オ遊ビ
鷲巣花蓮が文化棟の二階にあるオカミス研究部の部室に「失礼します」と足を踏み入れた時、室内にいるのは獅子舘椿姫ただ一人だった。
部員である延寿由正は取兼の手伝いで化学準備室へと向かい。
もう一人の黒郷亜沙美は部活がないからと既に帰宅しているか図書室にいることだろう。
「放課後に付き合わせてしまって悪いね」
夕暮れに室内は染まっていた。
椿姫は教室の真ん中に寄せてある机の一つににこやかに座っている。
机の上、である。椅子ではなく。花蓮の記憶するところでは、そこは以前に安寺冬真のラブレターの件で訪れたときに延寿が座っていた机だ。延寿の座る机の上に、椿姫がそれなりに重量感のあるお尻を乗せていた。行儀わる、と花蓮は思った。
「おっと、行儀の悪いところをお見せした。すまないね、少し考え事をしていて、尻を置く場所が欲しかったから」
そう言うと、椿姫は延寿の机から尻を下ろした。
そして花蓮のためにと延寿のものとは違う机の椅子を引き、「座ってくれ」と促した。「分かりました」と花蓮は答え、「でもすみません、なんか気分的にこっちがいいんです」と椿姫の引いた椅子を元に戻し、代わりに延寿の椅子を引いてその上に座った。椿姫は苦笑を浮かべていた。椿姫本人は何処にも座らず、立ったままだ。
「ところで……明日、でいいかな」
「だと助かります」
椿姫が提案し、花蓮が首肯する。
「月の塔のあの辺りの適当な店で、適当に見て回ろう」
「その適当って、ちょうど良いってニュアンスの方の適当ですよね?」
「もちろんだ。どうでも良い、ではない方の適当だよ」
明日、花蓮は椿姫と遊びに出かける。初めてのことだ。
そもそも今回出掛けるのも、椿姫側からの案である。
「改めて言うが……安寺冬真と桐江汐音は残念だったな」
立て続けに周囲で人が殺され、死んでいる。
延寿も花蓮も精神的に疲弊しているので何か気晴らしになれるようなことをしたい、という旨のメッセージを椿姫は花蓮に送り、悩んだのちに花蓮は『それなら買い物に行きたいです。先輩と二人で』と返した。二人で買い物に行き、気晴らしをし、何か延寿に、確かに傷つき疲れている彼へ何か手土産でも渡すか、との流れとなった。
椿姫と二人で会話する時間が、花蓮には欲しかった。
延寿との付き合いは花蓮の方が長いが、ある一時期は毎日、その彼は椿姫と共に帰り、彼女の家で鍛えられたような話も聞いた。そしてそれをあまり良く思っていない自分もいた。
椿姫が延寿を憎からず思っていることなど瞭然なのだ。
そしてそれは椿姫から見た花蓮も同様なのだろうことも。
「あと────小比井美衣がガイドに殺されたのも」
安寺冬真と桐江汐音が死亡したその同日に、
小比井美衣もまた、明確な事実として『案内人』に殺されている。
夜の街をなぜか出歩いていた彼女は不運にも『案内人』の餌食となったのだ。街の中で人が理不尽に殺されるというその一点だけの理由で、下手人は『案内人』だと確定した。だから花蓮はいっぺんに三人もの友人を失い、そこにぬいぐるみの斬りつけ事件である。憔悴した花蓮をさらに追い詰めるようなその所業に、延寿由正が激高するのも無理はなかった。ただどんなに怒ろうとも、原井和史を殺したのは延寿ではないと花蓮は信じている。あれは……あれもまたはっきりと、『案内人』の仕業なのだ。
「まだ、私の中では全然癒えていません」
「……そうだろうね」
「できればとーまや汐音ちゃん、みーちゃんの件に関してはそっとしておいてくれると助かります。今は、よっちんや私が元気になれることだけを考えたいんです」
花蓮は言うと、椿姫は「確かにな」と深く頷き、窓際にゆっくりと近づくと、外の景色へ目をやった。オカミス研究部の入っている部屋は、第二校舎棟側ではなく街の方を向いている。遠景にはところどころにビルが突き出ていた。椿姫はそわそわと窓のガラスに手を触れ、窓枠に指を添わせている。どこか、落ち着きがないように花蓮には見えた。
「さて、と。明日の打ち合わせは終わりだ」
椿姫は言い、「鷲巣花蓮、時間はあるか」そう言い足す。
「あ、ありますけど、いちおう……」
戸惑いながらも応じると、「それなら私の言葉を聞いていてほしい」と椿姫が微笑む。そもそもが顔立ちの整っている彼女の、清廉な笑みに花蓮はわずかに引け目を覚えた。上背があり、堂々とした意思もある……ともすれば思ってしまう、延寿由正には、少なからず私よりも獅子舘椿姫のほうがふさわしいのではないか、と。そんな引け目を感じ、自己嫌悪が生じる。
「私は小さなころ、獣に助けられたんだよ」
「獣に、ですか」
「ああ。獣だ。鍛鉄のような表情の下に、豺狼がごとき本性を隠した獣にね」
「サイロウ……?」
「残酷で欲深く、惨たらしきを平気で行う者のことさ。人面獣心の輩だよ」
比喩、なのは確かだ。
者と言ったのなら、それは人間だ。
椿姫は獣と例えられるような誰かに助けられた。
「なぜだか、その者は本性が獣であることをひた隠し、鋼鉄の仮面をかぶっている。まるでね、それはまるで……正しきに憧れた獣が、自らもそうであらんと努めて振舞おうとしているかのように、私には映るんだ」
正しき。
その言葉で、椿姫の比喩がいったい誰を指しているのかを、花蓮は察した。
「それは、自分ではない生き方だ。獣は、獣ではない生き方をしようとしている──それじゃあ、疲れてしまうとは思わないか?」
誰のことかは知っている。
疲れる生き方をしているその誰かを、花蓮も当然知っているのだ。
「なあ、その獣は──狂人だろうか?」
椿姫は問いかける。
「そんなことありません。普通の、ちょっと頭が固いだけの男の子です」
その問いを、彼の幼馴染である少女はきっぱりと否定する。その誰かは狂人などではない。決してない。ただ頭が固くて規則にうるさくて言葉がぶきっちょで態度もぶきっちょで生き方もぶきっちょなだけの……本当はとても優しいはずの男の子だ。
「私は、その獣と始めてまともに対面した時──妙なことを言うが、とてつもなくビンタしたくなった」
「び、ビンタを……?」
「した」
「したんですか!?」
「うん、した。抑えられなかったんだ。獣はきょとんとしていたが、特に怒らなかったよ。ブチ切れても仕方がないような私の所業を、なぜだか受け入れたんだ」
「どうして……」
「私も聞いたよ。どうして怒らないの? って。頭がおかしい女だな。いきなりビンタしておいて、なぜ怒らないの? とは。頭がおかしいよ、まったく、おかしいな……」
「なんて、答えたんですか」
「仕方ないと思った、だそうだ。なぜビンタされたのか分からない、だが、なぜだか仕方ないのだとも思った。だから怒りも湧かなかったらしい……まあ、どうでも良い話だよ。考えたところで、どうやっても答えが出せそうにない気がする出来事さ」
話が長くなってしまったな、と椿姫。
「早々に帰宅することだ。私はまだ用事がある」
「分かりました……それなら、帰ります」
「この頃はガイドに加えて模倣犯も出るらしい。知っているか? 殺人現場に、或吾の校章が入ったボタンを残していくそうだぞ。悪趣味で、いやらしい奴だな」
「そんなのがいるんですか」
「ああ。そんなのがいるようだ」
くくく、と椿姫は笑い、「ガイドだけでも大変なのになぁ、はた迷惑なヤツだことで」そう言う。
延寿の席から立ちあがり、花蓮は椿姫に背を向け、扉へと向かった。
椿姫は窓外へ視線をやっている。夕焼けでも眺めているのだろうか。
「そうだ、鷲巣花蓮。これを受け取ってくれないか」
ふと、扉の前で呼び止められた。
振り返ると椿姫が歩み寄ってきて、何かを持っているらしき手を差し出した。
「なんですか」
花蓮が訝しげに手を差し出し、手のひらを上に開くと、椿姫もまた手を開いた。
手のひらの中に落っこちてきたのは、金色の潰れたもの。
よくよく見つめると、『或吾』の二文字が微かに残っていた。
この何かの原因によって潰れたものは──或吾高校の校章の入ったボタン。
「これって」
なぜこれを? とまず考えた。
このボタンは? と次に考えた。
校章。校章の入ったボタン。目の前の椿姫。つい一分ほど前の椿姫の言葉。現場に残された。ボタン────模倣犯。
「獣に切っ掛けを与える為の、手土産が欲しいんだ──知ってる?」
椿姫が微笑んでいる。
「小比井美衣の」
笑んでいる。
「死体の傍にも」
さも愉しげに、
「これがあったってこと」
嗤っている。
すべてを理解した花蓮が身を翻そうとする前にはもう、
どん、という衝撃が花蓮の胸から全身へ走り抜けていた。
「理由が欲しいんだよ。あの男がなにもかもをかなぐり捨てるだけの、理由……」
笑みが零れる。血が零れる。
零れこぼれて止まらない紅く床上が染まりゆく。
気分が高揚する。自我が薄まるかのように、興奮による支配が広がる。
「喜ぶべきことだよ、鷲巣花蓮」
希釈する。
凡て、人の道に寄り添う善性が。
……いいや、とっくにしていたのだ。誰か(見当は既に付いている)の姿を睨みつけ、自我が急激に薄まっていく最中に、自身に宿っているべき善性もまた、膨大な生命の奔流に呑まれ、希釈された。
「お前はあの男にとってそれほどに明るい存在なんだ」
来世などという戯けていて、あるわけがない(誰かがそう言った、気がする)妄想があるのならば、そこでビンタしてくれても当然だと受け容れよう。
「あなたは何も悪くないが、その価値ある立ち位置がいけなかった」
怨め、呪え、憎悪するといい。
「狂った獣に陽だまりは贅沢だと、そうは思わないか」
誰かが誰かへ、そうしたように。
答える言葉を、憐れな少女はもう持たない。