てた私の責任」
遠ざかる背中を見つめながら、私はひとり肩を落とした。
けれど、乗馬から戻ったシリ様の顔は、いつも以上に高揚していた。
強く気高い瞳が――まるで恋をしているように揺らめいている。
その日から、シリ様は落ち着かなくなった。
渋々羽織っていたガウンをそわそわと身にまとい、
鏡に映る自分を何度も確かめ、私に尋ねてくる。
「変ではないかしら」
――あぁ。遠出の間に、何かがあったのだ。
そして、その夜。
シリ様の方から、グユウ様に口づけをなさった。
思わず、私は息を呑んだ。
本来であれば、女性から先に触れるのは作法に反する。
けれど、その一歩が、鉄仮面の青年を動かした。
二人はついに結ばれた。
グユウ様の手は、優しく、丁寧に姫を包み込む。
その触れ方は、深い心の傷を癒すようで――。
私は隠し小部屋の中で、静かに涙を流した。
ーー良かったですね、シリ様。
◇
結婚六日目の朝食。
シリ様はパンを切り分けながら、熱心に政治の話をしていた。
「りんごを領の特産品にできないかしら」
その言葉に、私は思わず声を荒げた。
「シリ様!!」
女性が政策を口にするなど、出しゃばりもいいところ。
この時代、女は他愛のない話で男の心を慰めるのが美徳であり、良妻とされていた。
シリ様も反省したように俯かれる。
だが――。
「エマ」
不意に、グユウ様が私の名を呼んだ。
その黒い瞳は、真っ直ぐシリ様を見つめている。
「そのままで良い」
「・・・え?」
思わず怪訝な顔をした私をよそに、彼は続けた。
「オレは、シリのそういうところが・・・気に入っている」
その瞬間、グユウ様は、自分でも驚いたように言葉を呑み込み、
「会議に行くぞ」と慌てて立ち上がった。
グユウ様の耳は、真っ赤に染まっていた。
――そのままで良い?
規格外のシリ様を・・・そのまま?
胸の奥に、小さな雫が落ちたように感じた。
◇
結婚して8日目
シリ様は寝室の片隅で、黙々と刃を研いでいた。
もちろん、反対した。
けれど、言うことなど聞くはずはない。
この時代、淑女が砥石に刃を当てるなど考えられぬことだ。
グユウ様が寝室に入った。
「・・・」
低く落ちる視線が、シリ様の手元をじっと見つめる。
冷たい叱責の声が飛ぶのではないかと、私は肩を震わせた。
だが、彼は何も言わなかった。
ただ砥石が滑らぬように、無言で片手を添えたのだ。
シリ様は一瞬驚き、けれどすぐに唇に笑みを浮かべた。
その光景に、私は胸が熱くなるのを覚えた。
――グユウ様は何も言わない。
けれど、その眼差しは優しかった。
◇
結婚して9日目。
馬場でシリ様が自ら馬の世話をしていると、グユウ様は黙って立ち会っていた。
泥で裾を汚そうと、髪に汗が張りつこうと、彼は眉ひとつ動かさない。
むしろ水桶を差し出し、手綱を押さえる仕草さえ見せた。
「・・・ありがとう」
シリ様が囁いたその声に、初めてグユウ様の黒い瞳が柔らかく揺れた気がした。
私は思わず息を呑む。
――鉄仮面の領主は、シリ様を変えようとはしない。
そのままを、受け入れようとしている。
◇
そして、結婚十日目のこと。
その日も乗馬服に着替えたシリ様が問いかける。
「私の装いは・・・変ですか?」
顎を少し上げたシリ様に、グユウ様は静かに答えた。
「・・・似合う」
たった三文字。
けれど、その言葉がシリ様を真っ赤に染め、
私の価値観すら大きく揺るがした。
規格外のシリ様を、そのまま好いてくれる男性。
そんな夢のような方が、この辺境にいたとは。
シリ様のお顔は、豊かな生家では見る事がなかった幸せそうな表情に満ち溢れていた。
貧しくても、無口でも。
まっすぐで、深い愛情を込めてシリ様を受け入れる人。
――その日を境に、私は二度と口にしなくなった。
『それでは、殿方に好かれません』という、かつての私の口癖を。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
この短編は『秘密を抱えた政略結婚』本編のスピンオフで、
乳母エマ視点によるエピソード(第8作目)です。
短編だけでもお楽しみいただけますが、
本編を読むと二人のすれ違いや政略の背景がより深く伝わります。
本編はこちら
『秘密を抱えた政略結婚 〜兄に逆らえず嫁いだ私と、無愛想な夫の城で始まる物語〜』
(Nコード:N2799Jo)
https://ncode.syosetu.com/n2799jo/
そして、この短編を気に入ってくださった方へ。
短編をまとめた連載版『<短編集>無口な領主と気丈な姫の婚姻録』も公開中です。
https://ncode.syosetu.com/N9978KZ/
※この短編も、1週間後に短編集に追加予定です。