会話ノⅢ─文化棟オカミス研究部部室内─
床に倒れ、獣はあっけなく気を失った。
残るのはただ、非力な女性である取兼だけ。仰向けに気を失った一人の教え子の傍に膝をついている、私と獣のやり取りを沈黙でもって見守り続けていた彼女だけだ。
「……!」
私を睨みつけてくる銀縁眼鏡の奥の瞳は決然としていて怯まない。その双眸に光っているのは、ただ義憤のみのように思える。鷲巣花蓮をバラしたこと、延寿由正を殴り気絶させたこと、殺人を犯したこと……全てへの、哀しみに近い怒りだ。らしいな、と思う。慈悲深さを持つ彼女らしい怒り方だ。
「相当に度胸のある人物のようですね。見誤っていた」
口から出たのは、素直な称賛。
私の賛辞に何の価値も見ず、取兼は睨みつけてくるばかり。
「教え子たちへ幅広い愛情を見せているように見せかけて、実際その通りではあるのだが、その実一人の生徒へ並々ならない執着を寄せている、非力で化学に偏愛を持つ一個人とばかり思っていましたよ、取兼先生。あなたの執心に気付いている人間は、私を除けば……まあ、鷲巣花蓮でしょうね」
勘だ。この人はひょっとすると敵となりえる相手なのではないか、という。
鷲巣花蓮が私をそう見たように、私が鷲巣花蓮に対してそう見ていたように。恋慕と憧憬、それに獣の言葉を借りれば慈愛か。
「……今からあなたは、どこへ?」
毅然と私を睨みつけている取兼の口から、そんな疑問が発される。
どこへ、か。どこへ行こう? 一人の人間を殺めた今、私は平生の生活を送れなくなると決定されている。
「逃げるほか、ないでしょうね」
「どこへ?」
「遠いところへ、です」
〝まとも〟である私の頭では、逃亡ぐらいしか思い浮かばない。逃亡か……それか、警察が来て、逮捕してくれるのをのんびり待つというのもある。
「逃がしませんよ」
「邪魔するとどうなるか、お判りだと思いますが」
「逃がしません」
逃がさない、と取兼が私を睨みつける。
そうか、逃がしてはくれないのか。それもいいのかもしれない。なんだかもうどうでもよくなっているのも確かだ。問いは否定された。獣さんは、私を同類だと認めてはくれないんだと。
もしも、獣が私を狂人だと認めてくれていれば。
そしたら私は、どうしていただろう。喜んで、それで…………
すると。
コンコン、と。二回。ノックだ。
背後。窓しかないはずの背後から。
振り向くと、真っ黒でぶかぶかのレインコートを着た者が窓枠を掴んで窓外に張り付き、室内を覗き込んでいた。ぐしゃぐしゃにどす黒い瞳が、愉快そうに私を見据えている。開けてくれ、ということらしい。
「なんだ、お前か……」
取兼を警戒しつつ窓の鍵を開けると、するりとソレが室内に入り込んできて……「お疲れ様、椿姫」そう労いの言葉をかけて、
「じゃあね」
首筋にチクリとした痛みを、感じた。
「逃がし、ません」
先ほどと同じ言葉。
逃がさない、と言う彼女。
発した人間は同じだというのに。
「よぉ……?」
まるで纏わりついてくるかのように。
粘りついた笑み、が、一滴、混じって、いる。




