誰が殺した?
化学実験室を後にした延寿が、昇降口まで降りてきたとき、
「それで、原井和史の最後の姿を見たんだな」
「はいにゃ。昨日、原井パイセンが体育館の方に歩いている姿が見えたにゃ」
下駄箱の手前で立ち話をしている椿姫と美衣の二人を発見した。
「……で、どんな様子だった?」
「遠目でよく見えなかったけど、肩を怒らせてましたにゃ。俺は強いんだぞ怖いんだぞとよほど周りに知ってもらいたかったんでしょうにゃあ」
「ふん。他に誰かいたか?」
「他には誰もいませんでしたにゃっ」
人殺しという生々しい惨事に関することでも、彼女はにゃをつけている。この前の図書室においても、箱の中で発見された或吾生徒について会話していたとき、冬真に『お前がにゃんを自粛することってねえの?』と尋ねられ、『ねえにゃ』と答えていた。
(なにかポリシーがあるのだろうか、あの、猫のような口調は……)
そんな思考を脳裡に過らせつつ、遠巻きに二人を眺めていると、
「よし分かったにゃ。小比井、情報をありがと……う……」
猫が椿姫に感染していた。
ノリよく返事をしたのか。はたまた口調がうつっただけなのか……言葉尻で延寿を見つけ目が合い、しばし椿姫は固まった。数瞬の間に動き出すとずんずんと延寿の眼前まで歩み寄ってきて、ムスっとした眼でにらみつけ、
「忘れろにゃ」
「はい」
「ああ? そこは『はいにゃ』だろう由正。お前も私と同様の恥を負え」
威圧的に恥の共有を強いてきた。
にゃんの口調を恥って言われたにゃ……、としょげる美衣の姿が椿姫の奥に見えた。
「そうする必要が見つかりません」
「必要かどうかだの意味があるかどうかだのは、時として何ら価値を含まない思考なんだよ。そしてその瞬間は私達が予測している以上の頻度で訪れる。衝動の行動を今、私はお前に求めている」
「いやです」
「しろにゃ」
フリである。語尾ににゃをつけるという恥(椿姫評)を上塗りしつつ、彼女は強要してくる。「やれにゃ」自らに刃を立てつつ「さっさと言えにゃ」ザクザクと自傷しつつ「言ってこない限りこの口調は永続することににゃるぞ」脅迫まがいの言すら躊躇しない。このままでは自傷のあまりに自らの原型を留めなくなるのではないだろうかという不安が、微かに頬を赤らめ始めた椿姫へと起こった。だから延寿は────「いやだにゃ」言った。
これは椿姫の自傷行為を止める為の、彼なりの心遣いだった。そしてそのにゃをあまりに恥ずかしがり、羞恥の念に二の足を踏んでしまえば、奥の方で「にゃんの口調は恥だったんだにゃ。私は恥を上塗りし続けてきたんだにゃ。恥の多い生涯を送ってきましにゃ。名前はもうありますこひーみいですにゃ。皆さん、私は裸族です。M・C……」と変な口上を述べ上げて凹んでいる美衣の傷口に塩を塗り込む結果ともなろう。だから堂々と、潔く言い切ったのである。
「はっ、ふ……!」「にぇーほふっ……!」
「はははははっ!! いいじゃないか由正、わたしは今胸が躍ったぞ!」
「延寿ったらにゃんとか言ってるにゃあー! 似合わにぇぇ……! まじウケるーーーーー!」
結果、二人ともに笑われた。延寿の眉根に深々と皺が寄った。
正しき気配りは時として避けようのない滑稽さを産み落とすのだ。であっても正しきの虜たる男は、その道を避ける選択肢を採らない。
散々笑ってくれた後に椿姫は延寿の肩に手を置くと、
「お前は本当、良い男だ」
手放しの賞賛に、彼女は眼を細めた。
そして椿姫は下駄箱に立てかけていた学校指定の鞄を手に取ると、
「小比井美衣。情報、感謝する。より多くをくれたら更に感謝しよう」
と、お礼の言葉。眼に涙をためてまで爆笑していた美衣は「あざっすですにゃ」と良きかなとばかりに片手をあげた。「ときに風紀委員長様。良ければ私が校則違反の由はお見逃しいただけると……」「それはならない。話が別だ」「はいにぇ……」交渉はならず、ならば用はもはやなしと美衣は「さようにゃらあ」と軽々とした足取りで去って行った。階段の方だ。まだ校舎内に用があるようだった。どこへ行くのだろうか、と延寿は考える。図書委員ならば、花蓮もまたそこにいるだろう……彼女とて、慎重を期するとは思うが。
階段を上っていく美衣の背中が見えなくなってすぐに、「由正」
「私と帰ってくれないか」
と、椿姫は誘い。
「分かりました」
そう、延寿は承諾した。
それでことは決定した。
延寿と椿姫は共に帰宅することとなった。




