椿姫の家
目の前に広がる家屋を前に、
「着いた、のか……」
信じられないといった表情でこぼす伊織へ、
「着いたぞ」
そう、椿姫。延寿はわけ知ったもので、黙って入口の門を見上げている。『月ヶ峰剣道場 獅子心館』と彫られた欅製の看板がかかっていた。獅子舘からの獅子館だそうで、師範であり代表者でもある獅子舘春臣──椿姫の父の道場となる。月ヶ峰市、ひいては市の周辺一帯においても指折りの名を持つ道場であるらしく、月ヶ峰の警察から剣道の指導の為に招待を受けることも多いという。
家の敷地内に道場があるものだから、なにぶん広かった。
三人の前に聳えているのは、まず門である。屋根付きの門だ。左右には塀がずっと伸びていて、敷地内全体を囲んでいる。門から先には石畳が伸びており、そのまま母屋と思われる建物の玄関へと続いていた。視界の片側にはもう一つ、体育館をその外観のままぎゅっと圧縮したような建物が見える。剣道場だ。
「馬鹿みたいに広いな」
周りの一般住宅と比べても敷地も家屋の大きさも段違いで、三百坪はゆうに超え、四百に迫ろうかというほどだった。
獅子舘邸は口木区画の奥深くに、まるでラスボスのように居を構えている。おまけに剣道場を開いていて、主は有段者(七段)で、八段に足りないのはただ年数(獅子舘春臣四十五歳)だけだという噂で、警察ともよろしくやっているという話である。口木区画は或吾に比べて明確にガラが悪いのが多いことは月ヶ峰市民の通説となっているが、それでも平穏無事を保てているのはひとえにそのおかげとも言えよう。強き者は自然避けられるのである、その強さを予測できないほどに無知な一部の者を除いては、という実例もありはするのだが。
「剣道教室も兼ねているからな。だだっぴろいんだ」
苦笑を浮かべ、椿姫は言う。
「こっちだよ」
椿姫は二人の前に立って先導し、母屋の玄関へと石畳を辿る。
由緒正しき木造の家屋に、古めかしい引き戸を椿姫は開ける。三和土の上には靴やらサンダルやらが丁寧に並べられており、鉄みたいな顔をした延寿とおっかなびっくりの伊織が履物を倣い揃えて上がり框に足を乗せ、すでに上がっていた椿姫がスリッパを置いた。
「ちょっと待っててくれ」
そう言い置くと、椿姫廊下の奥へと消えた。
後に残された延寿を、落ち着かない様子の伊織は見上げ、
「お前……」
「ああ」
「前にも来たことあるのか、ここ」
「ある」
「そうか……」
そんな場つなぎの会話。
「お嬢様なんだな、あいつ。確かに口調が偉そうだったけどさ」
「……そうだな」
「あ、なんだ、延寿もあの言葉遣いが偉そうに聞こえるの? お前も大概偉そうな物言いだぞ。それともお嬢様の方への同意か?」
どっちなんだよ答えろよ、と促す伊織へ、
「彼女の目指す姿がそれだったのだろう」
「はあ?」
延寿の返答にピンとこず、伊織は何言ってんだこいつという表情を浮かべる。
「あ。あとさ、聞きそびれてたけど……平気なのか?」
「なにがだ」
「ほらっ……あのガンギマリ女の一件だよ。お前と僕ってあれから一度も会ってなかっただろ。あのワケ分からないクスリをお前は打たれたし、あの後結局救急車来なかったし、でもお前は平気だって言って帰るし……ど、どうだったんだよ?」
「なにも起きていないし、見ていないよ」
「幻覚とかもか?」
「幻覚とかもだ」
「そ、そうか……」
「……言っておけばよかったな。すまない、心配をかけた」
悄然、と見える延寿の語調に、「し、心配なんかしてるわけないだろ! あの後お前が妙な幻覚を見たりとかしてたら夢見が悪いなと思ってただけだ!」と伊織が必死に否定した。その必死さは、今の延寿の荒んだ心中にとって微かな微笑ましさを生じさせた。
「ああ!? お前いま笑っただろ僕のことを! そんなこと言っといてお前めっちゃ心配してたんだろとか思ったんだろどうせ!!」
伊織が目ざとく延寿の笑みを見つけ叫ぶ。
「人の家の中だ。静かにしたほうがいい」
普通に延寿になだめられてしまい、
「あ、うん……」
伊織は素直に黙った。
そして二呼吸ほどを置きやがて納得いかないと延寿を見上げ睨み、
「いや、お前のせいだろ今僕が叫ぶことになったのは……」
と小さく恨み言を吐く。延寿は両眼を閉じた。
「……ところで延寿。あのガンギマリ女の一件のあと、ガイドにはあったか」
まだ戻ってこない椿姫を待つ空白を埋める為の、その質問。
「俺はあっていない」
延寿の返答に、伊織は含みを見つけた。
「……会った誰かがいるのか?」
「友人が遭遇した」
「そ、そうか……それは……災難、だったな……」
言葉を選び、選び、伊織は言う。
その逡巡には思いやりがあり、伊織という人間の潔白があった。
「すまないね、待たせたかな」
そこで椿姫が戻ってきて、そう二人に言うや間髪入れず、
「風呂が沸いたぞ」
言う。
「は?」
伊織。延寿は鉄。
「先に入ってくださいますよう。きみたちは客人なのだからな」
恭しく椿姫は半身になり、「あちらです」と風呂場のあるほうへ手をやり、
「あ。あと、きみたちは同性だ。二人で入るに抵抗ないだろう?」
そう言い足した。
「い、いや……僕たちは着替えもないんだぞ」
「こちらで用意する」
「あんのかよ……」
「来客用のものがな。簡素なものとなるが、服もある。なに、下着と靴下だけ貸し出してお帰りくださいとはならないから安心することだ、沙花縞伊織」
「ぐ……」
「もしや下着と靴下だけで出歩くほうが好みか? 確かに夏と言えば夏だが、まだ肌寒いだろう」
「もううるさいっ。入るよ、入るっ。さっさと行くぞ延寿」
「お前の方から説明を頼む」と椿姫は延寿の肩を軽く叩いた。
「お前風呂も借りたことあるの?」
伊織に聞かれ、
「ある」
淡と、延寿は答えた。




