共ニ帰ル
「じゃ、あたし図書館に用があるから」
「帰り道は大丈夫なのか」
「ん。帰りはお母さんが迎え来てくれるからへーきへーき。じゃね。獅子舘先輩も、失礼します」
ぺこりと頭を下げ、そして去りゆく彼女の、いつもよりずっと小さな後ろ姿が見えなくなって、
「いっしょに帰りませんか」
おもむろに、延寿は傍らの椿姫へとそう口にした。
「…………」
無言のうちに、椿姫に見つめられる。視線を彼女が去って行った方へ向けて、大丈夫なのか、と言葉を伴わずに問いかけてくる。お前はあの子についていてやらなくていいのか、と。
「彼女の親が迎えに来てくれるのなら、その方が安全ですから」
「……なら、こちらからもよろしくお願いするぞ」
緩慢な動作で、頷いた。いつもの威風堂々たる彼女に似つかわしくない、頼りなげな微笑を浮かべると、「ところで由正、少しお手洗いに行ってきてもいいかな」そう尋ね、
「どうぞ」
延寿が淡く返すと、椿姫は女子トイレへと向かい、少し経って戻ってきた。その間、延寿は下駄箱の前で銅像のように佇立し、帰宅しようとする他生徒に怪訝と警戒を交えた一瞥を受けた。
「待たせた」
そのまま下駄箱で下履きへと履き替え、二人はそうして夕陽の映える外界へと、行く手の帰路へと歩み出した。夕影は長く伸びてゆき、逆光を受けて黒々としたシルエットに変貌する様々が視界に広がっていた。
帰路、夕景に朱染まる街の合間を二人、過ぎていく人群れに何ら関心を抱くことなく機械的に足を動かし歩んでいた。
共に帰る、という行動の終了は椿姫の家の前に辿り着くことである。
椿姫の家は、或吾高校からの場合は繁華街を突っ切らなければならなかった。突っ切らなくても着くことはできるが、或吾区画と口木区画の境界線をなぞるように繁華街は続いているため、恐ろしく遠回りをする必要が生じる。
そのような遠回りというロスを取る気など椿姫にはさらさらない。突っ切れば良い、それだけである。自身が属する或吾高校の校則は無慈悲にも制服姿での繁華街立ち入りを禁止しているにも関わらずだ。
「ケースバイケースだ。その校則が申し上げるは、制服姿で繁華街で遊び歩くという体たらくを禁じよとのことなのだろう? ならば私たちにお咎めはない。私たちはただ、帰宅しようというだけなのだから。より早く自宅へと到着し勉強時間をより多く確保するために、泣く泣く繁華街を突っ切っているというわけだよ。校則を破ってしまい誠に申し訳ございませんと心の中で詫びながらな。涙ぐましく勤勉誠実極まりない学徒の模範的姿勢だと思わないか由正」当の椿姫はそんな具合である。そして延寿は止む無くそれに従っている現在だ。
「取兼先生からは、なんと言われた?」
椿姫がふと、尋ねた。
二人して歩道橋の階段を上っているときだった。
「説教です」
「ああ、原井の呼び出しに乗ったからって?」
「はい」
「勧誘はされなかったのか。いつもの、あれだよ」
取兼が熱心に舌を巧みに回して延寿に化学なるものを説いているのを、椿姫も何度か目にしていた。取兼にとって延寿がよほどのお気に入りなのは見た者なら誰でも分かる。取兼は規律の者で、良識ある大人で、そして温和な人柄だ。銀縁眼鏡に理知を宿しているが、ふとしたときに子供らしさを見せる。小柄で、容姿も整い、母性たる胸部の膨らみもそれなりにある、誰にでも優しく、生徒たちにとっての慈母であるとともに怜悧な眼差しを持つ。オカミス研究部の顧問を請け負ってくれて、更には一時的な場所まで提供してくれていた。本人はオカルトもミステリーもそこまで興味がなさそうにもかかわらず、だ。
(どんな理由、からなのだろうな)
椿姫はそんな疑問を抱き、答えはすでに浮かんでいる。
「いつものことです」
「よほどお前に化学の道へ進んでほしいようだ。受けたらどうだ、きっと飛び上がるほど喜んだ後に、あの先生ならば本当に持ち得る全知識をお前に託そうとしてくるぞ」
「……まだ、分かりません」
「はっ。まあ、そうなるよ。なにせ自分の進路だ、自分の意思で最終的に決めなければならないのに、いざ決定すると自分の将来の責任が待ち構えていましたとばかりにのしかかってくる。ゆっくり考えるべきだと私も思うよ。焦って行うようなことでもない、二年生の、お前なら」
椿姫は三年生だ。向かう進路は決まっていて、あとはその為の社会的な認可を学力で殴り合って勝ち取るだけとなっていた。
「取兼先生は、お前を気に入っている」
取兼は美人だ。年齢をはっきりと訊いたことはないが、自分たちとそう遠くはないだろう。一回り以内ではあると、椿姫は考える。
そんな教師に明らかな特別扱いを受けていると自覚したのなら、並みの生徒、特に男子生徒ならばすぐに陥落しそうものだが……思慕を受けた喜びからでも、ともすればの性欲のこもった下心からでも。もしや不能なのか、こいつは。
「薄々は分かっています」
延寿は淡々と答える。こいつはひどい男だな、と椿姫は思った。歩道橋が二人分の歩む重みで微かに揺れている。
「お前、ひどい男だな」
言いもした。そして立ち止まった。「相手からの好意を自覚しているのに知らないふりか。答えてあげたらどうだ」トゲのある追及だとは自覚した上でだ。苛立ちが混じっているのは分かっている。延寿のほうも立ち止まり、煌々と燃え落ちていく太陽の方角へ、ヒマワリがごとくにゆっくりと首を向けた。自然、椿姫を視界から外すことになる方向だ。橋の下で車が行き交う。排気音が過ぎる。排ガスの臭気が漂う。
落日を直視しつつ、延寿は何かを逡巡するかのように一呼吸置き、
「あれは、慈愛だ」
そう言った。
「慈愛?」
「そうすることが俺の為になるのだと、どうしてか先生はそう考えているように思える」
「慈しみか……あの先生なら、あり得ないことではないだろうが……」
そうすることが延寿の為になる。
化学へ向かうことがこいつの為になる。
慈しみの営み。延寿の為に。肉欲ではない。情愛ではない。ただ、慈愛。……なぜ?
「行きましょう。日が、もう落ち切る」
延寿は先んじて歩みを再開し、椿姫もそれについた。やたらに揺れる歩道橋の端まで辿り着き、階段を降り、向かう先は繁華街。何もかもの密集だ。店も、人も、喧噪も、感情も、生命も……そして繁華街に足を踏み入れた時、
「ルールを守らない、守れない者は、癌細胞と同じだ」
事実を述べるように、椿姫は延寿の方へ笑いかけた。無邪気としかとれない笑みだった。
「いるだけで有害となる。周囲の免疫のない弱者へと伝播し、転移し、蝕み、規則を破るという異常性に対する抵抗を下げ、倫理道徳的悪液質へと衰退させ、害ある同族を増やす。体力のない集団ならば、内側から蝕まれて遠からずお陀仏だ……由正、私が何を言いたいのか、分かるな?」
「委員長自身が今、規則を破っている。そして俺も同罪だ」
制服姿で二人は、校則で禁じられている繁華街立ち入りの途中である。椿姫が先に破り、延寿を巻き込んだ。「獅子舘椿姫は、自らを癌細胞だと暗に述べた」
「そうだ。お前も同罪で──私と同じ、害ある者に今なった。お堅いお前が制服姿で繁華街にいる光景を見た者は、果たして校則を守る態度を持続できるだろうか。あの風紀委員の、あの正しきが服を着ているような男が破っているようなルールを、私がなぜ守る必要があるのか? そう考え、結果的に規則を破るようになるだろう。なんということだ、重罪だぞ、由正っ」
楽し気だ。
「その当人が、俺以上にモラルのある人間だったらその限りではありません。俺の行いを軽蔑し、そうはならないようにと更なる堅固さで規則を遵守し始める」
「そんな人間いるのか?」
「いないと言い切るのは早計でしょう」
「少なくとも私は違うが。お前がルール破ってたら私も破るぞ。校則、規則、法律……ああ、きっと、きっとな、由正、もし、もしもだ、もしもの話に違いないが……」
立ち止まり、椿姫は延寿を見上げる。その眼に湛えられているのは、
「お前が人殺しをしたのなら、私も人殺しになれる」
憧憬に、見えた。
遠いものを眺める目。
憧れる者を眺める目。
底抜けの期待、一方的にのしかかってくる彼女が抱く彼女の望む幻像。
「その機会は一生こない」
延寿は冷徹に吐き捨て……そう、吐き捨てたのだ。吐き捨て、離れた。
椿姫のその言葉を自らに近づけたくなかったから、逃げた。見つめる彼女から視線を外し、遠く、ビルの合間に染まる入相の空へと向けた。
ありえないことだ。ありえない。俺は人を殺したことはなく、それはこれからもない。
「お前が癌細胞と化したら、きっと私の知る誰のケースよりも恐ろしい結果を産むだろう」
そう、椿姫。
「お前の行いは、お前の周囲に転移する」
続ける。その語調には責め、苛む調子すら帯びていた。
延寿は椿姫を見返さない。無視するように、繁華街を突っ切っている。もうすぐ出口だ。すぐに校則的にセーフな道に出られる。
「自覚しておけ。誰よりも正しく在るというのは、転じれば誰の人倫的な枷をも壊せるということだ。自らが最悪のケースとなり、他人の犯罪行為に対する心理的免疫を激減させる。あの人がしたのなら、あの男があんな行為をしたのなら、私のこれはそう重大なものでもないのでは……と、そう思わせてしまうんだよ」
「委員長が視界に認めている人間たちは、その全てが己に甘い者ばかりなのですか。自らに甘く、常に自分の行動の原因と責を他人の中に見つけられるような人間ばかりだと?」
延寿が振り返りもせずに問いかけるがごとくに吐き捨てる。皮肉だった。
すべての人間がそう愚かしくあるわけがないだろう、という。
「どうにも、言い過ぎたようだな。謝るよ。すまない」
延寿の苛立ちを受け、椿姫が素直に謝罪を口にする。「身体怠いしお腹痛いしでイライラしていた。理由、いちおう言っておく。今、生理中なんだ」
「……お大事に」
何をどう言おうか迷ったのだろう、延寿は少しく間を置くとそれだけを言った。
「どうも」
なんともらしい言葉だ、と椿姫は一人、延寿の背後で微笑んだ。
喧噪を背後に、道は或吾から口木の区画へと移っていた。夜闇の気配は遠い。太陽が燃え尽き落ち切るには、いましばらくの時間を要しそうだった。