化学教諭と
「すみませんが、わたしの用は延寿だけです。用件があるのなら後日に」
取兼はそう言うと、「早く、延寿。先に用件を言いますが内容はお説教です」
急かされて立ち上がった延寿は、残る二人へ「お先に失礼します」と言い、隙間から見つめてくる瞳へ近寄り、扉を開けた。
ちょこんとした存在が、そこにはあった。
咎めるようにまっすぐの瞳に見上げられていた。真っ黒な髪を後頭部にふわりとまとめてシニヨンにし、身体には白衣を纏い、銀縁の眼鏡をかけている。理知を醸す風貌には潔癖な真面目さが現れ出て、今現在、その表情は延寿へ対する不機嫌さの表明とばかりに眉をひそめている。
「ついて来なさい。お説教は化学実験室で行います」
「……はい」
取兼の小さな後ろ姿について歩き、やがて化学実験室の前へたどり着いた。
先に取兼が室内に入り、椅子に腰を下ろすと、向かい側を手のひらで指示し、「延寿も座って」とひとこと。
促され延寿が座ると、
「寺戸先生に対して暴言を吐いたそうですね」
そう切り出した。
「……すみません。ご迷惑をおかけしました」
「迷惑はかけられていません。ただ、わたし個人として、あなたの態度を正そうと思いこうして来たまでです」
教師が生徒を叱る様子の、そのお手本になるかのような物言いだった。
叱られてなお無表情の、反抗の様子も反省の兆しも見せない延寿を取兼はしばし咎め立てるような眼で見つめると、眼鏡越しのその瞳がふっと緩められ、
「わたしは……延寿、これはオフレコでお願いしますが……寺戸先生の人間性について疑問に思うところがないわけではありません。そしてあなたが人一倍真っ当であろうと努力していることも、把握しています。なにか、理由があったのですね?」
そう、優しく問いかける。
「少し、納得できない言い方をされたもので」
「ああそれは……昨日の、原井和史くんの件でしょうか。あのことについて、わたしは寺戸先生が事実と受け取るには限りなく疑わしい言を吐いていたのを聞きました。その件、でしょう?」
取兼の眼は柔和に、慈悲を見せ理解を示している。
わたしはあなたの側ですよ、と言外に述べるそれは親愛に比肩する迄の同情だった。
「俺は……」
「分かっています。寺戸先生以外の人間だって、そうではないと断言できるほどに──延寿、あなたは殺人を犯すような子ではないのですから。正しきの虜のあなたを、わたしや人々はしっかりと見ています」
優しい言葉。慈しむ瞳。「信念に泥をかけられて……嫌な気分、だったでしょうに」
そして取兼は延寿へ向かい両手を差し出すと、「泣きたいのなら、先生の胸の中で泣いてもいいんですよ?」そう、誘い、「いえ、不要です」「そんな意地を張らずに」取兼は立ち上がり、さらに両手を突き出す。「いりません」「あ、ハイ。ごめんなさい」にべもなく拒否られ再び座った。
「優しくわたしの胸の中で包み込んで、化学の素晴らしさを耳元で滔々と語ろうかと思いましたが」
そう言うと取兼はこほん、と仕切り直しと小さな咳ばらいをし、
「延寿、一概に、寺戸先生を悪者だと思ってしまわないようにね。あなたが噛み付く理由があったように、寺戸先生にも相応に理由はあったのだと推測できますから。原井くんに対して寺戸先生は……なんといいますか、ダメな子ほど可愛い、というところもあったのでしょうね、彼なりに気を回していたところもあったようです。そんな教え子の変わり果てた姿を目にしたショックが、彼の正常な判断と良識を一時的に麻痺させてしまった。わたしたち先生は、情けない話ですが、生徒達に対して完全な平等では接せない。可能な限り平等であろうとしていますが、やはり、贔屓目も、入ってしまいます。愛情の注ぎ方にも、ムラが出てしまいますから」
「……その自覚は、そうはならないようにという意志への前置きですか」
「もちろん、そうですよ。愛情の注ぎ方にムラがあると言われただけでは、生徒に生じるのは不満と不安だけでしょうから。わたしは満遍なく生徒を愛しますし、良識ある先生方も平等であらんとしていることでしょう」
博愛精神全開で、取兼は母性の窺える視線を延寿へ向けると、
「さながら、あなたが正しきであろうとしているように」
聖母なるものがそうするような微笑みを浮かべ、「あなたの信念を、わたしは応援していますよ」言い足し、「お説教はこれぐらいです」と一仕事終えてやったぜとばかりに満足げにむふーと息を吐いた。
「ところで延寿。ついでだから聞きますが、あなたは進学でしょうか、それとも就職を?」
「今のところは……進学を、考えています」
「ふむむ。わたしがあなたの担任に聞くところによると、あなたは全教科満遍なく優秀な生徒です。この前のテストに関しては平均が九十をゆうに超えて九十六の、切り上げると九十七。その中でも特にカガク……お化粧のケという漢字が頭につく方のカガクに関しては満点。百点です。しかも唯一の百点満点の生徒。よほど化学が好きな子なんですね。分かります。あなたが化学大好きっこだというのは先生とっくに知っていましたよ。化学は物質の根本を白日の下に開陳する学問です。物の構造、性質、反応……世の中のすべては原子で構成されているということは、もう授業で話したので当然知っていますよね、延寿」
「はい」
「よろしい。かのファインマンは、世界に大変動が起きて科学知識が全消失した際、ひとつだけ次世代に伝えるならばと問われた際に、原子論を伝えると答えました。それほどに原子とは物事の始まりなんです。原子を知らなければ、物質というものを知るためのスタートを切れないと言っても過言ではないほどに……私の授業を聞き、理解している延寿はもう既にスタートを切って、走り出しているというわけです」
にこにこと晴れやかな笑顔で取兼は言い、「いったい、どこをゴールとして、なのですか?」問う。「……考えたことがありません」「……ふふふ。そうですね」素直な延寿の返答に、取兼はぺったりと笑んで、
「延寿、周期表はきちんと憶えていますか?」
そう尋ねる。その表情にはあなたなら望むとおりの言葉を口にしてくれるという期待と信頼があった。
「憶えています」
「良い心がけです。周期表とは、メンデレーエフがつくり、百五十一年ほどの歴史を持つ、すいへーりーべのあれですね。テストにも出しました。あなたは全問正解でした」
さも我がことのように嬉しそうに取兼は笑うと、「それでは」
「陽子の数が16個の元素は分かりますか?」
「硫黄です」
「それなら、第7周期第3族にあるアクチノイドに含まれている内で、原子番号が92の元素の名称は、分かりますか。これが分かるのなら大したものです、授業ではまともに触れない箇所ですから」
「……ウラン、ですか」
銀縁眼鏡の奥の眼が一瞬丸くなり、「よく分かりましたね、そんなに化学のことが好きなんですねっ」感激だ、とばかりに褒めたたえた。
「では原子番号19は?」
「カリウムです」
「それじゃあ第17族にある元素のうちで非金属であり、融点113.6℃で常温常圧では固体の元素名を」
「ヨウ素」
延寿の答えに「はい」とだけ取兼は答えると、無言で延寿の瞳を見つめた。その行為の意味を、延寿は分かり兼ねた。
「先生?」
訊ねると、取兼は「その調子で精進しましょうね」と微笑を返した。静止の理由を口にする様子はなく、「私個人の意見としましては」次の話題へと、繋げられる。
「延寿が進学を目指そうというのなら……ゆくゆくは企業の研究職に就けるようなところを目指してはと思います。そこではあなたの好きな学問を、そうですね、例えばテストで図らずも満点をとってしまうぐらいには好きな……たとえば、そう、たとえばカで始まってクで終わりバケガクと呼ばれることもある名称の学問を修めてみるのがよろしいかと、そう思います。わたしも大学は広い範囲で云えば、延寿が第一希望にと密かに考えているのと同じ化学の分野を専攻とし、学んできました。その過程で理科の教員免許を取得して、この或吾高校で化学教諭として教鞭をとらせていただいている現在となります」
もう取兼の中では延寿の専攻は化学の分野なのだと決定しているらしかった。
「化学、とひとことで言っても範囲は広いです。無機や有機をはじめとして多様に分野が展開されていきます。その中でもおすすめは有機化学ですね。結合の種類により性質を変化し、ヒトの生体の解析だって行えます。わたしが修めた生物化学も含まれています。延寿は、DNAに関心はありますか? 生物の遺伝情報の保存、を行っている分子です」
「そこまでは」
「なるほど、とても関心がある、と……なら先生もう少し頑張ってお話しますねっ特別講義ですっ……こほん、っ、ごほっ……DNAとは、けほっ……DNAとはですね、デオキシリボ核酸と呼ばれていて、二重らせんの鎖が有名ですね。ピリミジン塩基のシトシンとチミンを持ち、プリン塩基のグアニンとアデニンを持っており、それらの塩基とデオキシリボースがくっついて成分となっていて、延寿だけが持つ遺伝情報を、詳しく言うならばあなたの蛋白質のアミノ酸配列の情報をあなたの次の世代へと正しく伝達していくために非常に大切な働きをしているんですよ」
最初こそ詰まったものの、軽やかに取兼は語っている。
「いいですか? DNAとは、遺伝情報とは、即ち塩基配列なんです。AGCT、アデニングアニンシトシンチミンの四つの塩基の並び方で、あなただけの遺伝情報を構成しているんです。プリン塩基とピリミジン塩基とデオキシリボースの結合であるヌクレオシドにリン酸がくっついてヌクレオチドになり、そこに並んでいるAGCTの順番が、あなたというヒトを伝達していく為の遺伝情報となっているんです。ヌクレオチドがリン酸により繋がっていき鎖となり、二本の鎖が、それぞれを構成しているAT、GCのそれぞれ水素結合で引き合ったペアがお互いに引っ張り合いつつ伸びていき、細胞内でDNA鎖同士の二重らせんを形成しています。そして細胞というのは分裂していきますね。そうするとDNAも分かれます。しかしただ分かれたのではDNAの長さが半分になってしまうので、予め分裂前に二倍の長さになっていて、適切な長さで複製されます。お利口さんですね。そうすることで生物の身体は日々刷新されていきます。ですが、細胞分裂の回数は決まっているのです。無限ではありません。だからヒトは永遠を生きられません」
自らに沁み通らせた学識を並べ、軽快な調子で。
諳んじられるほどに積み重ねた知を、さながら、心地良く歌っているように。
「分裂に限界という終わり──ヘイフリック限界と呼ばれる終点が規定されてしまった原因として、テロメアというものがあります。DNAの両方の末端にある箇所です。細胞分裂の度に、そのテロメアがほんの少しずつ、短くなっていってしまいます。そして最後には細胞が老化し、その変化は不可逆であるため、もう元には戻りません。ただ、例外はあります。細胞の不死化です。最も有名な不死化細胞としては、癌細胞があります。癌細胞はテロメレースによりテロメアを再生させ、その長さを保ち続けています。細胞分裂の回数券たるテロメアをフリーパスにしてしまうのです。いえ、言い方が少し悪かったですね……ワンデイもマンスリーも超えて、イモータル・パスへとテロメアを変えてしまえる……それはヘイフリック限界を克服している、とまで言えましょう。ただ、癌細胞はご存知の通り、ヒトを蝕み、最後には殺めます。癌細胞のような不死化を、通常の細胞においても行えれば、そのような働きができれば、ヒトは永遠を手に入れられるのでは、という推察を私は…………」
心地良い歌にはいつからか興奮が混じり、立ち上がり鬼気迫るほどの表情でまくしたてていた取兼は、そのような自らを知覚したのか、「ああ……」と疲れた様子で席へと着いた。「すみません。つい、熱くなってしまって……」熱くなり過ぎた羞恥に微かに頬を染め、深々と、自省に目を瞑った。
「延寿。あなたは遺伝子について興味を持てる人間であると、自らを見ますか?」
目を閉じたまま、取兼は眼前の生徒へと問いかける。
「DNAについて学び、そこに含まれる可能性に惹かれるような人間なのだと、自らを想定できますか?」
さらに踏み込んだ問いを口にし、彼女は眼を開けた。
妙な問いだ、と延寿は思った。関心を持てたか、ではなく、持てるような人間だと思えるのか、とは。可能性に惹かれる人間だという、その想定を己に持てるのか。意図が分からない。
「……まったく、ではないと思いますが、はっきりと分かりません」
「全くないのでなければ、全く問題ありません。最初から関心を持っておらずとも、ああ少し興味があるだけなんだけどなあ、という理由で選んだ分野であっても、学んでいくにつれてその……例えば生物化学ならば、斯学の広がりを見、学びゆくに従って自分が立とうとしている分野の展望というものが見えてきます。今現在どこまでを可能としていて、将来的にはどのような可能性が存在しているのか……生物化学、面白いですよ。バイオテクノロジーを主とする企業が多く研究職として募集していますから就職にも困りません。わたしも、生化学を修めた身として、浅学ながらも延寿の学究の一助となれます」
生物化学を推してくる取兼に、延寿は「検討しておきます」と丁寧にあしらった。彼女ほどの熱意を自身が持っている姿を、イメージとして浮かべられなかったというのもあった。
「いつでも相談に乗りますからね」
上機嫌な笑顔を浮かべ、「これで用件は終わりです。早く帰るように……はあ、喋り過ぎて喉が渇いてしまいました」
化学実験室における十分を超えたであろう説教(+化学分野へのお誘い)は終わった。
取兼からの化学へのお誘いは、これが一度目ではそしてない。柔和な笑みと熱心な弁舌でもって、それはもうなんかすごい勢いで化学を延寿に推してくる。化学いいよ、いいよ化学……こっちへ来ませんか、化学、ほんとにもう化学……、とばかりに引きずり込もうとしてくる。
取兼先生は化学に対する情熱が凄まじいのだな、というのが延寿の彼女への主たる印象だった。引きずり込まれるつもりは、今のところはご遠慮します状態である。
「延寿」
退室しようとしている延寿は、取兼に呼び止められて振り返る。
彼女の紅を引かれた唇は弧状に楚々と吊り上がり、慈しみの微笑が浮かんでいる。
「……先生?」
延寿の瞳を真っすぐに見つめたまま、取兼はしばしの沈黙を置き、ふっと笑みを消し、「あなたが望むのであれば──」その沈黙を破った。
「よろこんですべての水をおくります」
と彼女は笑う、
「のどの渇きにはほんの少しでじゅうぶんでしょうけれど」
と言って──「ふふ。分かります?」
問われ、「いえ」延寿は首を横に振る。「なにかの引用ですか」
「タゴールが遺した詩の、そのひとつです」
取兼は言う。
「あなたを見ていて、今ふと、思い出しました」
にこにこと、最初不機嫌だったのが嘘のように、この上ないほどの上機嫌だった。その穏やかな笑みには、彼女が常に帯びている慈しみの色が濃い。
「知識は水のように流れていきます」
取兼は言葉を続ける。
「流れ、流れて、少しずつ記憶の表層を削り、いつしか流路を造り上げ、わたしたちの知識は流水のごとくに生命豊かに、透き通った叡智の景色を見せてくれるのです」
言葉を紡ぐ。やはり、歌うような心地良さでもって。「けれども、水が枯れてしまうときもあります」その声音が、少しだけ落ち込んだ……ように、延寿には思えた。「ですが、」
「流水が造り上げた流路は、まだ残っている……そこに再び水が流れ出す日を、ただ、わたしは心待ちにしているだけ」
始終、取兼は穏やかに笑んでいる。
一片の混じりもない、それは親愛だ。
期待、されているのか──でも、なぜ。
「長々と、話し過ぎましたね。今度こそ、また来週」
言い、取兼は立ち上がる。
今、訊ねたところで、彼女は穏やかな笑みの中に答えを濁し、真に聞きたい本心を極限にまで希釈してしまいそうな予感が、延寿にはあった。「もう、今日の講義は終了です」
「……失礼します」
「はい。さようなら」
そうして取兼は、親愛なる教え子の去りゆく後姿を見送った。