涯渡のお願い
文化棟へ続く道のりはまったく短く、如何な危険も生じない。
第一校舎棟の生徒昇降口から出て、第一校舎棟と第二校舎棟の側面に伸びている道を通れば、ちょうど第二校舎棟の真北であり真裏に隠れるように佇む文化棟へと辿り着く。雨天はわざわざ雨に降られながら行かねばならない、第二校舎棟から渡り廊下を延ばしてくれとそこに収納された諸々の文化部の生徒たちが口々に愚痴りこぼす独立した三階建ての建物である。
曇天の本日、半端な夕暮れのもと、延寿は文化棟へと向かっていた。
姿勢よく無言で、自覚が薄いながらも険を含んだ目つきの長身の、風紀委員として知られている彼がざっざっと舗装された路上を歩きゆく姿の他にどの生徒の姿も見られない。第二校舎棟の最上階、その最も端側に位置する部屋にある開かれている窓、そこから彼を何とはなしに眺め見ている者以外に、彼の姿を遠巻きに窺う人間はいない。
そして、文化棟へと延寿が入り。
オカミス研究部のプレートが掲げられている扉の前に立った時、タイミングを合わせたように扉が開かれ、「あ、延寿くん」とからりとしたいつもの調子の声で名を言われ、泣きぼくろの印象的な眼元がすぐ真下にあった。涯渡紗夜、現生徒会長だ。
「どこかへ行くんですか」
「うん。お手洗い。お茶飲みすぎちゃった」
「はい」
「ふふ、『はい』だけだなんて。相変わらず延寿くんは淡白だなー」
延寿が身体をどけると、「ところでね、延寿くん。私、廊下走ってもいい?」紗夜が聞く。「ちょっと危ない感じがする」
危ない感じとは。
延寿は眉間に皺を寄せ一瞬の逡巡をすると、
「……廊下を走ってはいけません」
そのように答えた。
「容赦ないなーもー」
くすくすと笑いながら、紗夜は文化棟内に設置されたトイレへとのんびり歩いて向かって行った。余裕はだいぶありそうだった。からかわれただけなのだ。
「由正、お前の言葉は正しい」
部室内に入ると、既に室内にいて、尚且つ今の会話を聞いていたらしい椿姫がそのように笑みを含んだ。「たとえ走らずにいて漏らしたとて、それは涯渡の自己管理の甘さが原因だ。そこに容赦の必要はない。非は相手にある──正しく在り続けたければ、非情であり続けるべきなんだよ」
冗談めかして笑うと、椿姫は「さて」といつものポニーテールの房の位置を若干整え、「座ろうか」延寿を促す。
「今日、黒郷さんは?」
座りつつ延寿が訊ねると、「図書委員の方に用事があるようだ。なに、好都合だよ。涯渡が指名したのは由正と私の二人だ」延寿の真ん前に座り、椿姫が答える。
十分ほど経ち、紗夜が戻ってきた。「間に合ったか?」椿姫。「ぎりぎりかな。あと一メートルぐらい遠かったら駄目だったと思う」紗夜。「それは惜しい。もう少しで生徒会長殿の弱みを握られたというのに」椿姫。延寿は無言だ。その会話に入ろうとすら思っていない。入ったところでここぞとばかりに先輩二人が手を取り合うだけだと知ってもいる。「考えが甘いよ椿姫。もし駄目でも私はそれと分からせないようにする……現に今だって、駄目だったのを隠してるかもしれないんだよ? あるいは、そうなってもいいような対策をしている」紗夜。挑戦的な瞳で椿姫を見つめている。「……おむつか?」椿姫。「それはどうだろうね、私がそんなもの履いていないと言っても、それは嘘かもしれないし、実際見てみるまでは明確な答えを出さないほうが良いって、私は思う。他人の言葉だけで探ろうとする真実は危険だよ、その場合の真実は、その言葉を放った本人がそうなるように仕組んでいるだけなのかもしれないから」紗夜。延寿は黙っている。眼の前で繰り広げられる神妙な振りをしているふざけた会話の締めを、ただ待っている。「由正、答えを出せ」すると巻き込まれた。延寿の眉間に皺が寄った。「答えを出したいのなら、出してもいいよ」紗夜が嫣然と言い、スカートの裾を整える。「でも延寿くん、答えを出すという行為には、私のスカートをめくるという過程を経なければならない。もしも私が中にハーパンを履いていたら、それを脱がせるという過程も加わる。そうしてようやく、答えが出せる……延寿くんなら分かるよね? その行為は、一応同意のもとではあるけどなんか正しくないってことが。その答えの出し方は、延寿くん的には多分この上なく不本意であることが……」紗夜の表情は真剣そのものだ。椿姫は少し笑いが滲んでいる。「それを踏まえた上でね、延寿くん」
「きみに今、答えが出せるかな?」
紗夜の視線は真っすぐに延寿を見つめる。
対する延寿も紗夜の視線を受け止め、見返し、
「……心から欲する答えがそうでなければ出せないのなら、俺はそうします」
答える。にぃ、と紗夜の双眸が細まる。望んでいた答えが聞けたとばかりに、満足げに。
「この場合は?」
「この場合は違います。早く本題に入ってください」
延寿が言うと途端に紗夜の相貌は崩れ、「うん。そだね。ごめんね横道に逸れちゃって」と笑い、「まあ、今のも本題みたいなものだよ」そう付け加えた。「生徒会長殿のスカートを合意のもとでめくれる機会をわざわざ無下にしたのか」椿姫。延寿は無視した。「いいんだよ椿姫、延寿くんはいつだって答えを出せるし、私はいつでもそれを聞く準備はできている」紗夜。
「待ってるからね」
そう紗夜は延寿へ笑いかけると、何事もなかったかのように席につき、表情を改めて、
「今日、二人に集まってもらったのはね。ひとつお願いがあるからなんだ」
そう言う。
風紀委員のトップである二人の視線を受け、生徒会長たる涯渡紗夜は真剣に、無機的に感情の排された乾いた真面目さでもって、
「或吾高校内に、どうもガイドの模倣犯がいる可能性があるんだよね」
そう口にした。
「模倣犯……?」
馬鹿々々しい。延寿の思考を過ったのは、まずそのような苛立たしさだった。
歪を真似るなど。不正に倣うなど。愚か。浅薄。不要な決心を経た、誰の為にもならない徒労。
「そ。模倣犯。真似っこの誰か」
はーあ、と紗夜は呆れたなあとばかりに溜め息を吐き、もっともらしく肩を落とした。
「どうして或吾の生徒だと分かった?」
椿姫が訊ねる。
「うちの制服にさ、校章の入ったボタンがあるよね。あれが落ちてたの。落ちてたっていうか、縫い付けられていた」
「どこに?」
椿姫がさらに聞くと、紗夜はさも不愉快そうな事柄を語るが如くに眉をひそめ、
「身体だよ。どこかなんて聞きたくもないけど、殺された人の皮膚に直接縫い付けられてたんだってさ」
そのように答える。
「校章の入ったボタンがあったからと、必ずしも或吾の生徒の仕業とは確定できません」
延寿が言うと、
「そうだぞ。そのような身元がバレバレの手法を使うとなれば、そもそもが或吾の誰かということにしたい或吾以外の人間の可能性だってある。或吾高校に敵愾心を持っている誰かだ。どこで恨みを買っているか、分かったものじゃない」
そう、椿姫が追随する。
「まあ、そうもなるよね……二人に頼みたい事というのはね、或吾高校の生徒内で疑い深そうな人を、それとなく私に教えてほしいの。なにか怪しいな、とか挙動不審だな、って人をね」
延寿と椿姫へ視線を巡らせ、紗夜は更に言葉を続ける。
「私もいないとは思いたいけどさ、なにぶんね、或吾のボタンがあるから、どうしても或吾高校と結び付けられてしまうんだ。それはちょっと或吾高校のイメージ的にすごくよろしくないから、模倣犯が誰なのか、或吾関係者なのか、ちっとも違う別の誰かなのかだけでも見当をつけておきたくて……或吾の関係者が完全にシロだという証拠が手に入れば万々歳なんだけど……あ、そこまで厳重にしなくても良いからね。本格的な捜査は警察とか先生方とか、大人の人がするから。椿姫と延寿くんから見て怪しいなーって人を教えてくれるだけでいいの。大丈夫。私も短慮な行動はしないよ。二人の情報を基に熟慮して、考えた上で動くつもりだから」
それだけ、と紗夜が眼を細め、微笑む。
「さすがは生徒会長殿だな。或吾の敵となり得る人間に容赦なしか」
「だって進学とか就職とかに悪影響があるんだよ。私や椿姫も、後輩の延寿くんたちにも。だから早めに発見して、早めに事態を収拾させたいの」
「協力してくれる?」と紗夜は延寿を見る。
「分かりました」
二つ返事に延寿は頷く。今の彼にとって『案内人』は憎き相手であり、ましてやソレを真似ようなどと宣う輩は等しく愚かに映った。故に、早急な発見と速やかな是正を。
「ありがと、延寿くん。きみも大変な時なのにこんなこと頼んじゃって……椿姫もごめんね、巻き込んじゃって」
言葉とは裏腹に協力者を得てこの上なく嬉しげに、紗夜はそう言うと、
「もし疑わしい人間がいたら、すぐに私に教えて。私をほっぽって事態を収拾させようとか、そういうのダメだからね」
人差し指を立てて念を押すように、そう言葉を締めた。
「ふうん。それなら、もしも生徒会長殿を仲間外れにした挙句、何の断りもなく私たちで模倣犯を捕まえた場合、どうなるというんだ」
椿姫がにやにやと親しみある問いを投げると、紗夜は「うーん」と唇に指先をあて、ちらと延寿に視線をやると、
「すごく、拗ねるよ」
にん、と笑みを向けた。
「あははっ、機嫌を損ねられたら困るな。由正、そういうわけだ、独断先行は禁止だぞ。お前ならしかねないから今ダメだと言っておく」
ぱし、と椿姫は延寿の背中を軽くはたき、
「そうだよ延寿くん、勝手に先走ったらダメだからね。模倣犯と言っても、人殺しは人殺しだから、危険だよ」
と紗夜が微笑み釘を刺す。先輩二人に念を押され、延寿はいかにも不承不承と言ったふうに憮然と眉をひそめ、「分かりました」と頷いた。
「言質とったぞ」「言質とったよ」
重なる返答。延寿の前には、二つの親しみある威圧的な微笑があった。