人殺し
いくら『模倣犯』の可能性が濃くとも、今この場にいるのは延寿一人で、動機と想定できる怨恨も第三者の眼から見ると存在している。
二人しかいない場で、そのうちの一人が他殺体となっている。
まだ生きていた頃の他殺体とその一人は揉めており、ついカッとなってしまうか、あるいは粛々と殺意を腹の底に溜め込んでいる疑いがある。
気の毒にも殺されてしまった被害者──ならばいったい、誰が殺してしまったというのか。誰の姿がはっきりと容疑者として浮かんでくるのか。一目見たとき、誰をまず疑うのか。
かくして延寿は今、原井和史殺しの容疑者だと駆け付けた警察に認識されている。
和史の死体は首を切りつけられており、切りつけたであろうカッターナイフは近くに転がっている。工作用の大型のものだ。誰でも振るえるような、何の技巧も必要としない工具である。慌ただしく救急隊が和史を運んでいる様子を背景に、延寿は警察とにらみ合っていた。
「そこを、動かないように」
誰とも知れない警察官のうちの一人が、恐る恐ると延寿に言う。要望ではなく命令の響きを伴っている。受ける視線は、一部外者へのものではなく殺人犯への警戒のそれだった。
「俺ではありません」
俺が人を殺す筈がない。
俺が人を殺すわけがない。
我が正しさが、決して、絶対に、徹底して、首を縦に振らない行為だ。殺人者は罪人だ。罪人は不正極まる。歪の所業を、俺が、この俺が……! ……する、もの、か。
潔白を主張する延寿に、警察は一切の警戒を解かなかった。その後ろに隠れてこちらを怯えつつも伺う寺戸に至っては完全に人殺しを見る臆病な視線だった。
「……俺じゃない」
そう言ったところで潔白は証明できないのだと、延寿とて自覚している。
ならば事実に証明してもらおう。凶器のカッターナイフには自らの指紋がついておらず、残されていた文面は自身の筆跡ではない。文章の中身はガイドによる自白であり、紙に挟まれていた校章が彫られたボタンは涯渡紗夜が言っていた模倣犯の所業と似通う。そのすべてに延寿は心当たりがない。ゆえに、自分以外の誰かが殺したのは確実となろう。
「……」
無言のうちに延寿は考え、自身が何ら危険性のない人物であることに努めた。動かず、口答えせず、ただことの成り行きを見守るだけの、人殺し(であるはずがない!)の疑いをかけられた無害な容疑者。
「延寿、お、お前はとんでもないことをしてくれたなぁッ……!」
怯え、警察の陰に隠れつつも、寺戸は威勢よく言い、「あまり刺激するような言葉を吐かないように」警察から冷ややかな注意を受けていた。無感動な視線で、延寿はその光景を眺めていた。
「きみは、こっちへ」
警察の一人に手招きされてついていくと、パトカーの中へと案内された。
なぜあの場所へ訪れたのか。切り付けられていた彼への恨みはあったか。彼は怨まれるような人間だったか……訊ねられたことにすべて、延寿は事実を答えた。そうしてようやく、警察の目に宿る疑いの光が弱まったように見えた。実際はどうか分からないが。
ただ警察が疑いを弱めようと、もう確定した人物にとって延寿は確実な殺人犯だった。
原井和史を恨み、体育館裏に呼び出された際に殺してのけた一人の冷酷な人間だった。
寺戸昌夫にとって延寿は一人の殺人犯となった。
それの意味するところを延寿が知るのは、次の日のことだ。ただ、今は今日のこの先の出来事を──
「ひとまずはより詳しい話を署の方で教えてもらいたいが、良いかな?」
警察は言う。延寿は「問題ありません」と頷く。
学校と、親御さんへのご連絡をしなければならない、と警察は付け加え、その要望通りに延寿は親の連絡先を教え、動く。そのまま月ヶ峰市中にある警察署へと連行された。
そして一連を隠すことなく話し、『模倣犯』の件についても触れると、警察の方でも承知していたらしく頷き、聞いていた。始終を話し終えたとき、警察の眼からははっきりと疑いの光が弱まっていた。そのまま解放され、学校へと戻ることなく延寿は直帰した。そのように、担任から、ひいては学校側から言われたのだった。延寿由正くん、今日はもう、きみは帰宅し、家で大人しくしていなさい──と。そういう次第で延寿は家へと辿り着き、鍵を開け、締めた。
机の上にぽつんと置いてけぼりにしていた携帯電話には、父親から着信が入っていた。掛け直し、何も問題は無いことを伝えると、ひとこと「心配はしていなかったよ」と言われ、親と子の会話はそこで終わった。
あとはもう、〝家で大人しく〟しておくべきだろう。言うなれば学校側から下された、極々わずかな謹慎処分だ。というわけで延寿は彫像のように椅子に座り、花蓮から『仮にもオカミス研究部に所属しているのならこれ読んでみ』と渡された文庫本(オカルトに傾倒している類の)を手に取り、読み、読み終わり、次いでオカミス顧問の取兼から『暇なら是非とも』と渡された課題(化学)へと取り掛かり、終わり、そうこうしているうちに時間が経ち、或吾高校の下校時刻も過ぎて、夜となっていた。
『けーさつの方々とご機嫌なお喋りはできた?』
午後九時を目前にしていた折に、『NEST』がそのようなメッセージを受信した。花蓮からだった。くすくすと楽しそうに笑う何かのキャラクターのスタンプが添えられている。
『疑いは晴れた』
文面に何の装飾もせず、延寿はそう返信する。すぐに既読がつき、
『うん。よかった』
それだけの単調な返事がきて、
『明日、また話そ』
すぐに新たな文面が添えられる。そうだな、と延寿が返信すると既読がつき、やり取りはそこで終わった。『NEST』を閉じて机の上に携帯を置き、延寿は軽く息を吐くと、椅子の背もたれに背中を深く預け、天井を仰ぎ見る姿勢となり、そのまま眼をつむった。この場にいるのが彼一人だからこそできる、気の緩んだ体勢である。少しくの暗闇に、思考の時間を置きたかった。
(原井和史は『模倣犯』に殺された)
(涯渡生徒会長の言っていた、『模倣犯』)
(警察もソレの存在を知っている)
(『案内人』に倣う者)
(なぜ、原井和史は殺されなければならなかった?)
(ただ、そこにいたからか)
(それとも、ほかに理由があったのか)
(あの場で殺されたのなら、あの場に向かった者がいる)
(……多すぎる)
ただ原井和史が殺された時のアリバイがないというだけで疑いにかかろうものなら、含まれる者は非常に多くなる。延寿自身と、そのとき会話していた鷲巣花蓮以外が対象となるのだから。
(『模倣犯』は、自身の犯行を誇示している)
(現場に残された文面は、『案内人』の自白ともとれる内容だった)
(だというのに、『模倣犯』である証拠──校章の入ったボタンを残している)
その矛盾こそが、自らは『模倣犯』であるという何よりの主張ではないか。
ソレは『案内人』を名乗り、『模倣犯』だという手がかりを残した。現時点では、『案内人』は切り刻まれた死体以外に何も残していかない。ボタンを残すのは『模倣犯』であるのだという認識は警察にも知れ渡っている。『模倣犯』の存在を知らない者は、『案内人』がまた人を殺しただけと思うだろう。だが、知る者にとっては『模倣犯』の存在が強調される。
私は『案内人』を名乗る──だが、本当は誰であるのかお前は知っているだろう?
そう、尋ねてきているようにも思える。こちらに答えを出させるつもりなのだ。
いいや、お前は『模倣犯』だ。凶悪な殺人鬼に倣う愚者だ。
と。そうすることで相手に自分をより深く認識させようとしているように思える。
(『模倣犯』は、原井和史があそこで一人になる可能性を知っていた)
(つまりは、俺と揉めていることを知っていて、今日の昼休みに原井和史に俺が呼び出されたことを知っている……或吾の関係者である可能性は高い。ともすればもっと近いところに……)
そこで延寿は思考を止め、眼を開けた。
すると携帯の通知ランプが光っており、画面にはポップアップが表示されていた。
『よっちんはひとごろしなんかじゃないよ』
花蓮からだった。
『当然だ』
きっぱりとした否定を返信すると、
『カッターナイフとかそういうぶっそーなものを持ち歩いたりとかもしないでしょ?』
問われ、『しない』と返す。すると数十秒の間を置き、『NEST』の画面上にはデフォルメされた猫が爆笑しているスタンプと、簡略化された人間が首を傾げて疑問符を浮かべているスタンプが表示され、『おやすみ』と締めくくられた。
『おやすみ』
だから延寿は、そう返信し、その日の二人のメッセージのやり取りは終わった。