師ト弟子
「ここから、ちょうど文化棟が見下ろせます」
第二校舎棟の最上階で最も端側に当たる化学準備室、開け放たれた窓の外を見下ろしつつ、取兼は言う。手には棚から取り出したばかりの分厚い教本を持ち、「延寿が歩いている姿も度々目にしますよ」微笑む。深愛の笑みと、それはとれる。
「今は、誰か歩いていますか」
延寿が問うと、
「今はですか、んー……見たところ誰も通っていません。なぜです?」
「花蓮……鷲巣花蓮が、部室に行くといっていたので」
「鷲巣さんが。それならもう通ったあとでしょうね。在室かどうかは、あなた方の部室はこっちではなく街側を向いていますから、電灯が点いているかも分かりづらい」
言い、「さて」と取兼は取り出した分厚い教本の上に分厚い教本を取り出し置いてその上に分厚い教本を取り出して積んだ。三冊だ。それだけで人に物理的な致命傷を与えられそうな本が三冊。
「今日はこのぐらいにしておきます」
このぐらい(三冊(分厚い))をテーブルの端にそっと置くと、そのうちの一冊を手に取り、開いた。『遺伝学』と厳かなフォントで主張された面白みのない表紙。しかし何故だか著者の名前がなく、出版社の表記もない。おおよそ本の体裁と言えるのは形と表紙だけの、不明瞭な本だ。残りの二冊も同様だった。
「その本は、いったい」
教本としての形をとってはいるが、完全ではない。
浮かんだ疑問を、延寿は口にする。すると取兼はぱちくりと延寿を見つめ、やがてにこりと銀縁眼鏡の奥の双眸に微笑みを宿し、
「私の学問の師とも呼べる人が遺した、執念の結晶です」
そう説明する。「本当はもっとバラバラだったのですが、私がそれぞれを一冊の本として直しました」誇らしそうに、いつもの慈しむ笑みを延寿へと向けて。
「欲しいですか? あげませんよ。これは私の大切なものです」
ぎゅ、と両手で胸に抱き、取兼。
子どもが何の変哲もないものに自分だけの価値を見て宝物だと大切に保管するように、彼女の仕草は幼く、そして純粋だった。本当に渡したくなく、大切なものなのだ。
「何冊、あるんですか」
延寿の問いに、「たくさん」と取兼。「私自身が加筆したところも多いですから。あの人の執念を受け継いで、私は私なりに、辿り着こうとしてきました」
執念、と取兼は言っている。
辿り着く、と彼女は口にする。
執念を残すのならば、その取兼の師にあたる人物は未練を抱いているのではないか。辿り着こうとして叶わなかったものを、代わりに取兼が……、
「辿り着くとは、どこへ」
延寿が問う。
その問いが発されたのは、ただ、純粋な好奇心からだった。
「あなたの問いへの私の答えに、」
まるで、好奇心から問いが発されたのを哀しむように目じりを微かにさげ、取兼は「ぃ……」と何かを言いかけて少しく沈黙し、ひっそりと小さな憐れみのような寂寥を滲ませ、
「……あなたは価値を抱けません」
微笑み、延寿の問いを拒んだ。
延寿にとって取兼のその表情はまったく、初めて見る顔だった。明確な壁がある、と感じた。その壁に触れようとしただけでも、間違いなく彼女が不愉快に表情を哀しませる確信もあった。
「あなたにこの本はあげません。この本は私のものです」
再び、取兼は言う。先の悲哀は見られず、からかうように独占欲を示し、再び本を胸に抱いた。「あなたがこの本に相応しい人間になれたら、考えます」微笑。やはり深愛を滲ませ。
「精進しなさい。延寿」
教師の眼差しで、期待を述べる。
「分かっています。それが本分ですから」
延寿の模範的な回答に、取兼は「その通りですよ」と頷き、言葉を続ける。
「遠大な草原に立ち込める朝靄を晴らし、その雄大さを実感する……靄を晴らし朝より先を迎えるその行為こそが勉学です。靄の中で自分が何処にいるかも分からずに過ごす者は朝の時刻に停滞し続けます。直上に照る太陽の十全な光を知らずに一生を終えてしまうんです。今自分が佇む場所がどれほどに広く雄大な景色を携えているのかも知らずに……どうせ草原に佇立するのなら、日向であったほうが暖かく心地よいではないですか。私は日向ぼっこが大好きです。延寿、あなたもそうでしょう?」
「好きかどうかを考えたことはありませんが」
「ならば直感で今、答えてください」
「……好む方だとは、思います」
「よろしいっ。ならば私は尽力し、あなたに朝を超えさせましょう。晴らされた朝靄の景色を見せる為にも」
お勉強です、と取兼は教本を開き、捲る。
「さて。今日はもう少し深く核酸について、DNAとRNAを見てみましょうか」
と言い、注いであった緑茶に口をつけて口内を湿らせた。
講義が始まる。
取兼から延寿への、誰かの執念の結晶たる教本を用いた勉学の時間が。
「延寿」
取兼は呼びかけ、やはり慈愛の笑みを向け、
「積み上げたものが無意味にはならなかったのだという、これは証明の過程です」
それは誰の積み上げたものなのか。
脳裏に浮かんだその問いを、例え発したところで取兼は哀しむだけのように、延寿には思えた。
「RNAはDNAと似た構造を持ちます。DNAについてはこの前話しましたので省略しますよ。あ、省略すると言っても、何か疑問が浮かんだのなら直ちに言ってね、あなたの理解を深めようとする意欲ある一歩を、私が歓迎しないわけがありませんから。……今のところは質問、ありません?」
「はい」
「素晴らしいですっ。その調子でいきましょう、あなたがとことんまでの学究の徒であることを私が保証します。私など、すぐに超えていきますよ。知に対して貪婪でありなさい延寿。知識の深みに浸かり、怜悧な思考を持とうとするあなたは青き染料となれます。藍草たる私を踏み越えていくように、そしてそれは目を閉じて永遠の眠りにつくよりも簡単で、怖いものでもなく、魅力的ですよ……さあ、改めて話を進めます。RNA……リボ核酸とも呼ばれます。その働きの一つとして知られているのは、タンパク質をつくる、というものですね。DNA内には、人間の身体の各部品……筋肉や爪、骨、皮膚、髪の毛、あとはヘモグロビンに酵素等をつくるための部品、いずれもタンパク質に分類されるそれらの設計図が格納されています。その情報をDNA内から持ち出す為にRNAがつくられ、そのRNAがタンパク質へと変換……より正しい単語を用いるのなら、翻訳、されます。そうしてタンパク質がつくられるわけです。このDNAからRNAを経てタンパク質になる一連の流れを、古くにクリックが中心教義と提唱しました。ただ時間が経つにつれてメカニズムは鮮明になり、事象の解像度があがったことでその教義は数回の書き換えをしなければならなくなったわけですが……」
そこで、取兼は一口お茶を口に含んだ。「今のところ、分かります?」
「……はい」
取兼の講義を聞き、延寿はある種の驚きを覚えていた。取兼の語りは早く、次へ次へと進んでいく。花蓮や冬真が『あの先生の授業は良い子守歌になる』と口々に言っていたようなその類であると延寿は取兼の現在の講義を見ている。だというのに、分かるのだ。
それは枯れていた川に再び水が流れ始めるように整然と知識は流れて浸みゆき、あらかじめその為の道が設けられていたかと錯覚してしまうほどに、親しみのある潤いを湛えていた。
「あなたには才質があります」
取兼は自らのその言葉に、一切の疑念を持っていないように見えた。
「続けます……RNAとはDNAのコピーです。ただ、全く同じ複製ではありません。まず、DNA内にある部品にあった目的となる設計情報を持った部位の二重らせんがほどけます。そしてその部位の塩基の配列と相補的に、相補的塩基対となるようにRNAがつくられていきます。この過程を転写と呼び、そうやって写されたRNAにはしかし不要な部分がくっついてしまっているんです」
そこで取兼はふ、と延寿を見据え、
「いらないものは、除いたほうが何かと都合が良いですよね」
笑みにしては薄く映るその表情は返答を望んでおらず、すぐに取兼は言葉を続け始める。
「取り除くことをスプライシングと呼び、その機能を持つそれをスプライソソームといいます。良い働きをしてくれるお利口さんです、そのために結果へのパターンは複数に分かれてくれますから。スプライシングされなければ、一種類のRNAと、そして一種類のタンパク質しか出来上がりません……スプライシングされたRNAは伝令として、mRNAとなり、いよいよタンパク質へと合成されます。細胞の核から外へと出て、リボソームなるところへと向かうんです。ただ、RNAとは塩基の連なりですが、タンパク質はアミノ酸の連なりです。変換の必要が生じますね。リボソーム内で三つの塩基ごとに、つまりは三文字ごとに運搬RNAが仲介することでアミノ酸へと置き換えられていきます。そうしてアミノ酸はペプチド鎖を形成し、伸長していくのです。この塩基の三文字のパターンをコドンと言いまして、それぞれに対応するアミノ酸があるんです。そうやって置き換えられて……翻訳、されていきます。そして、終止コドンが現われることによりペプチド鎖の伸長は停止し、そうやってできたものがタンパク質、です……以上が、DNAからタンパク質への……転写と、翻訳の、過程です」
ふう、と一息つき、取兼は再びお茶に口をつけた。
「まずはざっと説明しましたが、どうですか?」
川を流れる清流は、徐々にその水量を増しつつある。
延寿はそう、自身を見ていた。
「どうやら理解できているみたいですね。あなたの眼に、理解への停滞の徴が見られない」
満足げに取兼は笑むと、「ならば、もっと詳しく言いましょう」立ち上がり、準備室内のホワイトボードへと向かい、「いえ、やっぱりノートを使えば良いかな」と机から一冊のノートを取り出してテーブルへと戻ってきて、延寿の傍へ近寄り、その前に広げて置いた。
そこには既に文字と、図が記されていた。線の細い、流麗な文字だ。
「これは……」
「私のノートです」
取兼は言い、「ところで、延寿」
「つかぬことをお聞きしますが」
レンズの奥より、丸く見開いた知性の双眸でもって延寿を間近に見つめる。
「DNA……遺伝子とは、生物以外が所持していたりはしないのでしょうか?」
答えを待たず、
「遺伝情報、塩基配列、タンパク質のアミノ酸配列、生物の設計図を継承する為のそれらに類する何かは存在しないのでしょうか?」
答えを待たず、
「ヌクレオチドがリン酸により繋がった鎖、水素結合で引き合っている二本の鎖、鎖と鎖、お互いに引き合って形成されたらせん、お互いに引き合い干渉し、ひとつのミクロな情報体となった二重らせんに類する何かは、存在しないのでしょうか?」
答えを待たず、
「お互いに引き合い、存在するソレらは、もっと巨視的に見れないのでしょうか?」
答えを待たず、
「もっと大きな、多くの生物を内包した情報体、巨大な塊、そして二つ、引き合う二つがある塊とは、ないのでしょうか?」
答えを待たず、
「あなたは、異世界を、その存在を、信じますか?」
答えを待たず、
「ねえ、延寿────世界は、DNAを、持ってはいないのですか?」
質問は途切れ、間が訪れた。
取兼は沈黙し、延寿を見つめている。とはいえその表情は穏やかで、ともすれば口の端に微笑の兆しすら見て取れた。さも、発しておきながらその質問の答えを既に知っている者が、質問を向けた相手が思い悩む姿を、期待を込めて、愛おしく眺めるかのように。
「今、取兼先生が行った質問……その全てに俺は、ない、と答えます」
生物以外はDNAを持たず。
代替となる何か、なるものも存在せず。
巨視的なDNAの如きものも存在せず。
異世界は無論のこと存在せず。
世界、などという曖昧で意味をあまりに多く内包し過ぎるソレは、遺伝情報を持たない。
「そう答えるのなら、あなたはウイルスを生物に含めるのですね。生物の定義の一つとして謳われる自己の複製を宿主の細胞を介せなければ行えないウイルスは、けれどもDNAだけを持つ種もあるんですよ。生物ならば自力で行えるエネルギー生産も、代謝も、ウイルスは自らのみでは行えない」
「失念していました」
素直に延寿は誤りを認める。
全てを否定しようという意思が先行しすぎていて、細かい箇所までを見ていなかったのだ。延寿にとって取兼の今の質問群は、夢物語を語られているかのようですんなりと受容できなかった。
にこりと、取兼は深愛ととって疑いようのない微笑を見せた。
「いえ、いいんですよ延寿。私も、いじわるな聞き方を自覚的に行ったのですから。それに、生物の定義はそれ自体が確としたものだとは言い切れません。ウイルスの立ち位置もまた、生物と非生物の境界で揺らいでいます。はっきりとした結論を述べるのなら、確実に生じる反駁に備える必要が生じるぐらい不確かです」
延寿のすぐそばで、銀色のフレームの奥にある瞳をノート上に滑らせつつ、取兼は笑みを崩さずにいる。静かに、けれどもひどく上機嫌だった。
「今の問いに、先生はどのような解答をつけましたか」
その言葉に取兼は一時の思考も窺わせず、
「あなたと同意見ですよ、延寿」
即答した。「私が学び辿ってきた全てが、そんなものはありえないと声を揃えて否定しています。それこそが正しき世界の有り様だと、その仮定はあなたの狂気が産み落とした虚妄で、実体など持ちようがないんだ、と」
取兼の表情は、依然として上機嫌のままだ。穏やかな笑みを湛えている。
「さて、と。より深みにあなたを沈めなければ」
そう言うと、取兼はノートを捲りお目当てのページを探り当て、次いで分厚い教本を捲り、「ただ……」ふと、おもむろに振り返り、ゆっくりと立ち上がり、窓へ近づき、文化棟へと視線を落とし、「ただ、です」何でもないことを言うかのようなある種の奔放さでもって、
「理外の実在を完全に否定できないほどには、私もまた、賢明になれない側だったみたいです」
そのときの彼女の表情は、延寿からは窺えなかった。
「もう少し、DNAとRNAに関して深く掘り下げてみましょうか──」
講義は続き────────続き、
「ずいぶん暗くなりましたね」
気付けば室内は薄暗く、夜闇が広がりつつあった。
取兼はのんびりと立ち上がり、窓際に近寄ると、
「文化棟、まだ人が残っているようです。明かりがついている」
見下ろし、そう言う。「鷲巣さんもまだ残っているのではありませんか」
「一応、見に行ってみます」
答えた延寿の視界に、光が広がる。取兼が電灯を点けたのだ。
「それなら、今日はここまでと致します」
講義は終わりとなり、机の上の教本類を、取兼が片付け始める。延寿が手伝おうとすると、「大丈夫ですよ」とやんわり断られた。そして一冊一冊を丁寧に元の場所へ戻す取兼を何とはなしに眺めていた延寿は、ふと、その一冊を見つけた。
それは、背表紙だけでもくたびれてボロボロだと分かる、一冊のノートだった。
「それも、先生のものですか」
気になり、なぜだか気になってしまい、延寿はボロボロのノートの所有者を問う。
「ああこれは……」
言いかけ、取兼が口をつぐんだ。一呼吸置き、続きを口にしようと「これは…………」し、数度、瞬きをした。その仕草はまるで、「これは、ですね。エンジュ……」
「このノートは…………遺書、です」
泣きそう、な。
「……さあさあっ。あんまり話していると遅くなりますから、もう行きましょう、延寿。私もついていきます。戸締りの為の鍵を持って」
チャリ、と恐らくはオカミス研究部の部室用なのだろう鍵を見せ、取兼がにこりと笑った。その笑みにはもう、先ほどの悲哀は微塵も見られなかった。誰の遺書か、とはとても、聞けそうにはなかった。
ただ、推測はできる
取兼の憧れた学問の師の……それは、敗北の証明なのだ。
文化棟への道中、
「延寿、今の生活は楽しいですか」
「……楽しいものだとは、思っていました」
「あ……すみません。無神経な質問でした」
「いいえ、いいんです。ガイドの出現以前までは、確かに俺は楽しんでいましたから……今、先生に尋ねられて、そう実感できました」
「早く、捕まればいいのですが」
「はい……」
「そして私たちの日々が、早く戻ってきてくれたら」
そんな他愛のない会話をし。
やがて文化棟へと二人は立ち入り。
オカミス研究部の部室前へとやってきて。
室内から電灯の明かりが漏れているのを見て。
扉を。
ガラリと。
開────き。
息を呑む音を、延寿は他人事のように実感した。
確かにそれは自らがした動作だったのに、そうは思えなかった。
それどころではなかったからだ。
(なんだあれは。あの赤いものは。あれ)
机の上に置いてあるモノが何であるのかをすぐには分からなかった。(は……もしかして)部室内の中央に寄せてある机の上に置いてあるソレが何なのかが、分からなかった。(いや、違う)腕がある。(違う)脚がある。(違う……!)胴体があり、(あれは彼女じゃない)頭部がある。(彼女であってはならない)顔(違う!!)人体を構成する部品が(……なんでだ)けれどもバラバラに(なんで彼女が)室内を、机を、真っ赤に染め上げて(どうしてあのバラバラ死体は花蓮の顔をしているんだ)
そうでなければいい、と延寿は思った。
あれがソレでなければいい、とソレの幼馴染である青年は思った。
俺の想像が、認識が……動揺と驚愕に常の鉄仮面をかぶれなくなった彼はそう考え、て。
当たっていないでくれていたのなら、と────獣は、眼前の全てをはっきりと理解した。
「────────ッッッ!!!!!!」
死を、認識する。
幼馴染の疑いようのない死にざまをその双眸に認める。
人の形を無理やりに外された彼女の冒涜された死姿のすぐ傍に彼女を見つける。発見する。アレか。と獣は思う。アレが(お前が)目を見開く。(お前がやったのか)
「ッ……!!」
歯を噛み締める。
彼女は笑みを浮かべている。平生の、この世に敵はいないという自信に溢れた笑みを。(お前が……!!)ただでさえの激憤は、逆鱗に触れられ更に燃え上がる。
そうして。
延寿由正という一人の正しきに倣う──獣は。
歯を剥き、輪郭を歪ませ、確と睨み────
「椿姫ぃィいイいいイイイイイイイイイ────────!!!」
憎悪のままに、吼えた。
吼え叫び、常の冷静さをかなぐり捨てて。
血に濡れて笑みを浮かべる花蓮を殺した殺すべき者へと、向かった。
殺す、以外に何もなく。
抑えようとも、考えず。
既遂の死体を眼前に据え、
未遂になりようのない殺意に押され、
怒り狂った獣は自身が最も嫌悪軽蔑忌避した姿を剥き出しにした。