えんこーやろー
通らなければならない繁華街を、通っても良い服装で通り抜けているそのときに、急に延寿は立ち止まった。「はぶ」あまりにも急だったものだから、延寿に隠れるように歩いていた伊織は止まり切れず延寿の身体にぶつかることとなり、無言で延寿の背中を睨みつけて軽く叩いた。
「どうしたんだよ、いきなり立ち止まったりなんか……」
文句を言いつつ、伊織は延寿の視線の先を辿り、
「うわー…………なんというか、年の差カップルがいるね」
呆れたように言う。
時間帯は既に夜だ。昼間は閑散としている通りは、これより煌びやかさを増し、人群れは増えていく。そんな過渡期の雑踏の中に、延寿は見つけたのだ。
まるで何の変哲もないビジネスマンだと自らを主張したいかのように見慣れない灰色のスーツ一式を身に着けているその人物と、普段の寝ぐせやらはしっかりと直され、髪は巻かれ化粧をし、ハンドバッグを持った、別人のような、しかし微かに面影のあるその人物が並び立っている姿を。
「寺戸昌夫と……小比井、美衣か」
小さく呟く。視線はその者たちへと向いている。
寺戸昌夫の方はすぐに分かった。ただ、小比井美衣の確証がない。化粧をしていつもの猫みたいな寝ぐせもなく髪形を変えているために、確信できない。
「知り合い?」
「ああ……知り合いに、限りなく似ている」
「んー……女の方、若いな。僕たちと同年代ぐらいのこど……ガキが、精いっぱい大人びようとして化粧して、身だしなみを整えているように見える。男の方もスーツなんて着ちゃってさ、髪も固めて……なんだありゃ、笑える。ぼくたち誠実なお付き合いをしてるんです、って主張が見え透いてるよ」
「分かるのか?」
「うん。なんとなーくさ、分かるようになってくるんだよ。年齢の離れていそうな男女の二人組の間にぎこちなさというか、微妙な空気が漂っているようなのってけっこう見かけたりするし。そのままどっか飲食店に入ったりさ、気が早いのは直行してたりとか、ホテルに」
蔑むように言うと、伊織はかぶっていた野球帽の庇を少し持ち上げ、「えんこーだよ、あれ」と延寿へ笑いかけた。楽しそうな様子である。「尾けてみるか?」提案する。
「……いや、その必要はない」
「え、おいっ……」
言うや否やずんずんと歩き始める延寿の後姿を、伊織は茫然と見送るしかなかった。突っ込むだなんて、馬鹿かあいつは……という心境で。
何かを会話していたらしい寺戸もまた、近づいてくる延寿を見つけたようで。
その表情にはまず驚愕が浮かび、怒りがこみ上げ、次いで恐怖が滲み、やがて眉間に深々と皺が寄った。連れの女性も延寿を見つけ、寺戸の影になるように後ろへと隠れた。その所作こそ、後ろめたさの何よりの証明だと延寿には映った。
「風紀委員の延寿じゃないか。どうしたんだこんなところで」
何食わぬ顔で、寺戸は言う。
「ひとつお尋ねしたいことがあります」
すると寺戸の表情が不愉快に歪み、
「おい、延寿よお。まずは挨拶だろ? 街中で教師に会ったからって挨拶しなくても良い道理はねえぞ?」
「その人は、或吾の在学生ではありませんか」
本題を、いきなり切り込む。
寺戸の顔に言葉をものの見事に無視された怒りと、真っ向から疑惑を向けられた戸惑いが交互に立ち現れる。
「は? な、お前、何を言ってるんだ」
動揺。
「こんばんは、だ。小比井美衣」
断定できてはいないものの、さも分かり切っているという態度でもって延寿は挨拶を行う。返事は当然のようにない。女性は寺戸の影に隠れ、怯えているようにも見える。
「援助交際、ですか」
寺戸へ向き直り、延寿は詰める。「それとも、彼女があなたの妻だとでもおっしゃられるのか」
「お前には関係ねえだろ……!」
語調を強め、脅すように寺戸は言う。そこには敵意があり、悪意を醸そうという努力があった。まるで不安を覆い隠そうとしているかのように。
今の寺戸は、どうしようもなく不安だった。それは将来であり、夫婦生活であり、職であり、社会からの視線を受け止める体裁であり、世間の眼であり、そしてそれは、目の前の延寿の所為に違いない。ソレが引き起こしたに違いない。そう信じこもうとしていた。
脅しはもっとも延寿には通じず、寺戸本人もすぐにそれを理解したのか、言葉を変える。
「早く、家に戻りなさい。ガイドが出るというのになぜこんな時間まで出歩いているんだお前は。今は見逃してやるから。来週はお前ら風紀委員は抜き打ちの持ち物検査で早いんだろう」
来週の朝が早いことが今と何の関係があるのか。
いったい何を見逃すというのか。
どちらが見逃される側なのか。
延寿は真っすぐに寺戸を、突き刺さんが如くの視線でもって見貫き、
「未成年との淫行は罰則の対象となる。寺戸先生、そのような行いを差し控えられてはどうですか」
延寿の述べるは正論ただそれのみである。
けれども正論こそが、相手の逆鱗を突く最も手頃な槍となろう。
「うるっ、せえなお前はよお……! ガキがよぉぉ……!?」
目を見開き、額に血管を浮かせ、寺戸は延寿を睨みつける。なおそれでも周囲の視線を気にする余裕はあるのか、周りから視線をちらほら感じつつあるためか、傍らの女性へと「偶々会っただけなんだよ。な?」強要し、「ちょっと世間話しただけだ、すまんね、付き合わせて。もうお帰り」と帰らせて、「……!」延寿を睨みつけ、自身もどこかへ、女性とは真逆の方角へと肩を怒らせて立ち去っていった。
「……延寿、お前さ」
いつの間にか近寄ってきていた伊織が、心底呆れたようにその腕を掴み、振り向かせた。
「関わらなくても良い事に、あんまり首を突っ込むもんじゃないぞ。その正義感はまあ、良いことだと思うけどさ」
見返す延寿の瞳は、相変わらずの無機質の冷たさを湛えていた──「……正義ではないよ」かと、思うと、
「今のは、ただの……仕返しだ」
力なく、眼を細めた。笑った、のだろうか。
伊織は今日初めて延寿の笑みを見た。全くもって自虐的な、静かな笑みを。
「わ、笑うならもっと明るく笑えよ。やってやったぜはははって感じにさ」
「行こう……くだらない光景を見せた。すまない」
「お前、はっ……」
何かを言いかけ、伊織は憤懣やるかたないと目をつむり肩をがっくりと落とし、どうにか抑え込んだ。眼の前の男は、なぜこうも耐え難き苦痛に苛まれる聖人のような顔をするのか。それが苛立たしかった。
「さっさと僕を案内しろ」
「ああ」
「といっても異世界にじゃないぞ。僕はそんなものに興味がない」
冗談を投げかけると、「ああ」と単調な返事が再び返ってきた。背中叩いてやろうかと伊織は思った。叩いた。
「……どうした」
背中を叩かれ振り向いた延寿へ「なんでもないよ」ときつめに言うと、彼はまた前を向き歩き出す。そして今度こそ二人は延寿の衣食住の中心地となるマンションへと辿り着いた。
部屋の中、何事も起きるわけがなく。
「きみは客人だ。俺のベッドで寝るといい。俺はそこのソファーで寝る」
「やだよ。お前のにおいしみてそうだし。タオルケットかなにかない? こっちのソファの方が寝心地よさそう」
「そうか。無理にとは言わないが……」
というわけで、伊織はリビングのソファーで眠り。
延寿はいつものごとく、寝室のベッドの上で眠った。
何事も起きなかった。
延寿が意識すらせず、伊織が表面的にもそう願ったように。