野良猫と野良猫みたいな子
「……なに見てんだよ」
威嚇するような瞳で見られ、椿姫が苦笑する。
一方の延寿はといえば、無言で──本人にその気はないのだろうが──圧を発し、前方の野良猫とその眼の前に膝をついている野良猫みたいな警戒模様の人間を見ていた。
伊織である。沙花縞伊織が二人の眼の前にいた。
口木区の一角にある薄汚れた外壁の雑居ビルと草臥れた外観の雑居ビルとの間にある細い道にいた。いつものパーカーで、いつものフードをかぶり、腹を見せている野良猫を撫でていた。
見つけたのは椿姫だ。誰かいるぞ、とビルの間を顎で指し、二人で近寄ったらいたのは伊織と野良猫だった、そういう次第である。無言でにっこにこの笑顔で猫をなでていた、そういうわけである。
「猫が好きなのか」
「うるさい」
ただの質問をしたつもりの延寿だったがうるさがられてしまった。
「良い笑顔だったよ」
椿姫としては初対面だ。ただ、今の延寿と伊織のやり取りにより二人は知己の間柄にあるのだと察知した。だからこその、冗談めかしたこの投げかけである。
「っ」
舌打ちが返ってきた。暗がりでも分かるほどに真っ白な顔がわずかに赤く染まっている。
灰色の瞳は薄暗がりに耀と光り、延寿とその傍に並び立つ椿姫をゆっくりと睨み、「見世物じゃない。さっさとどっか行け」しごく不満そうに退散を促す。「早くいけ」早々に。
「知り合いなんだな。それも、とても仲が良い知人だ」
小さく延寿に囁き、椿姫は「きみはロ高……口木高校の生徒かな」
「……そうだよ」
答えるまでに数秒の間があった。
「帰宅途中なのか?」
続く椿姫の問いに、伊織は「サボった」とだけ。
「なんとまあ。不良……少年、というわけか。ところで、少し癇に障るだろうことを尋ねるが……」
ずかずかと伊織へと近寄り、警戒する野良猫と野良猫みたいな一猫一者の視線を受け、
「きみは、男……だろう?」
「そうだよ。なんならここで脱いで見せてやろうか?」
下卑た言葉を、引きつった表情で伊織は吐く。
「すまないね、失礼な物言いをした。綺麗な顔立ちをしているが、どうも同性とは思えない雰囲気だったもので。確かめたかっただけだよ」
謝罪に頭を小さく下げ、椿姫は「おや」と眉を微かにあげた。
「服がところどころ汚れているようだな」
伊織のパーカーは、以前に延寿が見たときと同じものだ。その以前と同じ服の全体が、泥なのか何なのか分からない汚れがついており、手や顔にも黒い汚れが窺える。口にこそ出さないが、汗の臭いの混じった異臭もした。家に帰っているのかも、その姿では定かではない。
「……その同情するような視線を止めろ」
殺意すら込められているだろう睨みに、椿姫は「それは失礼」と一歩下がり、「由正」いつの間にか二人の傍にまで来ていた延寿を振り返り、
「この子を誘拐しよう」
そんなことを言ってのけた。
延寿の眉が動いた。『誘拐』という正しくない単語に反応したのは確かだった。
「はあ!?」
目の前で誘拐対象だと宣言された伊織の表情は当然驚愕の様相を呈し、
「僕を? お前らが?」
「きみ、今日の予定はあるのか?」
投げかけられた質問を質問という形で椿姫が打ち返す。
「質問を質問で」「ないようだな」「おまっ、待てよ! あるかもしれないだろ!」「では、あるのか?」「い、いや……」「よし。ない。行くぞ」
と言うと、延寿へ目配せをする。
「無理に、とは言わない」
延寿は伊織へそのように言うと、未だ事態を呑み込めずにいるその腕を軽めに掴む。
「お前……! この掴み方は『無理に』の腕だろ!」
反抗の視線とは裏腹に、睨む伊織の挙動に抵抗の意志はないようで、
「外せない用事があるなら言うことだ」
「だからって……」
「あるのか?」
「ないよ! お前ら二人して何度も同じこと聞くな!」
「じゃあ、行くのか」
「うるさい!」
この場合においての『うるさい』とはつまり、肯定の意思表示に他ならなかった。
「猫はどうする? きみがにこやかに撫でていたこの猫ちゃんは」
椿姫。
「飼い猫か? きみが笑顔を浮かべるほどに好んでいると思われるその猫は」
延寿。
「野良だ! お前ら二人してひとっこと多いんだよ! きみがきみがってうるさいな!」
ははは、と椿姫は笑い、一方の延寿は『?』だった。素で聞いたのだ。
「それなら行こう。きみに必要な答えを先に言うと、目的地は私の家だ」
「おっ……」
聞こうとした質問の答えを先に言われ、伊織は虚を突かれて一時停止し、「安心しろ。悪いようにはしない」そんな言葉を受け、
「心配も不安もしていないってのっ……」
強情に、伊織が吐き捨てる。
「あははっ、その言葉は私たちを信頼してくれていると受け取っていいのか」
「うるさい」
この場合における『うるさい』は、つまりは前述のとおりとなる。警戒こそしているが、今すぐ逃げ出さなければならない相手だとは思っていないのだ。
「あ……」
いざ歩き出そうとしたところで、何かを思い出したかのように伊織が立ち止まる。
「用事を思い出したか?」
椿姫が訊ねる。
「いや……あー……いや、やっぱり大丈夫だ。どうとでもなる」
「……そうか」
椿姫も延寿も特に追及はせず、そのまま歩き出した。今すぐ向かわねばならないほどの急用ならばそのように言い出し、すぐに伊織は踵を返すだろうと考えてのことだった。実際にそうなった場合、その邪魔をするつもりは延寿と椿姫の二人共に毛頭なかった。あくまで伊織の意思を尊重した上での、行い。目の前にいる灰眼白髪の不良少年、何日も帰宅しようと思わないほどには温かみのある我が家を持つ沙花縞伊織を、道すがらに弱った仔猫を拾って帰るような感覚で行われた、これは〝誘拐〟なのである。