拗ネル幼馴染
朝から夕方にかけて、花蓮はずっと不機嫌だった。
授業中、休み時間、ふとしたときに延寿が視線を感じてその方を向くと、花蓮がこちらを向いていて、怒ったように眉をひそめてそっぽを向かれた。
「そこの『でかいの』、止まっちゃったからちょっとあの時計とり外して」
延寿を『よっちん』ではなく『でかいの』と呼び、黒板の上にかけられている時計を外すように要求し、両腕をあげて取り外そうとしている延寿の脇腹を不満そうにぱしんと軽く叩いた。延寿は微動だにしなかった。
「どうしたんだ」
「どうもしない」
理由を尋ねても、そんな素っ気ない答えが返ってくる。
「かけて」
時計の電池を入れ替えて花蓮は延寿へ渡し、かけようと両手を上げる延寿の脇腹をまた軽くはたいた。「なんだ」「なんでもない」
「私がこんなめんどくさい彼女みたいなことばっかりする理由分かる?」
自覚はあるのか、そう尋ねる花蓮へ、延寿が微笑すら伴わない硬質の表情で答える。
「体調悪いのか」
セクハラ、と叩かれた。そういう意図で言ったわけではなかった。
怒っているという主張はするがはっきりとした理由は言わず、完全な無関心というわけでもなくちょっとしたちょっかいをかけてくるという花蓮の行動の理由は、
「先週さ、椿姫先輩のところに遊びに行ったらしいじゃん?」
放課後、彼女自らの口から発された。
「ああ」
延寿が首肯すると、「なんか可愛い女の子もいっしょだったみたいじゃん? 両手に花だったらしいじゃん? 良い目を見たねえよっち……『でかいの』。おー?」
「誰から聞いた」
「先輩本人から。なんかマウントとられた気がして腹立つんですけど……」
メッセージでのやり取りなのか電話なのかは知らないが、花蓮は椿姫との個人的なやり取りをする仲なのかと延寿は今、初めて知った。
「まあいいや。それについての文句は今から言うし」
「今から?」
「うん。あたし、椿姫先輩と明日遊びにいくの。その打ち合わせ。よっちん達って今日部活ないんでしょ? もさみが言ってた」
「ないな」
「よっちんは今から何の用事もない人?」
「ない」
放課後に特にやることもないため、延寿は早々に帰宅するつもりでいた。
「さびしーひとだぁ」
花蓮が笑う。親愛に塗れたからかいである。「あたしといっしょに椿姫先輩と打ち合わせしに行く? ちなオカミスの部室でするみたいなんだけど」
「遠慮する。きみたちだけに関係することだ」
「俺には関係ないってー?」
「楽しんでくるといい」
延寿の語調は気持ち柔らかく、花蓮もまたそれと受け取ったため、
「うんっ」
もう、彼女は不機嫌ではなかった。
並び連れ立ち教室を出て、廊下を歩いていた二人は、
「うー…………!」
腕に鞄をひっかけ、顔が隠れるほどの大量の資料──各層の間にプリントの束が挟み込まれた分厚い本の山──を両手で持ち、ふらふらとした足取りで歩いている取兼を発見した。今にも転んで何もかもをぶちまけてしまいそうな不安を煽る姿である。
「取兼せんせー、だよね?」
顔が見えず、けれどもその特徴的な白衣から推定し、花蓮が言う。「そうだろうな」延寿は答え、取兼へと近づき、
「手伝いますよ先生」
「その声、延寿ですか」
「はい。手伝います。それを俺が」
そう言い、取兼の両手からそっと資料を貰い受けた。中々の重量である。
「すみません、助かります」
はあ、と息をつき、取兼は鞄を手に持った。
「あ、私も……」
そう言いかけて手伝おうとした花蓮を、「きみは用事を優先するべきだ」と延寿が言葉で遮った。言い方は断定的で突き放してはいるが、それは彼なりの心遣いの現われなのである。「そだね」花蓮はふふと笑い、不器用な物言いの心遣いを確かに受け取った。
「どこまで持って行くんです?」
「化学準備室までですね」
そうですか、と延寿は手に持っている資料へ目をやった。プリントアウトされた紙束にも本にも、いずれにも遺伝子やら、DNAなどの単語が見えた。資料を見つめる延寿を見つめていた取兼は、
「私の個人的な勉学の為の資料なんです。生徒だけではなく、先生も日々勉強しなければ化学の進歩に置いていかれてしまいますから」
苦笑し、延寿の抱く疑問に答える。
「せんせーって勉強家なんですね」
感心したような花蓮の言葉に、
「私が学んだこと、そのすべてをあなた方生徒に伝えたいですから」
銀縁眼鏡の奥の眼を細め、取兼は言う。「鷲巣さんもわたしといっしょに勉強しますか?」
「う。こ、今回はご遠慮しちゃおーっかなー、あはは……」
「ふふ。いつでもおっしゃってくださいね。私は化学の道を歩まんとする人すべての味方です」
これ以上ご一緒したら本当に勉強しなければならなくなると察した花蓮は、早々に「私お先に失礼します。またねよっちん」と二人から距離を置く。取兼は物腰柔らかく生徒からの人望もあるが、なにぶん固い人柄だった。分からなかったところを放課後に聞きに行った生徒が分かるまで拘束されるのは生徒の間では通例となっている。取兼先生に何かを教えてもらうときは時間に余裕があるときに限る、とは或女子生徒W・Kの言である。だからW・Kはさっさと退散した。結果的に成績は上がっているため、生徒の間からはこれといった不満も上がっていないのではあるが、なにぶん、時間がかかってしまうのだ。
花蓮と別れた延寿と取兼はそのまま化学準備室まで資料を運び入れ、
「延寿はこれから帰宅ですか?」
「はい」
「帰って勉強の予習復習を?」
「そのつもりです」
「一人で?」
「はい」
「化学を?」
「それもします」
「なるほど……私は思います、延寿」
「なんですか」
「私の担当科目は化学です。化学という学問に関しては、今のあなたよりもずっと先にいます」
「はい」
「一人で勉強するよりも、ここで私が教えながらの方が効率が良く思いませんか?」
「他の科目もしたいので」「延寿」「……なんですか」
「言ってしまえば私は化学以外も教えられます」
「すべての科目が今手元に揃っているわけでもありませんから」「延寿」「……はい」
「今日費やせる勉強時間は、数時間ほどでしょう?」
「そうですね」
「その限られた時間を全科目で事細かに分けるつもりですか? まんべんなくも大事ですが、かが……一科目だけを重点的にするというのもありなのでは? それにです、ほら、学問というのは横のつながりもあります。化学を重点的に学ぶことで、却って他の科目の理解がスムーズに進んだりもありますよ」
「…………そうですね」
「あなたよりも幾らか化学に費やした時間の長い私の頭と知識と、あと飲み物もお菓子もあります。私は今からの時間フリーですからとことんまで付き合えます」
化学準備室に置かれた小さな冷蔵庫から飲み物とお茶菓子を取り出し、設置されたテーブルの上に並べながらの言葉である。彼女の中ではもうここでの勉強は既定路線であるようだった。
「先生」
「……やっぱり、帰りたいですか?」
「いえ……お願いします」
「はい、お願いされました。頑張りますからねっ」
喜色満面の笑みで、取兼が自らに気合を入れ、延寿はそこでしばらく捕まることとなった。
取兼のいつもの、さも自分が学び辿り追究した全てを延寿に託そうとするかのような勢いで行われる、長い長い講義の餌食となった。
夏を前にした一日は長いけれど、確かに太陽は西の空に落ちつつあった。菫色の夕闇が密やかに、しかし着実に、近寄ってきている。




