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1104日、経った。連絡を待っている。
「お前が、延寿?」
昼休み、ずかずかと入ってきた顔も知らない人間(その黄色のカラーから一つ年上なのが分かった)が、いきなり机にドン、と握りこぶしを落とし、そう言ってきた。
教室内の喧騒が一気に静まり、クラスメイト達の遠巻きの視線が集中した。
「なんですか」
訊ねると、
「放課後に、体育館の裏に来いよ」
「……なぜ?」
そう言うと、ぐい、と名乗ってこない誰かは顔を近づけてきて、見開いた眼で俺を凝視すると、
「分かってんだろ」
と呟き声。「俺は、お前が昨日ボコった奴らの大親友なんだよ。仇討ちにきた」
「絡んできたのはあっちからだ」
「知らねえよ、ボコボコにしたのはお前だろ。嫌だったら大人しくボコられてりゃよかったんだよ」
「理不尽だな……」
「良いから来いよ。逃げんなよ。逃げても追いかけてやるからな。ああ、あと──」
そして彼は俺を直視し、必死に両目を見開き。
その言葉がまるで、俺にとってのアキレス腱であるのだと確信しているかのような自信でもって、
「お前、人殺したことあんだろ?」
そう言ってきた。
醜い表情だ、と率直に思う。
──うわあ、怖いね由正。
結局名乗らなかったその人物は鼻で笑うと、来た時と同様に肩をいからせながら立ち去って行った。その後ろ姿に、ばいばーいときみが手を振っている。
「やば……三年の原井じゃん」
「ああ、この前校門のところで寺戸に怒られてた先輩?」
「怒られ過ぎて逆に仲良しになったとかって聞くよ」
「あー……まあ寺戸も、なんか昔ワルかったんだよ俺感出してるもんね……」
「仲間意識芽生えちゃってんじゃない。クズ同士、相惹かれ合う的なっ……」
「ちょ、クズは言い過ぎじゃないー?」
「そのうち愛だって芽生えちゃうかも」
「それはさすがにきもい。ガチのほうにキモイ」
くすくすと、会話が聞こえる。
聞くともなしに聞いていると、
「よしまさ」
そう、シャツの後ろ襟をそっと引っ張られた。
「……?」
「行く必要、ないよ」
不安げな面差しの花蓮だった。
「行かないさ。その理由がない」
俺の返答に「うん」となおも心配そうに頷くと、花蓮はまた自分のグループへと戻っていく。
そのとき、鞄の中に入れていた携帯電話が震える音が聞こえ、
──なにか届いたよ。
きみからもそう教えられ、鞄から携帯を取り出し、教室を出る。廊下を歩きつつ画面を見ると、そこには『ねえ、次はいつ会える? 私、数分も待てないんだけど』とのメッセージ。
「……」
何も理由がなければ、花蓮の言う通りに俺は行かなかっただろう。
──なにそのメッセージ。めんどくさい彼女か、っての。
だが、理由ができた。
ああ──なんという、奇貨か。わざわざ人気のないところで、俺を待っていてくれるのだ。
──さっきの光景を見た人たちはみんな、体育館裏で由正とあの怖がってほしがっている誰かさんが二人きりになるって知ってるよ。二人しかいない空間で、片方が妙なことになったら……周囲の人たちは誰が犯人だと思うかな? 気を付けなきゃ。
……確かにな。
もう少し、別の方法を探るか。
そう、きみの声を聴いている────と。
「延寿由正──校内への携帯電話の持ち込みは校則により禁じられている」
突如、横合いから入ってきた手が、手に持っている携帯を掠め取っていった。
見覚えのある、彼女もまた上級生……
「没収、だ」
厳格な言葉とは裏腹に、表情は親しみに満ちている。
「すみません……獅子舘さん」
『NEST』のアプリは既に閉じており、画面もロック済みだ。見られる心配はない。そもそもが、彼女は……「ほら」没収した携帯を差し出され、受け取る。「没収は終わりだ」彼女は自らの役柄通りに振舞うには、情が厚すぎる。
「二回目だぞ。憶えているだろう?」
「はい」
「三回、私に注意を受けたら──お前にも風紀委員に所属してもらう」
そのような約束を、一回目のときに取り交わしたのだ。
「ルールをどうやっても守らない人間は、守らせる側に回してしまえばいいんだ。それでもルールを守らないのならば、その者は自らの口から出ていく規則順守を強いるお言葉で自分の身体を切り刻むだろうからな。言っておきながらお前自身が守れていないじゃないか、という軽侮の視線と共に……遂には耐え切れず、規則に隷属する者の出来上がりさ」
一度所属してしまえば辞めたいといっても逃がさんぞ、と彼女はククと笑う。
「逃げるつもりはありません」
何からも、何であろうと、逃げるつもりはない。
逃げるのは、逃げたのは……最初の一度だけだ、最初の一度だけで……今も逃げ続けている。
──もう。あまり私を見続けるのは、やめなさい。虚空を見つめるおかしな人だと周りに学ばせちゃったら取り返しがつかないよ。
きみの死から。
「ま、なんであれ期待して待っているよ。歓迎の用意はできているからな」
そう言うと、獅子舘椿姫は何処かへと歩き去って行った。
去りゆく後姿、その後頭部に結った髪が機嫌良く揺れている。
……強く在ろうと、彼女はしている。その姿勢は、かつて味わった恐怖と嫌悪の反動だ。汚穢のような過去に蝕まれ、それに打ち勝とうと反逆の意志を奮っている。
それが、納得のいかない過去だったからだ。
──スタイルいーなーあの人ー。でるとこでてるぅーうらやましー。
納得、できなかったからだ。
もっと良い終わり方があったんじゃないか──と、悔やみ続けているから、こんな……こんな…………。
──由正。いくらスタイルが良いからって、女の子のお尻ずっと見続けるのはどうかなって思うんだけど。
……これ以上は、踏み入る必要のない思考だ。
内省に耳を貸したところで、ソレの訴える言葉なんて知れている。俺を止めるものの言葉に、なぜ俺が耳を貸さなければいけない? 踏み出した一歩はもう過去にある、手が届く先に可能性が待っている、今は過程だ……邪魔を、するな。
善性も、良心も、後悔も、今は待ち、そのときが来るまで袖で待ちわびて、そのときが来れば……一斉に、一人の、独善で、高慢な、頭のおかしな男を、罰し、潰し、嗤って、一場のつまらない賑わいだったんだと、忘れ去ってくれ。