スピンオフ第9話:狙われたヴァルター後編
奥の展示台には、絹、毛皮、宝飾品──どれも帝国ではまず流通しない品々が、無造作に並べられていた。
低い声で交わされる取引、札束のやり取り、紙袋に包まれる小箱。
空気には微かに緊張が漂っている。
ヴァルターは黙ってそれらを眺めていたが、ある一角で足を止めた。
そこに置かれていたのは、深い漆黒の手袋。
しなやかで艶のある皮は、帝国内では禁猟指定の希少獣から剥がれたものだ。
黄金の瞳がわずかに細められる。
指先が、その柔らかな質感を確かめるようになぞった。
(……食いついた!)カリムの胸に熱が走る。
(これを買わせられれば、“共犯者”だ)
*
レオンは外套がなかったが、どさくさにまぎれて奥まった違法品エリアへ入場していた。
(案外、ザル?)
展示台をゆっくりと回りながら、法務局の記録を頭の中でめくっていた。
(宝石や金細工は真贋が難しい……ここで押さえるには証拠の裏付けが足りない。
絨毯や織物も同じだ、経路証明に時間がかかる)
ふと目に留まったのは、壁際の小さな棚に置かれた象牙の短刀。
(象牙細工──帝国では加工品も含め全面禁止、例外は献上品のみ。
刃の形状と彫刻の紋様……これは、三年前に禁輸リストに加えられた南方の部族製だ)
脳裏に、条文番号と過去の摘発記録が並ぶ。
(これなら現場で即座に押収可能、証拠能力も高い)
一方、少し離れた場所でヴァルターが立ち止まり、黒い手袋に触れていた。
その黄金の瞳が質感を確かめるように細められる。
(……なるほど、そっちか)
アプローチは違えど、目的は同じ。
文官の知識で象牙、軍人の目で希少種の皮革──
どちらも、間違いなく“違法”の証だ。
会計台に進んだヴァルターは、手にしていた黒い手袋を一度置く──かと思えば、展示台に戻り、同じ革の手袋を次々と拾い上げた。
色違い、サイズ違い、全部だ。
(……は? 何やってんだあの人)
レオンの眉が思わず動く。
カリムは「大口だ」とばかりに口角を上げているが、レオンにはその意図が読めない。
(ただ……欲しいだけか?あの人のことだから……。いや、ただ欲しいだけだな。)
ヴァルターは一切言葉を発さず、皮手袋の山を会計台に置き、淡々と購入の手続きを進めていく。
金額を見た店主が一瞬だけ目を見開いた。
(……あれだけの革手袋、いくら支払ったんだ?)
レオンは心の中で呟きながらも、同時に何かを察していた。
──しかしこれはきっと、殿下の“突入”の合図になる。
ヴァルターが手袋を手にしている横で、レオンは象牙の短刀と黒檀のペンを見比べた。
そして、ふっと小さく息を吐く。
「……もしものこともある、念のため両方」
短く呟き、象牙の短刀と黒檀のペンの2つを注文した。
店主が示した額に、思わず眉が跳ね上がった。
(……は? これ、俺の月給の半年分はあるぞ)
帝国投資信託や宮内預金に、コツコツ蓄えた資産がある自覚はある。
大商人に劣らぬ一財産を抱える、文官のトップエリート。
今をときめくユリウス・フォン・エーレンベルク殿下の執務室付き筆頭書記官
──だが、それでも躊躇う金額だった。
それでも、レオンは懐から自分の財布を取り出す。
「……払おう」
万一、この場で証拠を押さえ損ねることがあってはならない。
それが仕事であり、殿下に仕える者の責務だ。
カリムが横目でそれを見て、またもや薄い笑みを浮かべた。
(……こちらも買ったな。あとはこっちのもんだ)
カリムはそれで満足そうに笑んだ。
「これで共犯者だ……」という思惑が、透けて見える。
だが、その笑みが長く続くことはなかった。
取引が終わった直後、会場の入口から兵士たちが雪崩れ込んできた。
先頭にはユリウス殿下。
鋭い青の眼差しが、場の空気を一瞬で凍らせる。
「すべて押収しろ。記録を取れ」
命令は簡潔で、容赦がなかった。
悲鳴と怒号が交錯し、次々と並べられる違法品の山。
カリムを含む商人たちは青ざめ、動揺で言葉を失っている。
だが──ヴァルターの手にある皮手袋と、私の短刀とペンだけは、兵士の手が触れることはなかった。
殿下から事前に、「模造品でない確実な違法輸入品を買え」と命じられていたのだ。
その二つは、堂々と持ち帰ることが許された。
こうして、“共犯者”として脅すはずの相手は、ただ合法的に違法品を所持できる立場に変わり……
カリムの思惑は、見事にひっくり返ったのである。
*
兵士に押さえつけられ、床に膝をつきながらも、カリムは見てしまった。
ユリウス殿下とヴァルター閣下の並び立つその姿──どう見ても、並の主従ではない。近すぎる。
殿下の視線が、まだ外れたままのヴァルターの軍服のホックに落ちる。
短く何かを告げ、ヴァルターがそれを留める。
……あの口の動きは──
(お、れ、い、がい、 に……見せるな……か?)
瞬間、背筋を走った戦慄と共に、頬がじわりと上気していくのが自分でもわかった。
やはりそうだ……!ユリウス殿下をも虜にし、傍から離さぬ、あの魔性。
どんな男をも掌の上で転がす──そんな芸当ができるのは、あの高級男娼だけだ。
(くそ……こんな化け物を俺は落とそうとしていたのか……)
……だが、商人として価値を測り違えたのは痛恨だ。もっと見る目を磨かねば。
ふと横を見ると、小柄の伯爵が悠然と立っていた。
眼鏡もなく、きっちりと撫で付けた前髪、仕立ての良い上衣──ただ者ではない。
その手には、妙に存在感のあるペンと短刀。
(……審美眼があるな。実力者だ。きっと大きな領地を持っている)
あれも、殿下の腹心か……?
……俺は、なんて恐ろしい連中に喧嘩を売ったんだ。
外套は……くれてやる。
美しくも恐ろしき帝国──覚えてろ!
それが、カリム・ザヒードの最後の捨て台詞だった。
兵士に押さえられ、引きずられていく背中を、私はただ静かに見送った。
*
数日後、知らせが届く。
「カリム・ザヒードは帝国籍でないため、国政の管轄外につき釈放」
命だけは拾ったらしい。だが、もう二度と、帝都であの手は使えないだろう。
ヴァルター閣下と殿下は、今日も平然と並んで執務に就いている。
あの二人に手を出すとは、どういう意味か……あの男も骨身に沁みたはずだ。
そうそう、あの最高級手袋は、なぜか殿下の机に一足。
ヴァルター閣下に至っては、毎日着用している。
……あれだけ買っていたんだから、私にもくれたっていいじゃないか!
まあ、私には私の戦利品がある。
手には、あの黒檀のペン。そして封書を切るそのナイフは象牙の短刀。
買った金は戻ってきたが、物は回収されなかった。
胸をなでおろし──「物には罪はない」。
末長く、大切に使わせていただこう。