落書きの有無
「誰か、怪しそうな人はいた?」
下履きへと履き替え、体育館の裏手へと向かう道中、紗夜がそう聞いてきた。
「……まだ、はっきりとは分かりません」
「じゃあ、薄ぼんやりとは分かっているんだ?」
答えると、そう問いを重ねられた。「その人は、誰?」紗夜の涼やかな笑みは崩れない。泣きぼくろの目立つ眼が細められている。瞳は延寿をじぃっと直視している。
「…………もう少し、判然としてから言います」
「なーんだ。つれないなー延寿くんはー」
つまらなそうに、拗ねた様に、紗夜は口を尖らせた。彼女にしては珍しい、子どもの仕草だった。「ま、分かったら言ってね。独断専行はだめだからね」静かに、紗夜が念を押す。
「分かっています」
二人はそうして、体育館裏へとたどり着いた。
「んー…………。んー…………?」
唸りながら、紗夜が体育館の外壁を眺めまわしている。
あたりに人気はない。学校の敷地外との境目には植え込みがあり、外界を臨むフェンスとの間には木々が植えられ、茂った緑の葉群が視界を遮っている。外からは見づらい箇所だ。どこかで道路工事でもしているのか、ガタガタガタガタという音が響いてくる。これでは、音が聞こえづらい。
「んぅー……………………?」
外壁を隅から隅まで何度も見て、紗夜が唸り続ける。
「……ありませんでしたね」
延寿はそう結論を出した。じじつ、見まわしても外壁の裏には何処にも、怪しい落書きの類は見当たらなかった。先日に原井和史が撒き散らした血痕ですら、綺麗に消え去っていた。
「んーーー……………………」
相槌なのか、ただ唸っているだけなのか。まだ紗夜は一生懸命落書きを探している。そう何度も見たとして落書きは見つかりようがない、と延寿は考えている。体育館裏の外壁上には確かに落書きが見当たらないのだ。どこにも。まず、間違いなく。それでもなぜ紗夜は探そうとしているのか延寿には理解できなかった。見続けて現われるような落書きは、延寿の知る限りでは存在しない。
落書きがないのなら、小比井美衣の聞いた話は事実ではないこととなる。
誰かに嘘を掴まされたのか。それとも────小比井美衣本人が、虚偽を吐いたのか。もしも後者ならば、その意図はなんだ。体育館裏へ、外界との視界が植え込みによって妨げられていて、工事現場の騒音で音が通りづらい場所へと促した……理由、は、なんだ。
「あれ。取兼先生」
ふと、紗夜が延寿たちがやってきた方向へ声をかける。延寿もそちらへ視線をやると、
「涯渡生徒会長と、延寿風紀委員、ですか」
取兼が佇んでいた。いつもの銀縁で、いつもの白衣で、そこにいた。「二人でここで、なにを?」
「落書きがあったと、聞いたものですから」
延寿が答える。「先生は?」問いを投げ返す。
「わたしも生徒から落書きについて聞き、少し気になったものですから────ああ、それのことですね」
信じられない言葉を、今、耳にした。
取兼は人差し指を、それへと指している。その先を、延寿は見る。
「…………」
信じようがないものを、今、目にしている。
外壁の表面に、ちょうど延寿と同じ視線の高さに、アルファベットと数字がごちゃごちゃに羅列されている。真っ赤な文字だ。間違いなく、さっきまではなかった。
「いつの間に……」
と、紗夜。彼女も延寿と同様の疑問を抱いている。
二人だ。二人が探して見つからなかったものが、なぜ今、こうして在るのか。
「さっきまで、なかったよね……?」
紗夜がそっと、延寿へ言う。
「確かに、ありませんでした」
延寿が言う。
「どうしたのですか?」
事態が呑み込めていない様子で、取兼がそう言った。
「ついさっきまで延寿くんと私で落書きを探していたのですが、どこにも見当たりませんでした」
紗夜が事態を説明する。その表情には苦笑が滲んでいた。
「なのに、現われた……と」
取兼がさしたる驚きも見せず、落書きの近くへと寄る。
「シー、ゴ、エイチ、キュウ、エヌ、オー……」
落書きの文字を、取兼が読み上げる。文章としての体を成していない、ばらばらに不規則な文字の羅列を──『C5H9NO45301748C5H5N511732』
「どんな意味なんだろう」
紗夜が言う。彼女の興味は落書きの出現からその内容へと移っているようだった。
「好き勝手に文字を並べただけの、ただのお遊びみたいなものではないでしょうか」
落書きにそっと指先をなぞらせつつ、取兼。
「意味は、ない……?」
「さあ。書いた人の意図が分からない限りは……」
会話する二人の少し後ろで、延寿はやはり目の前のものが信じられなかった。内容などはさっぱりだ。〝出現した〟事実に関しては、さらに分からない。ないものがある。外部からの働きかけなしに、現われた。そんなことがあり得るのか。
「ところで、お二人はもう帰るのですか」
取兼は紗夜へ、次いでは延寿へと視線を向け、そう訊ねた。落書きへの興味はもう無くなっているように、その表情は教育者へと戻っていた。
「そうしようと思っています。落書きは確認できましたから」
紗夜が答える。「延寿くんも帰るでしょ?」訊ねる。延寿は無言で頷いた。
「早く帰るようにね」
それだけを言い、取兼は一人、戻って行った。戻っていく途中、その背中が少し立ち止まり、また歩き出した。
「けど、びっくりしたね」
紗夜が笑う。「まさか落書きが出てくるなんて。心霊現象とかかな。それともなにかトリックが……もしかして、延寿くん?」
「……俺にも分かりません」
落書きの出現、現実的ではない。オカルトに寄っている。心霊現象? 笑わせる。あれはフィクションに限った話だ。じゃあ、なんだというのか。なにが起きた、のか。
「まあ帰りながら考えようよ。二人でああだこうだと話しながら。ちょっと一人では帰りたくないかな……だって嫌でしょ? あの赤い落書きが、帰る私の隣にずっと現われ続けたりしたら。塀をさ、ずぅーっと落書きが並走してきたりとかしたら……ふふ、考えていて自分で怖くなってきちゃった」
言い、紗夜が歩き出す。「帰らないの?」少し歩き、ついてこない延寿を振り返り、そう聞いた。「……いえ」延寿は歩き出した。落書きの出現。その内容。小比井美衣の言葉はならば当たっていた? 彼女は嘘をついていなかった? ただ、落書きがあるという事実を述べただけなのか。「延寿くん」呼ばれる。見ると、目の前まで戻ってきていた紗夜に見上げられていた。
「あれも、ガイドの仕業だと思う?」
〝あれ〟とは、落書きのことだろう。
「かもしれません。確言はできませんが」
「ふふ、そっか。ガイドなら、できるかもね」
紗夜は笑うのみだった。
「生徒会長はどう思っていますか」
延寿が問うと、
「ぜんぜん。あの落書きがどうして現われたのか、どんな内容なのか、さっぱり分かんない」
ひょうひょうと、紗夜は答えた。
そのまま二人は歩いていく、途上で延寿は思考する。自身の脳裏にわだかまる懸念を解体し、並べていく。
(体育館裏。原井和史の殺された場所。落書きがあると聞いた場所)
(首をカッターナイフで切りつけられ死亡した殺人現場)
(凶器は工作用の、刃の大きなカッターナイフだ)
(もしも持ち歩いている者がいたら、持ち物検査で引っかかる。なぜそんなものを持ち歩いているのかと、必ず聞き咎められる)
(しかし、今朝の持ち物検査ではそのような事態は起きなかった……遅刻してきた者ならば検査に引っかからずに済む。つまりは現在も、刃物を所持できている)
(今日、遅刻してきた者……)
(持ち物検査をしていた朝に通っていない者の鞄は、調べられていない)
(誰かが、遅くやってきたと言っていた)
(今日の、どの会話だったか……花蓮と、それは……。危険物を持っていないという保証のない者は…………促した者は…………)
(二人は来なかった。憂慮はただ杞憂と終わり、二人はともに帰宅しただけなのか。それとも、まだどこかに……)
そして或吾高校の校門を抜けた──「延寿くん」ところで、ふと、紗夜が立ち止まる。
「鷲巣さんと小比井さんについては、いいの? 何か気になることがあったんでしょ」
その問いは、延寿の懸念を言い当てている。
元からそうするつもりだった延寿よりも数秒先に動いただけではあるのだが。
「……すみません。生徒会長」
「ううん」
お気になさらず、と紗夜は眼を細める。
「学校へ戻ります」
「どうぞ。不安があったら、確認してみるほうがきっといいよ」
失礼します、と延寿は踵を返す。
「じゃあ、またね」
帰る先を向いたまま紗夜は言った。
紗夜と別れ、延寿は向かう。
一目散に────体育館の裏側へ。