スピンオフ第8話:狙われたヴァルター中編
ヴァルター閣下は、すでに殿下にこの会合のことを報告済みだった。
殿下はあの外套を手に取ると、口の端を僅かに上げて仰った。
「違法の品だが、確かに美しいな」
羽織ってみると、厚みも重みも申し分ない、と一言。
「これを宣伝に使うとは……よほど儲けているらしい」
そう言いながら、外套をヴァルターの肩に掛けた。
「では、こうやって殿下も隠れて……」
ヴァルターが腕を広げ、殿下を外套の中に招き入れようとした時、殿下は片眉を上げる。
「……入ると思うか?」
黄金の瞳が細く笑い、ヴァルターは穏やかな微笑みを返す。
私は──その茶番を見て身体中のどこかしらかが痒くなった。
「……さ、書類出してきます」
執務室を去ろうとしたところで、ヴァルター閣下に「レオン書記官」と呼び止められた。
外套を広げられる。
「レオン書記官ならあるいは」
ーーー……入れ、と?
「無理です」即答し、扉を閉めた。
なんなんだ。あの二人には、危機感という言葉がないらしい。
そして耐性がつきつつある自分を恐ろしく思った。
*
会場は、煌びやかな照明と香水の香りに包まれていた。
入り口を抜けた瞬間、私は軽く眼鏡に手を伸ばす──が、今日の私は眼鏡を掛けていない。
前髪はきっちりと撫で付けてオールバック、仕立ての良い上衣に金の飾り釦。
いわゆる「伯爵仕様」だ。
眼鏡がない分、オペラグラスを片手に会場を見渡す。
違法品が並ぶはずの一角はまだ開かれていないらしい。
ヴァルター閣下の少し後方から、潜入に成功した。
カリムの仕掛ける最初の関門は“色”だった
軽い指の合図で、黒髪を波のように揺らした女が現れた。
背中はほとんど露出し、香水と絹の匂いがふわりと漂う。
女がヴァルター閣下の腕に絡みつき、紅い唇を耳元へ近づける。
──舞踏会に出せるレベルの美女だ。顔も肢体も申し分ない。
しかし黄金の瞳が一度だけ女を見た瞬間、彼女の呼吸が浅くなり、指先の力が増す。
……が、ヴァルターは「失礼」とだけ言ってそっと腕を外した。
(あーあ、逆に夢中になってるのに切られた)
──そもそもこの人、色仕掛けに興味ないんだよ。
カリムの口角が、わずかに引きつったのを私は見逃さなかった。
二つ目は“酒”
カリムは金の杯に濃い葡萄酒を注ぎ、熟れた香りを立たせた。
「南方で十年寝かせた逸品です」
高級品だ、とは思う。……が、カリム相手が悪いぞ。
ヴァルターは一口啜って、無言で卓に戻した。
(この人、毎日殿下と国の金でドン・ペリ飲んでるからな……ロマネ・コンティだって経験済みだ)
私がため息を飲む間に、カリムの眉間にうっすら皺が寄った。
三つ目は“金”
懐から金貨の束を取り出し、冷たい光をわざと揺らすカリム。
「これで……奥の特別品を買い付けては?」
普通の商人なら一年は遊んで暮らせる額だ。
だがヴァルターは掌を開き、そのまま卓に置いただけ。
(あの人、お金使わないんだよな……昼は毎日殿下と摂るし、カーチャ様の邸宅住まい。服も全部支給品。外出すれば誰かが払う。国家のヒモが、金で動くわけがない。ある意味、賄賂が通用しないって最強だな……)
カリムの笑みは、明らかに固くなっていた。
四つ目は“暗がり”
「では……少し休める場所へ」
カリムは人の少ない廊下へと導く。奥の長椅子の背には布が垂れ、香水の香りが籠っていた。
そこでは、一人の伯爵らしき男が女たちを何人も侍らせ、背中や腰に手を這わせている。
(肌に触れてリラックスさせれば……あるいは)
カリムの目が光った。
「……結構だ」
ヴァルターは短く断った。
(マッサージ……か? いや絶対違う)私は眉をひそめた。
最後の手は、”カリム自身”
カリムは一歩踏み込み、ヴァルター閣下の外套の裾を指でなぞる。
「ならば……俺がご案内しましょう。宵の遊びを……」
その声には、低い熱が混じっていた。
──ならば俺が体を使ってわからせてやる……そういう目だ。
穏やかに微笑むヴァルター閣下。一歩下がる。
カリムはそれを“焦らされている”と受け取り、さらに詰め寄る。
外套の正面を少しだけ捲ると、端正すぎる軍服の胸元が覗く。
ホックに指をかけ、一つ、また一つと外していく。
ヴァルターは黙っている。ただ、視線だけは真っ直ぐだ。
(おいおいおい……これ許してんのか?)
「……早く」
低いヴァルターの声が落ちた。
反射的にカリムの息が熱を帯びる。
カチ、カチ、と金具の音。首元が完全に露わになると、黒い手袋の指が鎖骨へ這う。
……だが、何かがおかしい。全然その気にならない。
「……貴重な品が、早く見たいのだが」
低く、静かな声。
ああ、そういう“早く”か。
カリムの肩から、完全に熱が抜け落ちた。
外したホックはそのままに、
カリムの指示により奥の仕切りが開かれ、違法品の市場が現れる。
──あ、諦めた。
いや、だから言っただろうが……いや、言ってないけど。
(この人、“お金で動く”とか“色で釣れる”とか、そういう生き物じゃないんだって)
私は心の中で盛大に肩をすくめた。
(作戦の前提が、最初から全部ズレてるんだよ……)
しかし逆にカリムは腹の中で笑っていた。
(何を選ぼうが構わねぇ。買った瞬間に“共犯”だ)
本物かどうかなんて関係ない。
「実は違法品だった」と後で囁けばいい。それが狙いだった。