白くて灰色な休日
長い日々ではなかった。
いや、尺の長短は確かな影響を与えるのだろうが、全てではない。生じる出来事が濃度を与え、喜怒哀楽に振れた感情の動揺が解像度をあげさせる。多ければ多いほど、強く記憶に刻まれていく。将来における己というものが、懐かしさに頬を緩ませる因となる。
ただ、────逆も、然り。
「生まれた場所は勝手に決められたんだから」
過去が。過去が。過去が。
「死ぬところぐらいは、自分で選びたいなあ」
どうしても。どうしようもなく。蘇り。俺を、責め苛む。
「……重いこと言った」──こんなことがあって良いのか。こんな終わ「りしてゴメンネ。ヨ」────認められるか。俺は絶対に認めら「シ」────────ヂッ。「マ」小鳥が鳴いている────────────────「サ」上機嫌なときに、よく聞いた声だ────────────────────────────────この惨状の中に、この子が喜ぶなにかがあるとでもいうのか?
「……きみの仇を、もう俺はとってしまったんだよ」血の海。打撲痕。剥かれた裸体。「ならこれから…………、フッ……!」留めていない原型を一瞥し、「ハハハ……ッ!」笑っているのかどうかも、分からない。両目を剥き、口は確かに笑みを形作っているのに。
「これからの俺はいったいどうすれば、いいんだろうなあ……ッ!」
すると。
ヂ! と、小鳥がひときわ強く、鳴いた。
あなたの望みに答えます、と強く胸を張っているかのように。
「お待たせしました、エンジュ」
「……済んだのか」
「あと少しです。あと少しで完成いたします。今までのサンプルのご提供、実験へのご協力、ありがとうございます」
「完成してから聞く。どれだ」
「そう急かずとも、ものは消えません……エンジュ、あなたの望む可能性は遠からず結実します──これです」
紛うことなく。
「なん、で、延寿、さ」
疑いようがなく。
「嘘、だろ、お前」
間違えようがなく。
「怨むぞ。呪ってやる。永遠に怨み続ける。死後も途切れず、呪って、やる」
俺は人殺しだ。
「わたし、知ってたよ。知ってた。知ってたんだ……アハハ、ずっと知ってたの。知ってて、黙っちゃってた。よ」人殺しを「し」止めたきみの行い「ま」は、だからこそ眩く、「さ」憧れすら覚えるほどに正しい。「が────」────────────────開けっ放しのカーテンから光が差している。
昨夜に訪れた意識の空白は圧縮されて束の間となった。一片の虚像も結ばれないまま朝が来ていた。恐らく、夢は見なかった。延寿はまず、そのように考えた。
天井の白を見つめていた視線を真横へとずらす、と。
いつもはいない自分以外の人間がそこにはいて、退屈そうにこちらを眺めている。
「死んだように寝るんだな」
微睡む思考に、ぽつんと一滴、言葉が落ちてくる。
瞬時にそれは溶けて脳裡に撹拌し、
「いお……」
灰色の瞳と、
「り………」
真っ白の髪を見、
「……………」
瞬間、延寿の心中に去来したのは。
「な、なんだよ固まってどうした?」
「……なんでも、ない」
×。
「なんでもないなら、別にいいんだけど……」
なにが、なのかは分からない。
だというのに、違う、と断定した。理路整然とは真逆を行く、あまりに直感的な瞬発さでもって脳内で喚き散らす──誤答、罰点、不正解、と。
「なあ、冷蔵庫の中のって食べていい? お腹へった」
「ああ」
正しい形ではない。
何かが、決定的に、正しい姿ではない。
「よっし。それならいただきまーす」
土曜、日曜、と延寿は休日を過ごした。
そこには伊織も共にいた。特筆すべき何事も起きはしなかった。
ただ、一人暮らしの人間の下へ野良猫のように転がり込んだ一人の人間がいて、
「なあ。なんか買ってこよーよ」
「そうだな」
適当に買い物に出かけ、
「しっかし部屋の中、清潔なもんだな」
「必要なものしか置いていないんだ」
適当に喋り、
「風呂沸かしていい?」
「構わない」
「僕、先に入るぞ?」
「ああ」
適当に風呂を沸かし、
「あーしまった! なあ、タオル取ってきてほしいんだけど」
適当にバスタオルを忘れ、「浴室の前に置いてて」
「ほら」
「ありがと」
適当に礼を述べ、
「なあ、お前って好きな人とかいたことあるの?」
「好ましく思う人間なら多くいる」
「違うちがう。もっと特別な枠組みに入るような相手だよ」
「……それは、どんなだ」
「どんなって……もっとさ、あー、なんといえばいいかな。他人って、基本どーだっていいじゃん? そのどうでもいい状態から、いっしょにいる内にどうでもよくない状態へと変わってしまった相手のことだよ。もちろんいい方向で、どうでもよくなくなった相手のことっ。伝わったでしょーかえんじゅくん?」
「ああ」
「なんだよその釈然としない眼は。もっと上手い言い方があるんじゃないかって顔は」
「その意図はないよ……過ごした時間が、好意に特定の相手へ対する指向性を与えるということだろう。視界の中で、自然とその輪郭が強調されてくるような状態だ」
「わざわざ難しく言い換えるなよ」
適当に就寝前の会話をし、延寿は紙上の文章に向けていた視線を伊織へと向け、その灰色の双眸を真っ向から見つめ、
「相手へ恋慕の情を抱くからこそ、その状態になる」
そう。
延寿は自らの言葉としてそう発し、伊織に聞かせた。
「……ぉ、おぅ。そういうことだょ」
言われた伊織は戸惑いを見せ、「言っただろ。僕は見られるのが嫌いなんだって……言っただろ」そっぽを向き、
「……すまない」
やはり、と。
延寿は、自身に納得し、その納得に不可解を抱いていた。理由の分からない、どこから生じたのかも知れない────謬錯。何かが、正しい形を、していない。
「……なに見てんだよ」
不機嫌そうな伊織に、そう睨まれた。
どうやらまた、いつの間にやら伊織の姿を視界に入れていたようだ。真っ白の髪は室内だからか外界に遠慮なく晒し、灰色の瞳は機嫌の悪さを表明している。
(気のせいだ)
そう、延寿は思う。思い込む。
あのとき、あのWWDWを投与された時に見た、巌義麻梨の顔面の変貌──きっとそれも、この〝気のせい〟に関係している。あの場であんな言葉をかけられ、変貌後の姿を目にしてしまったからこその、この関心だ。
「僕、寝る」
そうでなければあまりに────心境が、噛み合わない。
眼で捉えて脳が正常だと認識している像を、同時にまた、正しい形ではないと異常を吐いている。「おやすみ」
延寿は独り言のように出ていく伊織の背中へ言い、一度、眼をつむった。何ひとつ間違ってはいない筈なのに、何かが、違う。その何かが判然としない。
(……)
答えの得られそうにない思索を、延寿はそして無理やりに放棄した。
(俺を揺さぶっている感情は……俺を惑わせているこの衝動は……)
決して────正しい形では、ないのだ。