親友ノ
『案内人』が去った後、雨合羽を着た数人の警察官が伊織に連れられてやってくるまで、その場で呆然と立ち尽くしていた。
袋小路から見上げた空は狭まっていて、落ちてくる雨粒が容赦なく延寿を……彼の見つめる親友とその想い人の亡骸を打ち濡らしている。いくら眺めようとも、何時間何十時間何百時間を彼らへの注視に費やそうとも、もう起き上がることはなく言葉を発することはなく笑うことはない。分かり切った事象だ。死は巻き戻らない。そんな当然を、延寿は確と理解している。……ただ、引き起こされた事態の理解把握とその経緯への感情的な納得は必ずしも両立するものではないだけだ。
「っ……」
警察はその有様を視界に入れると一様に息を呑み、延寿へは一瞥のみで──『案内人』が引き起こした惨状に憐れにも立ち会ってしまった民間人だと捉えて──何も言わず、無線機を片手にただひとこと──「ガイドが出ました。一人、です」とだけ伝えていた。
ガイド。ガイド、だと。制服をきちんと着込み身だしなみばっちりでにこやかな笑みを浮かべて説明を行う人物を想起するようなその単語を、さも野生動物のように取り扱っている滑稽さに、延寿は燃え盛る炎に注がれる油を幻視した。どこまで、ふざけているのか。いったい、どこまで。
「なんだ……これは」
「これもガイドが……いやこれは、ひ、と……!?」
転がっているぬいぐるみが、それがどんなに歪んだ代物であるのかに気付いた警官が顔をしかめ、一人は口を押えて目を逸らしてすらいた。不愉快なものを見る目だった。ああそうだ。それは不愉快なものなのだ。それが正しい。それが正しい。
汐音の詰められた胎児は真横に真っ二つに断たれ、地面に落ちた片側からは黒い毛髪やら、赤黒い臓物だとか、皮膚やら、目やら、中身が零れ出ている。バンズで挟み込んだサンドを真っ二つに切ったかのように、その断面は綺麗に層を成していた。
そのすぐ傍には、顔を斜めに断たれた身体が転がっている。
断たれた胎児の半分を大切そうに抱えて仰向けに、倒れている。
口の端を吊り上げた凄烈な笑顔のおよそ半分が地面にべちゃりと落ちていた。死してなおの形相だ。望みは叶ったと、望みは叶ったんだ! と、その笑顔は、しきりに延寿へと語りかけてくる。……叶った、ものか。
「ひどいことをするね」
いつの間にかすぐ近くに伊織がいた。青い顔で口を押えていた。「吐きそう」
「なら、見ないことだ」
「後ろに隠れさせて」
返答を待つ様子もなく、伊織はさっさと延寿の背中に隠れて、視界に〝ひどいこと〟を入れまいとした。その〝ひどいこと〟とはどこにかかっているのだろう。冬真が行った桐江汐音の死体を詰めたことか。それともガイドが冬真を殺していったことか。
「延寿は……大丈夫?」
背中からの心配そうな問いかけに延寿は確と視線を親友の残骸から逸らさず、
「……なにも、問題はない」
答える。
問題ない。そう、問題などどこにもない。
我が正しさが、一つの指向性を持っただけのこと。
殺意、と呼ばれる矢印が、『案内人』へと向けられただけのことだ。問題ない……わけがない。『案内人』が人ならば俺は人殺しになろうとしている──それではいけない。
「本当に?」
「ああ」
いけないのだ。
人殺しは法が禁じる。殺人罪に問われる。正しきに反する。
警察官の一人──さっき口を押えていた方が──やって来て、事情聴取の時間をもらった後に家まで送り届けるとのことだった。延寿が殺したとも、伊織が殺したとも、警察は端から思考にない様子だった。彼らの中では『案内人』が殺したのだと確定していた。
安寺冬真を、桐江汐音……は違う。桐江汐音は、さっき見た現場で起こったらしき交通事故の時に死んでいた……のだろう。それを冬真は見て……縋る先として『案内人』を頼ろうとし、実行した。
「……ボクは、心配してる。これ言うときっと……お前は余計な心配をするなとボクに苛立つだろうけど、言うよ」
言葉を選びつつ恐る恐る、伊織は、
「早まるなよ」
なにを早まるというのか。
「無用な心配だ」
正しくないのだ。
明らかに不正だ。歪だ。
だから俺はそのような行為をしない。早まらない。
たとえ──
「俺はきみの心配するような行いをしない」
殺したいほど憎くとも。
事情聴取は個別に行われて、住所やらここに至るまでどこで何をしていたかを聞かれてすぐに済み、延寿たちは警察からの同情の言葉を向けられた後に帰宅となった。共にパトカーに乗せられて、延寿が下りたときには伊織はまだ乗っていた。延寿よりも家が遠いようである。
携帯に届いていた幼馴染からのメッセージを見、着信も入っていた。かけ直し、延寿は事態の一部を説明した。起こった事態の全てではない。桐江汐音が交通事故で死に、安寺冬真が『案内人』に殺されたことだけを単調な言葉で伝えた。
それ以上の詳しい内容を彼女に聞かせることができず、延寿自身もまた話せるような状態ではなかったのだ。説明する言葉は不自然なほどに単調で、自分の口から出ている言葉なのに薄情に聞こえてならなかった。電話の向こうから聞こえた驚愕と落胆と嗚咽に、……いったいどんな言葉を返せばよかったのだろうか。何を言ったところで、それは正しい響きを持ってくれないように思えた。
一連を報道したニュースを、延寿はその後に目にした。死亡者は三名だった。
安寺冬馬と、桐江汐音。……そして、トラックの運転手──名も聞いたことのない誰か、の三人。桐江汐音は事故死。あとの二人はいずれも、殺されていた。刃物による殺傷とのことだ。
……この事実は、ひとつの仮定を浮かび上がらせる。
トラックの運転手がどのタイミングで死んでいたのか。
トラックの運転手は誰に殺されたのか。まさか殺された後に死体がトラックのイグニッションキーを回してエンジンをかけ、アクセルを踏んだわけでもあるまい。ならば走行中に殺されたのだ。走行中の車内にいる人間を殺せるような何かが下手人となり、制御の利かなくなったトラックは……歩行者を。二人の歩行者を撥ねようとして……ひとり、犠牲になった。
走っている車の運転手を殺す、そんな芸当を果たして誰ができよう。
やはり、『案内人』の仕業ではないか。
やはり、あの歪の所業じゃないか。全てが。
炎の勢いが強まるのを、延寿は身体の奥底に感じた。
この炎はきっと、『案内人』を燃やし尽くすまでは消えないという確信と共に。
別で起こった『案内人』の被害(これもまた、驚愕というに相応だった)一件と合わせれば、この日殺人鬼に殺された人数は、不運にも事故死した一名を除けば、三名である。