人を殺した男
週末は、朝から土砂降りだった。
欝々として薄暗い通学路を延寿は、真っ白なビニール傘──以前に沙花縞伊織へ渡した黒の蝙蝠傘は予想通りに不帰の旅に出た──を片手に差し、変化皆無の鉄面皮、鉄仮面をかぶった鋼鉄顔でひとり歩み、何の面白みもなく或吾高校の校門まで辿り着いた。
門の周辺はざわついていた。或吾高校の教師たちと、カメラやらマイクやらの機材を構えた部外者たちが押し問答を繰り広げていた。つい昨日に発生した、学校敷地内で一人の男子生徒が殺されるというショッキングな事件をセンセーショナルに彩るために駆けつけてきた人々と、お帰り頂きたい旨をどうにかこうにか穏便に伝えようと苦心する先生方のお喋りを横目に、素知らぬ顔で生徒たちが歩いていく。
延寿も彼らと同じくして門を通りすぎてしばらく歩いた時、
「あ゛ー…………はよざっす、よっちんさん」
ゾンビのような呻き声に呼ばれ見ると、いつもの鮮やかな緑の傘を片手に花蓮が立っていた。「梅雨、きらい。好きだけど嫌い。あっだまいっだい。今日のは特にひどい」
頭痛にこめかみを抑え、不機嫌そうな目つき。
「どうしたんだ」
「よっちんがこの時間にここを通るってえことはぁ、今日は持ち物検査はないってことだねえ。ってかあたしの方が先に来てるから既に分かっちゃいることなんだけどさ」
「……なにか、持っているのか」
「ないない。ぜんっぜんないよっとお……」
うんざりしたように手をひらひらと振ると、「ねえ、昨日の……私のスタンプ」何でもないことのように、花蓮は言う。
「……きみは昨日、〝ぶっそーなもの〟を見た」
「で、でもなんだけどさ」
「あれの用途は人を切りつけるだけじゃない。分かっている」
「……うん。そのとき一応聞いたんだけど、友達に借りてたんだってさ、家で弟たちと段ボール遊びしたかったからって。弟くんたちって、まだ小学校の低学年ぐらいだから……」
「そうか」
「う、疑って、る……?」
「断定はしていない」
「私、も……タイミング悪いな、っとは思うんだけど……い、いやさ、ガイドでしょどうせやったのってっ……」
「そんな事実があったのだと気に留めておくぐらいはしておいた方がいい。万が一、もある」
「…………うん」
それだけのやり取りだった。「……あたま、いったいなぁ」そう、花蓮がぼやき、歩く延寿に花蓮が並び、そのままいっしょに昇降口へと歩き始めた。
「あぁ? あそこにいらっしゃるのはぁ……? うわあ、寺戸じゃん……だる」
昇降口の方角を手庇で見遣り、花蓮が嫌そうに眉間に皺をよせる。昇降口のガラス戸の前には寺戸昌夫の姿があり、いつもの厳めしい顔が鹿爪らしい表情で通り過ぎる生徒たちを睨みつけ、「今日は朝から緊急の全校集会があるからな」と叫んでいた。
延寿たちが近づくと、寺戸も気づいたのか見つめてきて、かすかに不快そうに目を細める。気にする様子もなく通り過ぎようとしている延寿と、その陰に隠れるようにこそこそと歩く花蓮へ、
「人を殺すのってどんな気分なんだ。ええ? 〝風紀委員〟の延寿由正」
寺戸が声をかけてきた。
風紀委員、を強調して、嘲るように。
「……その言葉が訂正すべきものであることを、寺戸先生は分かっていると思いますが」
立ち止まり、延寿が寺戸を見据える。
上背のある延寿は、寺戸昌夫を微かに見下ろす形となった。視線に気圧された様に寺戸は一瞬口ごもったが、すぐに勢いを取り戻すと、
「警察は騙されたようだが、俺の眼は騙せんぞ」
それは、正義だろうか。
正義、という信念なのだろうか。
教え子……出来が悪く、非行ばかりを繰り返していた原井和史への憐憫からくる、ものなのか。原井和史は殺された(『こっちの病院に運ばれてきたけど、息を引き取ったらしいって看護師さんたちが話してたぞ』と今朝がたにメッセージを受け取った)。殺したのは『案内人』(を名乗るそうではない誰か)であり、延寿ではない。正義の矛先を向けられる謂れは、ゆえに延寿にはない。なのに向けられている。今、延寿は正義を振りかざされている。正義の言葉で、罰してやるという意志を向けられている。
「……」
その正義は、延寿にとってどうしようもなく虫唾が走るものだった。見当違いも甚だしい正しさを向けられているという苛立たしさを抑え込む努力をしなければならなかった。
無言の延寿の視線に、寺戸は臆病な解釈をした。
「お、俺まで殺そうっていうのか!?」
そう、助けを呼ぶように大きく叫んだ。
周囲から遠巻きに様子を伺っていた生徒の視線が一斉に延寿へ向けられ、鋭利となった。お前が殺したのか、という猜疑があった。原井和史と揉めていたらしい延寿由正が殺人を犯し、それを咎めようとした生徒指導の寺戸にまで殺意を向けている。ことの詳細を知らない者たちにとってはそれがすべてだった。ああ、ああ。いつか殺しそうだったよ。融通の利かないあいつの眼、あれは殺人鬼の眼光だ。『案内人』だって、実は延寿のやつなんじゃないのか。
視線はより鋭く、尖り、突き刺さる。
風紀委員の延寿を好ましく思う者は少数で、憎むものは大半で、なんとなく悪いやつなんじゃないかと思う者が残りだった。
「よっちんは……!」
延寿が何かを言うよりも前に。
延寿の後ろに潜んでいた者が、彼らの視線に耐えられなくなった。
「延寿由正は! 人を殺してなんかいない!!!」
花蓮が。
怒り一色の形相で、感情のままの叫びで。
「勝手なことを言うな! お前がただ……! よしまさに怯えているだけだろ! ありもしない妄想をしてっ、何も悪くないよしまさを怖がっているだけだろ!!」
敵意を向けられ呆気にとられた寺戸へ、尚も噛みつこうとする花蓮を、
「きみには関係のない話だ。落ち着いて、先に教室へ行け」
延寿は手で制し、あろうことか守ろうとしてくれた彼女へ吐き捨てるような冷ややかさでもってそう言ってのけた。周囲の者の花蓮に向ける視線から、殺人犯をかばおうとしているのかという鋭さと困惑が抜け、せっかくかばおうとしたのにあの人でなしに冷たく返されてしまったなんて、という憐憫が混じり始めた。「で、でも、よしまさっ」花蓮の言葉、彼女の視線に、延寿は一瞥すらせずに寺戸へ近づくと、
「俺は人殺しではありません」
俺が、人を殺すわけがないだろう。
「俺の言葉に嘘はありません。しかし尚も疑わしく思うのなら、警察へ尋ねてみてはどうでしょうか」
俺が、この俺が。人を殺す? 馬鹿を言うな。
「原井和史が死ぬに至る原因を作った者は延寿由正という名前なのでしょうか──と。そうして返ってくる答えを、寺戸先生、あなたはもう分かっている。だからこれ以上の会話は不毛で、不要だ」
ちっ、と寺戸の舌打ちが聞こえた。
「気にくわないなあ、お前。正義面して、自分こそが正しいと信じ切っている。ものの分別もつかないガキの癖に」
小声で、教師らしからぬ言葉で生徒を切りつける。「最初っから気にくわなかった」
吐き捨てる寺戸を真っ向から見つめ、鋭い眼光の奥に冷たさを湛え、
「俺も、お前が気にくわなかった」
延寿はそう言い返した。およそ生徒の立場として正しくない言葉遣いだ、とは自覚していた。売り言葉に買い言葉の、まったくもって子どもの悪態。だが、言わずにはいられなかったのだ。
「ほ、本性だしやがったな……!」
生徒と教師ではなく、人間と人間という対等な怒りを抱いたらしい寺戸がそれ以上なにかを言う前に、「全校集会があるから、きみも急いだほうが良い」と延寿はびっくりしたように会話を聞いていた花蓮に声をかけ、そのまま歩き去った。
全校集会では、訃報が伝えられた。
原井和史、という一人の男子生徒が亡くなった旨を、神妙な表情で、ところどころに「えー」と「あー」を挟みつつ、或吾高校の校長である禿頭の人物が、尋常じゃない頻度の瞬きとともに述べていた。




