顔切ラレ男(決定)
延寿の怒気に当てられたのか、原井和史もまた、微かな怯えを隠すかのように歯を食いしばり口を非対称に吊り上げ、片目を痙攣させながらも、
「俺さ、まともな進路なくなっちまったみたいなんだよね」
言う。歯を剥き出しに、怒り心頭が笑みにまで届いたがゆえの満面の笑顔だった。彼もまた激怒していた。笑みの仮面を無理に被ろうとしてはいるものの、この上なくとんでもなく怒っていた。
「お前のせいでな」
手に持っていた果汁100%のリンゴジュースの空を延寿に突き付けて、さも決め台詞のように和史は言う。「あの後警察が来て、クスリの出どころやら何やら聞かれて、いや尋問されてさ、俺たちゃ立派な問題児だ」
「もとからだろう」
「黙ってろ死ね!」
延寿の言葉に暴言でもって応じキレて、和史は言葉を続ける。
「寺戸のエンコー野郎にゃ説教受けて、親を呼ばれて、警察にはつっまんねえ説教垂れられてさあ! しまいには校長まで出張ってきやがって、言われちまったんだよ! 『お宅の息子さんは厳しいかもしれません』ってな! 厳しい、はっ! なにがキビシイんだろうなあ!! 一番言いたくない部分をボカしやがってよお! ああ腹立つ! 腹立つんだよッ!! なにも、かもがッ! お前のせいだよ全部全部全部ぜんぶ!!!」
怒鳴り散らす和史を、延寿は退屈な映画を流し見るかのように眺めていた。直前の怒りはすっかりと抑えきってしまい、今の彼は常の鉄仮面をかぶることに成功している。いつもの彼のその口からは、冷えた言葉がいつものごとく淡々とした語調で繰り出される。
「自分の将来の芽を摘んだ手が、きみには他人の手に見えているのか」
呆れもせず、怒りもせず、哀れみもせず。
「自分の手で摘んだのだと自覚したほうがいい」
機械的に、無機質に、人間味なく。
そうとは意識していないが為の、最も相手を傷つける正論を吐く。
「黙ってろって言ってんだろうがぁ!!」
目を見開き、口からは唾を飛ばし、凄惨な形相で叫ぶ和史は、けれども延寿に掴みかかることをしない。以前の一件により暴力沙汰では敵いようのない相手だと本能で理解し、力でもって悲痛を訴える手段を自ら抑制していた。
身振り手振りで大袈裟に大仰に、自身の境遇の悲惨さを訴えて、和史本人ですらもはや分からない何かを得ようとし、発散させようとしていた。
ただ、そんな和史の痛みに満ちた叫びは、
「そんなことよりも、原井和史──俺に、教えてくれよ」
今の延寿にとって何の価値もない光景だった。
もとより自業自得だ。もとより身から出た錆だ。歪を是正しようとしなかった代償だ。そんなことよりも……そんな心底どうでもいい事情よりも。
「なんで、あのぬいぐるみを」
延寿は踏み出し、踏み出したその挙動に怯えた和史の腕を掴む。
「『読鳥ん』を」
逃げようとした顔切り犯の腕を逃がすまいと一層の力を込めて。
「切ろうと」
あくまで冷静に、人間らしさの欠片もなく冷ややかに、
「思った?」
訊ねる。
なぜ、あのぬいぐるみをターゲットに選んだのか。
あれの名づけにほんの少しでも延寿が関わったことを知っていたからか。
あれが安寺冬真が製作したものだと知っていたからか。
あれが鷲巣花蓮が必要としたものだと知っていたからか。
親友たちを亡くしたばかりの花蓮が所有するものだと知っていたからか。
なぜ、切った? どうして切った? 切ろうと思った?
「答えろ──お前はなぜ、あれを切ろうと思えた?」
ああ、と延寿は理解した。自覚した。
この、今の俺のこの行為は──八つ当たりだ。親友は顔を切られた。切ったのはガイドだ。読鳥んは同様にして顔を切られた。切ったのはこの男だ。ガイドに向けている怒りの一部が、このぬいぐるみ傷害事件の犯人にも向けられている。八つ当たりだ……正し……いの、だろうか、これは。
「ッ、……! クソが、クソっ……!」
怒りと怯えがない交ぜになり、和史は歯噛みし目からは涙を流している。
何も言えずにおろおろとしていた悟志と裕士の後姿が離れ行くのが見えた。場の異様さに恐れをなして逃げていくのだ。教師を呼びに行ったのだろうか。それとも単に逃げたのか。
「お前が、言ったから……! お前が寺戸の野郎にチクりやがったからッ……!」
原因は俺だ。延寿は既に分かっていたことを再び理解した。
何故だかは知らないが、何処で聞いたかも分からないが、あのぬいぐるみに延寿が関わっていることを知ったのだろう。そして怒りが湧いた。ぶつけられない怒りを、代わりにぬいぐるみにぶつけた。……今の俺のように。嫌悪が湧く。愚かしき自らと同等の愚かしき行いをしてしまった同類への、憎悪だ。なぜお前は、俺ごときと同じ過ちを犯してしまったんだ?
「そんな理由でか」
あれに冬真や花蓮たちが関わっていたのにも関わらず。関わらず、だ。
「む、むむムカつくんだよお前ぇっ、いつも自分が一番この世で正しいってツラでいやがる! 俺たちみたいなひねくれた奴らを見下してやがる!! どうせ馬鹿だと思ってんだろ、どうせ俺たちみたいなろくでなしはロクな将来がねえって思ってやがるんだろ!」
泣き喚くその姿が、ひどく無様で情けなく見えた。
「……誤解だよ。原井和史」
この言葉が相手を突き放すものだと延寿は知っている。知っていてなお、
「俺はきみの行動の正しきか如何かだけを見ている。それ以外は見ていない」
口にする。行動が正しいか正しくないかだけに関心があり、人格も過去も将来も感情も吐露も全てにおいて興味が湧かない、と主観的に相手が延寿個人にとってどうしようもないほどに価値がない存在なのだと言い伝えた。ともすれば相手は延寿へ向けている表層的な怒りの、その無意識下に己を理解してもらいたいという望みがあったかもしれないというのに、思い切り突き放してのけたのだ。その振る舞いがいかに残酷なのか、延寿当人が自覚しておきながらも。
「……!! クソっがあああああああああああああああああああ!!」
言語化できない感情を咆哮に乗せ、和史が掴まれていない方の手を振りかぶり、
「おい!! 何をやっている!!」
聞こえた怒号に止められた。
生徒指導主事の寺戸昌夫だった。その少し後ろに悟志と裕士が縮こまって控えている。その更に後ろに椿姫が毅然とした表情で佇んでいた。
振り上げた手すら和史は下ろせず、拳をぷるぷると震わせたまま、
「う、っぐ、あああああああああぁぁぁぁぁ……!!」
大口を開け情けなく、無様としかとれない表情で泣き始めた。身も世もない、体裁も矜持も皆無の号泣だった。
「風紀の延寿に、原井か」
寺戸が近寄り、喧嘩の当事者二人に視線を送る。
大泣きする者と無感情に睨みつけてくる者の二者がいたとき、一目見た時の情は大泣きする者へと多くの場合は向けられる。寺戸もまたその多数の中の一人だった。
「俺は常々思っていたが、延寿、お前はやり過ぎるところがあるぞ」
まず窘められたのは延寿だった。
延寿はボロボロに液体を垂れ流しながら幼児のように泣き続ける和史を一瞥し、
「……すみません」
ひとこと、謝った。不正に対する糾弾に加え、延寿個人に溜まっていた苛立ちの矛先を向けてしまったのもまた事実だった。故の謝罪だった。ぶつける必要のない怒りまでぶつけてしまった。ぶつけられる相手だと判断してしまった。
「ほお、珍しく聞き分けが良いな。安寺の弟が殺されて、さすがにお前もショックを受けているのか」
「……」
寺戸の表情には物珍しさと微かな嘲りがあり、そこには安寺冬真への弔意はひとかけらも見受けられない。くだらない人間がくだらなく死んだ、それだけのように見えた。
「しかし安寺兄弟と言い、ロ高の殺人と言い、ガイドはろくでなしばかりを殺している」
延寿はその言葉に自身が寺戸に向けて一歩踏み出していたことを、
「やめておけ」
椿姫に片腕を掴まれ止められて初めて気づいた。よほどの力を込めているのか、腕が圧迫されている。「今は抑えろ。お前が不利になるだけだ」見つめ、小声で言う椿姫の頑なな視線に、延寿は立ち止まる。知らず知らずのうちに、ギリと奥歯を噛み締めていた。
「ほら、行け。延寿も、獅子舘も。昼休憩はもう終わるぞ。原井は俺が話を聞いておく」
そして延寿と椿姫の二人は、泣き止まない和史と面倒そうな寺戸を残してその場を立ち去った。
「お前は泣かないのか。お前があれぐらいにみっともなく情けなく無様に惨めに泣き喚くところも見てみたいものだが」
昇降口へ向かう途中の、そんな椿姫の無遠慮な言葉に、
「その理由がない」
延寿は答えると、眉間の皺を更に深くした。
「その皺、教室に入る前に伸ばしておけよ。今のお前、獣みたいな目つきだぞ。見つけ次第人間を喰い殺して回りそうだ。一クラスまるっと喰い殺してしまうんじゃないのか」
別れ際、そう言う椿姫の表情はどこか嬉しげだった。