帰路に就く
化学実験室を出て階段を降り、渡り廊下を往く。
第一校舎棟の昇降口へ着くと、下履きへと履き替え、第一校舎の外へ出て傘を差した。今まで使用していた黒い蝙蝠傘はつい先日に伊織へ貸したため、購入したばかりの白いビニール傘である。
鬱々とした空のもと、延寿が一人で校門を通り過ぎようとした折。
校門の傍に緑色の傘を差した人物が佇んでいるのを発見した。愁いを帯びた横顔だった。ゆるふわと形容できそうな肩ほどの髪──校則をギリ超えない程には暗めの茶髪──をボブにしており、真ん丸の目から注がれる視線は空を見上げている。垂れ下がるスカーフは鮮やかな赤色、二年生のカラー。延寿と同級であることを証明する色。
延寿の視線に気づいたのか、その人物は空を見上げていた視線を延寿の方へと向ける。
そして──
「もー!」
急に怒り始めた。
「よっちんたらおっそいよ! あたし、五十年は待ったよ!」
柳のように細い眉を可愛らしく顰めて、ぷんぷんという音を出していそうなほどには恐ろしい剣幕で延寿との距離を詰めてくる。灰色の景色の中、目に鮮やかな緑色が攻めてくる。
「帰ってなかったのか」
「帰ってなかった! 待ってた!」
「待つ意味がないだろう」
「行動の全てに意味を求めるのは野暮!」
「一人で待つのは危険だ」
「結果的に一人になっちゃったの! 帰ろうとしたら司書さんに呼び出しくらって待たせるのもなーってところだからみーちゃんとあさみんに先に帰ってもらって、いざ用事が終わってさー帰ろう! ってなったときにあれ、あたし一人じゃん!? ってなったの。そんで靴箱みたらよっちんの靴まだあったからいっしょに帰ろうと思って校門のとこで待ち構えてたらまー来ない。雨降ってるし寒いし次々と人が通りすぎてって恥ずかしーしでよっちんのヤローめと恨みながら待ってたらようやく来たんだよあなたが! このヤロー! よくもあたしを待たせてくれたな!」
「校舎内で待っていれば良かっただろう」
延寿の言葉に、延寿をよっちんと呼ぶ少女はハッとなった。その考えには思い至らなかった、という表情で、得心した風に顎に手を当て、
「……確かに」
そう言った。
「いやでも、雨の中校門で傘差して待ちぼうけてるのって風情がない?」
「よく分からない。寒ければ寒くないところに居た方が良い」
「はーあ。よっちんはよっちんだなあ……もう少し趣を理解したほうがいいぞよ? 現役図書委員からのアドヴァイスだよ」
言うと、少女は肩に提げていた鞄の中からスマートフォンを取り出し「お、みーちゃんとあさみんからメッセきてた。そういえば愚痴ってたんだった。よっちんいつまで待っても来やしねえぞおって」そう呟いた。「よっちんやっときたよー、っとぉ」
微笑みながらスマートフォンの画面をタップして文字を送信し、幸せそうに笑う何かのキャラクターのスタンプを連発する少女を、冷ややかに延寿は見つめていた。
「花蓮。これは現役風紀委員からの通告となる」
「あ、やべ。そういやあたしの目の前にいるのよっちんじゃん。ウカツ!」
「或吾高校の校則では、携帯電話の持ち込みは禁止だと謳われている」
「……厳密にはスマートフォンだよ?」
「鷲巣花蓮。もしも持ち込んだ場合は没収の後、反省文の提出が必要となる」
「も、もう校門は過ぎちゃってるし? この場所は或吾高校とは何ら関係ない一般道ですと思います……あ、過ぎてないや」
延寿が門を通り抜ける前に花蓮の方から近寄って行ったため、二人組は未だ校門よりも内側に、学校の敷地内にいた。
「…………見逃して? 幼馴染のよしみってとこで」
「一人を見逃してしまえば他の人間に示しがつかない」
「み、みんな持ってきてるし。先生方も授業中とかでなければ特にうるさく言わないしっ」
「校則は校則だ。ルールならば守るべきだろう?」
「だ、第一さ、今のこのご時世に携帯電話の持ち込みすらダメだなんて古すぎでしょっ。何かあったらどうすんの、地震だって火事だって、最近ではガイドもいるんだしさっ」
「規則だ」
「よっちんの分からずや! 石頭! すとーんへっど! チクり魔!」
いーっと花蓮は歯を剥くと、奪われないようスマートフォンをポケットへと突っ込み、延寿へと勝ち誇ったような笑みを向ける。
「へへん。ねーよっちん? これで没収できないでしょ? とろうとしたらセクハラだよー?」
「……規則だ」
「え、うそ? ほんとにとろうとしてる? あたしのポッケだよ? JKのポケットなんだよ? スカートだから太もも近くになるんだよ? いけない場所だと思わない? よっちんにはまだちょっと早い場所だとあたし思うんだけど?」
「だが、規則だ」
「うへあ。マジの目だ……」
マジの眼差しを向けてくる延寿へ、花蓮は後じさりし踵を返し──「あたしよっちんのこと基本好きだけど、そーいうとこどーかなーって常々思っている次第!」捨て台詞を吐き、逃走を試みた。
「待て花蓮! 前!」
「へぶぁっ」「きゃっ」
延寿の叫びと、小さな悲鳴と、花蓮の「へぶぁっ」は殆ど同時だった。緑の傘と真っ赤な傘が宙を舞った。
花蓮がへぶぁっした相手である少女はふらふらと尻もちをつき、へぶぁった当人である花蓮もまた尻もちをついた。ぶつかったのだ。
「涯渡生徒会長、大丈夫ですか」
すぐさま延寿は自らが持っていたビニール傘をその場へ置き、緑の傘と赤い傘を拾い上げ、幼馴染が弾き飛ばした涯渡紗夜のもとへと駆け寄り膝を折り赤色の傘を手渡した。「花蓮も平気か」幼馴染へも心配の言葉を欠かさずかけ、緑の傘を渡す。
「ううん。大丈夫。大丈夫だよ」
片手を挙げ、涯渡は延寿へ照れくさそうに微笑みかけた。彼女の左眼、延寿から向かって右眼元にある泣きぼくろがあどけなく映った。花蓮は結構な勢いを出していたのだろう、ぶつかられた拍子に涯渡の髪は乱れ、雨に打たれて肌にはり付いていた。「ごめんね、鷲巣さん。少しボーっとしていて、前を見ていなかったの」
ぺたりと雨に濡れたアスファルトの上に尻もちをついたまま律儀に頭を下げる涯渡へ、花蓮は慌てた様子で、
「い、いえいえ、あたしが前もろくに見ないで走り出したのがいけなかったんです。すみません涯渡先輩! 生徒会長を転ばせてしまった罪、どんな詫びでもいたします!」
平伏する勢いで頭を下げた。
涯渡は困ったように眉を下げ、「そんなに畏まらないでよ。私偉くないよ」と笑う。「立ち上がろ? 地面濡れてるし」そのように鷲巣を促し、自身も立ち上がった。
「すみません、生徒会長。原因の片棒は俺にあります」
謝罪の言葉と共に頭を下げる延寿へ、「いいんだってば。延寿くんは相変わらずかったいなー」笑いながら涯渡がぺちと肩を優しく叩いた。「ほんとですよ。よっちんはもう少しそのかったい頭を柔軟剤でも使ってソフトでマイルドにしなよ、うらっ」便乗した花蓮が延寿の肩を気持ち強めに叩いた。
「それにほら、雨に打たれてるよ。もう少しこっちに寄らなきゃ」
自身の赤い傘へ招き入れようとする涯渡へ、延寿は「傘取ってきます」と離れ、ビニール傘を拾い上げた。その姿を涯渡は寂しそうに見つめていた。
戻って来た延寿へ、花蓮が言う。
「そもそもがだよ、よっちんがあたしに襲いかかろうとしなければあたしが涯渡先輩にぶつからなくても済んだんだっ。あたしも先輩もパン……服を濡らさなかったっ」
「校内でスマホをいじらなければ良い話だ」
「よっちんに寛容さがあれば済んだ話じゃん」
「規則は規則だ」
「そればっかり」
はあ、と花蓮は嘆息し、大袈裟に肩をすくめた。
「鷲巣さん、携帯を持ち込んでいたんだ」
ふふ、と悪戯っぽく目を細めた涯渡へ、花蓮は「やば」と小声でこぼすと、
「……すみません」
小さく萎んだ声でそう言い、延寿のときよりも格段な素直さで反省の様子を見せた。生徒会長相手では分が悪すぎると観念したのか、ポケットに手を入れるとスマートフォンを取り出し、「か、返してはくださいね?」と恐る恐る涯渡へ差し出した。
「んー……」
すると涯渡は差し出されたスマートフォンへそっと片手を置き、そのまま花蓮の方へと優しく押し戻した。「今回は良いんじゃないかな」
「生徒会長」
延寿が口を開き抗議を述べようとする、前に。
涯渡がそっと、そんな延寿の口元に人差し指を当て、
「延寿くん。今から内緒の話をするね」
薄く微笑んだ。「それ、あたしも聞いて良い内緒話なんですか?」花蓮が問う。「鷲巣さんも聞いて良い内緒話だよ」涯渡が微笑みを返す。
「スマートフォン……携帯電話の持ち込みに関しては、近いうちに変えたいなと考えているんだ。ほら、緊急時に有用だし、『案内人』もいるから、誰かとすぐに連絡がとれるツールは必要でしょ? もちろん、授業中の使用は厳禁、だよ」
「生徒会長……!」
花蓮が感動したように、「一生ついていきます!」そんな調子のいい宣言。
「使うなと言っても授業中に使用する人間は出てきます。今まで持ち込み禁止だったのにそれでも授業中に扱う人間はいました。それがこれから更に増える」
「そのときは先生たちが没収、というだけ。授業の合間の休み時間や昼休みにきみたち風紀委員が目を光らせておかなくても良くなる。良かったね延寿くん、きみの負担が減るよ」
「負担に思ったことはありません。規則を守らない人間へ当然のことを言っているだけです」
「ふふ。そうなんだ。頼もしいね。私たち生徒会もきみたち風紀委員を頼りにしてるんだよ。汚れ役をさせてしまって申し訳なくも思っているけど」
眉尻を微かに下げ、涯渡はそう言った。
「あ。あとね、このことは椿姫も知ってるから。きみの直属の上司である彼女は賛成してる。延寿くん、きみはどうかな?」
「……規則に従うだけです」
延寿の返事に涯渡は微笑を浮かべると、「私、これから塾に行かないといけないから。あっという間に受験生になっちゃったし。じゃあね、二人とも──あんまり遅くまで出歩いてはいけないよ? 『案内人』もいるし、わぁるいおクスリの売人にだって会っちゃうかもだから」
延寿と花蓮が忠告に頷いたのを見ると、涯渡はうんうんと満足そうに頷き、ぴんと背筋を伸ばした綺麗な姿勢で軽やかに去って行った。
「……下着が濡れたままで塾に行くのかな、先輩」
去りゆく涯渡の赤い傘を眺めつつ、花蓮がひとり呟く。
「知らん」
そっけない答えを返すと、延寿はさっさと歩き出した。目的はひとつ。帰宅である。言われずともふらふらと遊び歩くつもりは全くなかった。
「あ、待ってよ」
緑の傘がすぐに隣へ並び、そのまま帰路へと二人は就いた。