関のむこうの夢幻郷
通行手形などなくとも 娯楽に飢えた役人どもに一芸を披露すれば「お目こぼし」で関所を通過できるはずだった。しかし関所番が頭でっかちのくせやる気に溢れた新任に代わってしまったのが運の尽き。「お目こぼし」は通用せず、慌てて袖の下を渡そうとすれば却って激昂され追い払われてしまう始末。派手に芸を披露したために顔が割れてしまったから、どこぞの使用人になりすまして関をくぐることもできなくなってしまった。
であるので兵衛次郎を筆頭とした祭文語りの旅の一座は巡業のため、関所の門も柵も木々に張られた鳴子も避けて、百姓から聞き出したうねうねと続く道とも言えない道を突き進んで──人はそれを関所破りという──山を上って下ってしていた。
「ひでぇ道でしたねェ」
「今度あの百姓に会ったらとっちめてやりてえよ」
「どうどう。ここを抜ければ人心地もつけるだろうや」
抜け道は「これ獣道なんでねェか?!」と舎弟が悲鳴を上げるほどであったが、ようやく「人為による踏み分け道」らしき、脇から伸びる草木にのまれていない一筋の道に出て兵衛次郎は安堵した。道の先が霞んでいるように見えるが、柵だのの仕掛けがあるという稜線から離れたことを確認したので歩調が知らず知らずのうちに早まる。
「……栗か」
「ああー、村だ! ようやっと足を休められる!」
「静かにせえ!」
霞の正体は、今の時期に咲く栗の花だった。
垂れ下がる白い穂のような花とむせ返る匂いをくぐって入れば拓いたとわかる土地がそこにあった。なにせ地面には石も転がっていなければ笹も竹も伸びていない。耳を澄ませば水音がし、栗の木の間をぬって進めば石と砂利を敷き詰めたくぼみの中央から水が静かに湧いていた。
「ひゃーっ!」
「やめろ手を出すんでねえ! 見られたら袋叩きで畑の肥料が関の山だ。関の山越えだけにな」
舎弟の一人が水溜まりに両の手のひらを差し込もうとしたので、兵衛次郎は慌てて制止する。道なき道を歩いた直後であるので喉を潤したい舎弟たちはぶうぶう言ったが「まずは話を通してからだ」と諭せば唇をとがらせながらも納得はしてくれた。
「……ついでにうまいモンでも食わせてもらえんものかな。藪で何匹蚊柱食っちまったわからねェや」
「飯なんてたんと食わせてもらえるだろうや。なにせここは、年貢逃れの隠地に違ェねえ」
舎弟の言葉に、兵衛次郎は肩についた蜘蛛の巣を払いながら「でなければ狸か狐が化かした村だろうさ」と続けたのでとうとう皆笑ってしまった。
兵衛次郎の言うとおりだった。隠地でなければ道もないような鬱蒼とした山の中に、手入れされた豊かな土地が急に広がっている訳がないのだ。村人に「この場所のことを密告する」と強請れば(逆に多少の銭を握らせたっていい)山を下るための安全な道に、今日の食料に寝床さえ確保できるかもしれない。関所抜けは重罪だが、年貢逃れも同様に重罪なのだから。
とっとと村人と友好関係を築かなければ。一行は気配を伺いながらゆっくりと辺りを進む。この隠地は栗ばかり生やしているようで、「秋は良かろうが今の時期は生臭く鼻をつく香りで辟易するな」と栗の葉をのんきに食む山繭の幼虫たちを眺め「夕餉に魚でも出してくれんかなあ」と思いを巡らせる。
「あら、お客人なんて珍しい。どちら様でしょう?」
歩きつつも皮算用の止まらない一行であったが、後ろからかけられた、しかも女の声に兵衛次郎はぎょっとしながら振り向いた。
隠地を暴いた一行は、村にとっては脅威である。同様に一行は、村人に関所破りを告げ口されてはひとたまりもない。よって双方の利害が一致するよう交渉を行うべきである。だというのに女の声は敵意を一切感じさせないカラコロと鈴の様な声だった。何なら人質として狙われやすい女が、家に隠れるのではなくこの場に出てくるのもおかしい。女を見た兵衛次郎はまたぎょっとする。
女の容姿が優れすぎている。
体つきは「一昔前の美人像」である。背が高く手足はすらりと長く、胸と尻だけ肉付きが良い。だからといって古くさい印象はない。色白で絹のような肌、烏の濡羽色を乱れなく結い上げた髪に富士額、ほっそりした輪郭に通った鼻筋、すっきりとした目。今も昔も揺らがない「美人の条件」にぴたりと当てはまっている。何なら眉も巷で話題の町娘よりも先を行ったような形で似合っている。流行最先端だ。
――流行最先端? こんな都市から離れた山中の、ましてや隠地で流行の最先端?
おかしい。兵衛次郎は瞬時に警戒を抱いた。が、「入鉄砲に出女」と、関所から女を出すなと言われるほど女の少ない都市で生きる男たちにとって、発光するようにまばゆい美人は刺激が強すぎたらしい。のぼせ上がる男たちに向かって、女は玉虫色に光る小さな唇を開く。
「申し遅れました。私の名前は よう。よう と申します」
「へ、へぇ。あっしらは……」
「お前ェら黙ってろい!」
色めきだつ舎弟たちに対して兵衛次郎は一喝した。明らかに「何でェ」と不満の色が立ちこめたが兵衛次郎はそれどころではない。厚く紅を塗り重ねる、玉虫色に光る笹紅なんてよっぽどの良家の娘か人気の遊女かでしかお目にかかれるはずがない。山中にこのどちらかがいるとは思えないから――狐に化かされたと思う方が妥当だ。
関所抜けを画策しなければ舎弟をかような事態に巻き込ませずに済んだ。兵衛次郎は腹を括って「よう」と名乗った女と対峙する。
「あっしらは、えー、旅の一座でしてね」
「あらそうなんですの。それでこちらに?」
「へぇ、そうなんですがね。……色々あって道がわかりませんで。申し訳ねぇんですが、山を下りる道を教えていただけねぇですかい」
ぺこぺこと兵衛次郎が頭を下げると舎弟たちがまたぶうぶうと文句を言った。水に食料に寝床。誰も彼もが皮算用をしていたので何の恩恵も受けずにすごすご引き下がるなど考えられなかったのだ。それでも兵衛次郎は「へへぇ舎弟どもがすみませんで」と頭を下げる。
「道? 道ですか? 道……」
女はきょろきょろと目を泳がせた後、困ったように背後を振り返った。女が後ろを向いたことにより他の部分にも意識がいく。細く白い首にスッとしたうなじの後ろ姿。気負った様子もなく着こなしている夏虫色のハリのある着物。着物。兵衛次郎は目を丸くする。女自身も発光しているように美しいのだが、あの着物自体が光り輝く素材、おそらく絹でできている。いかほど高価なものなのか見当もつかない。
これは狐の村か? 女は狐の姫様か? いよいよ早く抜け出さねば。
兵衛次郎の額から流れていく汗を乾かすように風が吹く。花と香りをまき散らしつつ栗の木がざぁっと鳴った。
「ッ?!」
直後、初夏の風が急に冬の寒風に変わったかのように背筋に怖気が走る。そして見えない矢をヒュンヒュン飛ばしてくるような敵意が正面の屋敷から飛んできた。
そう、そこにある屋敷から。
――女の奥、風が揺らした栗の木の奥の奥に屋敷がいつの間にかあった。あれは今まであったのか、いや屋敷など無かったはずだ。二階建ての大きく立派な土壁の屋敷など見逃すはずがない。正面の戸が半身分ほど開いていて、中は、
「ひぅ゛っ」
日当たりはよさそうだというのに開いた隙間から屋敷の中の様子はうかがえない。しかし間違いなく中から兵衛次郎を凝視している。わかるのだ。暗がりから釘付けにするようにじっと静かに兵衛次郎を見ていると。しかも、複数人いるわけではなさそうなのに二つ以上の目と合っているような気がする。本能がそう感じている。
「あ、道はですね。そちらの水場を右に行けば抜けられるようですよ。おわかりになります?」
「……っ」
「あの、そこな御方?」
「へ、へぇ。助かりまし……」
呑まれてしまってはいけない。噴き出す汗が止まらない兵衛次郎は、ぶるぶる震えながら奥の屋敷から手前の女へと焦点をゆっくりと移す。
「ひ」
女に焦点を合わせた兵衛次郎を小屋の主が睨みつけている。女を見てはいけない女を見てはいけない女を見てはいけない女を見てはいけない女を見てはいけない女を見てはいけない女を見てはいけない女を見てはいけない。慌てて兵衛次郎は手近な栗の木に注視した。それでも梟に似た、底なしの黒色の瞳孔を山吹色の虹彩が包み、それをまた黒で縁取ったような乾いた目が。目がずっと小屋の中から兵衛次郎を睨みつけているような気がする。そんなもの見えてはいないのに。去らなければ去らなければ去らなければ去らなければ去らなければ去らなければ去らなければ今すぐにこの場所から立ち去らなければ。
「で、では。あっしらはこれで。お騒がせしました……あ゛ッ?!」
女を視界から巧妙に外しつつ、背を向けず後ずさりしながら兵衛次郎は言う。異様な状況と異様な兵衛次郎の様子に気づいた舎弟もおり、未だ不満顔の舎弟を宥めながら一緒に去ろうとする。が、その途中で兵衛次郎は大声を上げた。後ずさりしていて栗の木が背にぶつかったからだ。衝撃でぼとぼとと何かが降ってくる。栗の花と、葉と、山繭。
山繭。
「あ!」
地に転がってうねうね蠢く山繭に、何か、この村の断片が繋がったように思えた。
ここは狐の村なんかじゃない。この村はおそらく――――
落ちた山繭を優しく栗の葉に移しながら、兵衛次郎は恐る恐る女にまた焦点を合わせる。屋敷の奥から鋭く睨まれ続けている。しかし勇気を出して兵衛次郎はにこにこと微笑み続ける女と再び相対した。女に案内された道が、奈落の崖に繋がっていない保証もないのだ。
「あ、……あっしらは旅の一座だと申しましたでしょう」
「ええ、はい。そうでしたね」
「道案内の賃銭と言っちゃァ何だが、代わりにあっしの芸でも見てってくださいよ」
水も食料も寝床も無い。まして賃銭代わりに芸の披露だなんて損しかない。「ええ?!」と舎弟は声を上げかけるが、それより前に兵衛次郎は懐から短い錫杖を出した。女はきょとんとして「何が始まるのか」と目を丸くしている。
「あっしの芸は祭文語り。神道かと思えば仏道、仏道かと思えば神道。結局祭文とは何ぞ何ぞとよぅ聞かれますがここらで一丁覚えてくだせぇ、説教節ならば仏教。祭文は! 神道にござーいィーーー! 世の人々は俗な話、例えば八百屋のお七にお染と久松藪入心中なんかァ好みますが、祭文語りのあっしらの本分は祈願に祝詞! 寄ってらっせぇ見てらっせぇ、聴いてらっせぇ祭文語ーりィーーーーーーー!」
と高らかに述べ、腰に下げていた法螺貝を口の前に持ってきて「デンデン、デロレン、 デロデンデン。デンデン、デロレン、デロデンデン」としゃがれ声で歌い、錫杖をチャッ、チャッ、と一定間隔で振り始めた。これが兵衛次郎を筆頭とした一行の生業、祭文語りの前奏である。
デンデン デロレン デロデンデン (チャッ)
デンデン デロレン デロデンデン (チャッ)
デンデン デロレン デロデンデン (チャッ)
デンデン デロレン デロデンデン (チャッ)
祭文語りは何度も何度も同じ節を繰り返すことにより意識を入神状態へと持っていくのが定跡だが、それにしたってあまりに気迫のこもった、脂汗を流しながら唱え続ける兵衛次郎のただならぬ様子に弟子たちも徐々に声を重ねていく。
デンデン デロレン デロデンデン (チャッ)
デンデン デロレン デロデンデン (チャッ)
デンデン デロレン デロデンデン (チャッ)
デンデン デロレン デロデンデン (チャッ)
「敬ってェーー申し奉ゥるゥーーーーーーーーノホーーーホーーーーーー」
兵衛次郎が辺りに響き渡る声で言い、舎弟たちは「デンデン デロレン デロデンデン」と唱え錫杖を振り続ける。
「蚕かいの道は千早振る
神の御代より伝え来て
たかきいやしき おきなおみな をとこをとめもおしなべて
黄金にあたう細糸紡ぐ
いよよ励まん」
「デンデン デロレン デロデンデン 」
「デンデン デロレン デロデンデン 」
「デンデン デロレン デロデンデン 」
「デンデン デロレン デロデンデン 」
「濃きに淡きに 染めなす色の
星ときらめき 花とも映えて
祝いにかざす 綾羅のうすもの
故郷にかざる 錦繍のたもと
貴きはその輝き
その光 世に充ち足らむ
栄も富も世に充ち足らむゥーーーーーー」
「デンデン デロレン デロデンデン 」
「デンデン デロレン デロデンデン 」
「デンデン デロレン デロデンデン 」
「デンデン デロレン デロデンデン 」
そして最後にチャカチャカチャカチャカと錫杖を振り、ジャッ! と皆で動きを止めると深々と礼をした。
「わぁ! すごいすごい!」
女がパチパチと拍手をした。その音さえも軽やかで美しい。
「今のが『サイモンガタリ』と言うんです? 私、初めて見ました!」
「いやぁ……」
「油売ってねぇで行くぞ!」
ぱぁっと辺りが明るくなるような笑顔で女が声をかけて、長々話したそうな舎弟の言葉を兵衛次郎は乱暴に切った。ぶぅたれる舎弟を、同じく舎弟の一人がなだめる。
「それで、どこから抜けるんでしたさね?」
「あ、ええ、ああ、それはですね……」
兵衛次郎が尋ねると、女は視線をふっと奥の屋敷の方を見た。
「水場をですね、左に抜けていくといいと、思います」
「あいわかった。それでは失礼しやした」
聞くと兵衛次郎は一目散に水場の方へ駆け、左に回って先へと進んだ。後ろから「また来てくださいねーーーー」と糸を引くような女の声がしたし、どこまで行っても栗の花の香りが鼻をつくようだったが「絶対ェに振り返るなよ!」と足も止めもしなかった。そのまま無言で進んで進んで、再び藪をかき分け竹林を踏み越え、そのうちに広い峠道に出てようやく兵衛次郎は足を止め、息を吐いてどっかりとその場に座り込んだ。
「あーーーーー。とんでも無かった」
舎弟たちもひぃひぃ言って返事もできないくらいであったが、そのうちの一人が「あそこに茶店があるぞー!」と目ざとく見つけ、疲れも何のその、我先にと走り出す。兵衛次郎もよっこいと力を入れ直して立ち上がろうとし、舎弟の一人が手を差し出してくれたのでありがたく支えとさせてもらった。
「……先ほどは」
「ん?」
「先ほどの祭文、初めて聞きましたよ。あの祭文はなんです?」
「聞いたことあるかよ即興だよ即興。今日初めて唱えたモンだ。出鱈目だがそれっぽく聞こえただろ? 俺らはしゃんとした祭司じゃねェから嘘っぱちの祭文でいいんだよ」
「はぁ。しかし、なんで即興だとしてもあんな祭文を? あれは、蚕や絹を唄ったものでしょう?」
どうにも解せないといった顔をしている舎弟とよろよろ、茶屋に向かう。ほっとする甘酒の香りが辺りに漂っており、やっと兵衛次郎は肩から力が抜けた。ああ、ずっと緊張していたのだ。
「絹ってか……。天蚕ってか野蚕ってか、山繭だな」
「ヤママユ?」
「そう、山繭。まぁ世の中には不思議なことがあるもんでな、あすこは山繭の纏わる村なんだろうさ。あすこに居ただろう? 山繭が。栗の葉食って」
「おりましたけれども」
なおも解せない顔の舎弟に、兵衛次郎は続ける。
「女の着物、あの夏虫色は山繭の繭から取った天蚕糸の色だ。山繭が羽化をしたら山繭蛾。お前ェ、感じなかったか? 栗の木の奥にあった小屋から、山繭蛾の褐色の翅にある――」
「紋みてェな眼が見てるのを」と続けようとして、奥の様子がわからないほど暗い小屋の中から感じた、くっきりと縁取られた底なしの瞳の鋭さを思い出して口をつぐんだ。言ってしまったら再びあの瞳が忍び寄ってくるような気がしたのだ。
「――ンだまぁ、山繭が纏わっている気がしたから山繭を祭ったわけだ。お前ェも覚えとくといい。化かされた時には化かされたモンを祭っとくといいってな」
否定も不満も言わないが、口をひん曲げて納得できないといった顔をした舎弟の顔を見て兵衛次郎は笑った。
「狐の村に迷い込んだ時にでも、思い出してくれ」
そうして茶屋ののれんをくぐり、入りしなに甘酒を注文した。